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最初の一報は、バスの中で聞いた。
そのバスは、バングラデシュ南西の街クルナから、首都ダッカへ向かう、
およそ9時間の行程の、だいたい中間地点に差し掛かっていた。
友人からのメール着信を示すランプが灯る。
「緊急」と書かれたタイトルと、
「震源地は三陸沖、宮城県北部で震度7」の文字。
すぐさま、仙台の実家の番号をダイヤルする。
が、繋がらず。
その後も、数回に渡り電話をかけるが、コール音は鳴らない。
メールを入れてはみたが、やはり返事は無い。
ただ、このときはまだ、
これほどまでに甚大な被害が出ていようとは、想像だにしていなかった。
オンボロのバスは、対向車との正面衝突の危機を何度も迎えながら、
そんなことは日常茶飯事と言わんばかりに、
のどかな田園風景に囲まれた一本道を、猪突猛進していた。
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ダッカでは、ある程度まともな宿を確保することにした。
状況を確認するために、テレビくらいは見れた方がいいだろう、
そう思ったからだ。
はじめに映ったのは、CNNが地震を伝える様子。
「世界で五本の指に入る巨大地震が日本を襲った」
そう繰り返し報じていた。
かろうじてネットが繋がり、NHKも受信できるようになり、
さらに情報を集める。
わかってきたのは、とにかく地震後の津波の被害が大きいこと。
被災地域は非常に広範囲に渡り、ライフラインも壊滅状態であること。
仙台の実家は、海からは多少離れた地域にあるものの、
それでも、隣の地区で数百人の遺体が発見されたという報には、
やはり一瞬、息を呑んだ。
このときはまだ、仙台から、無事の報は届いていなかった。
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翌朝。
昨夜は結局、夕食のことも忘れてテレビに見入っていたので、
ホテルの朝食を摂りにロビーへ下りる。
すぐさま、バングラデシュ人の従業員が、声をかけてくる。
「おい、ジャパニーズ、昨日の地震は知ってるか?」
朝食の間も、他の滞在客、給仕たちが、次々と言葉を投げかけてくる。
「ごめんなさい、お悔やみを申し上げることしかできなくて」
「大丈夫。俺たちも去年、酷い洪水があったが、こうして立ち直った」
温かい言葉のシャワーを浴びながら、
ああ、この旅はこれで切り上げよう、と密かに思った。
元々、この日はマレーシアのクアラルンプールへ発つ予定の日だった。
そのままマレーシアに1週間ほど滞在し、その後帰国、
というのが当初のスケジュール。
2月末日に研究旅行に出てから、2週間が経とうとしていた。
残り1週間、このまま、旅を続けることもできただろう。
ただ、直観的に、それは難しいだろうな、と感じていた。
まだ、家族の無事が確認できていなかったことも勿論だが、
この、大きな “Pray for Japan” のうねりの中で、
一人の Japanese として、
安穏と旅を続けることへの、強い抵抗感が芽生えはじめていた。
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クアラルンプールから成田への便はすぐに手配することができた。
ダッカからクアラルンプールに飛び、一泊して、翌朝成田へ飛ぶことに。
成田便の欠航や遅延が頻発していることや、
首都圏の交通網も相当マヒしていることは伝え聞いていたが、
一昼夜空ければ多少回復しているだろうという希望的観測と、
それでもなお、足を止めるよりはマシだろう、という思いが背中を押した。
遠いバングラデシュの地から、
たしかにそのとき、生まれて以来、一番強く、
日本へ、そして3年間過ごした第二の故郷への思いが溢れていた。
その後、
実家からの無事の連絡は、成田便に搭乗する直前に入った。