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大学院生の本分は、やはり論文の執筆、ということになる。
少なくとも、酒を飲んで、旅に出ることではないことは、
一応、重々承知している。
この文章を、酒を飲みながら、旅の準備をしながら、
いそいそと書いているとしても、だ。
さて。
そんな論文の執筆には、いくつかの作法というものがある。
そのひとつが、「先行研究」についての記述。
論文と言うと、ノーベル賞レースなんかを見ていると感じるのが、
誰が最初に言った言わないの、いかにも、アイデア勝負的なもの、
という印象を世間は抱いているのではないか、ということ。
だが、この世界、
自分の研究分野における過去の研究者の成果を、
無に帰すことはあっても、無視するということはできない。
これまでと全く逆転の発想から生まれたものであっても、
過去に無い、ということを証明するために、
過去を徹底的に調べ尽くさなければならない。
もちろん、調べる過程で、インスピレーションを得ることもあるだろう。
そんなときに、パクるのはどこの世界でも御法度だ。
そういう場合は、引用することで、出元を明らかにするのが通例だ。
引用の全く無い論文は、オリジナリティに溢れている気もするが、
実は、先行研究の調査が不十分なだけ、というケースも少なくない。
ただ、そんな引用の仕方については、ルールがあるようで実は無い。
政治家の発言の前後をカットして、さも失言のように見せかける、
なんて操作をたまにメディアがやってたりするわけだが、
残念ながら、そういうことが論文でも十分に起こりうる。
引用元が示されている分、検証は容易ではあるのだが、
全ての論文について、引用元を全て検証して、
さらに、引用元の論文の引用元についてまた検証して、
…と辿っていくことは、実質的にはほとんど不可能に近い。
かつて、自分で埋めた土器を掘り出して大発見を捏造した、
ゴッドハンドの事例を引くまでもなく、
結局は、研究者の良心に依るところが極めて大きいのが実情だ。
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一方、中身についての作法も。
特に、自分のようなアジアをフィールドに研究していると、
良く言い含められるのが、アジア研究=安易な西洋批判にはなるな、
ということ。
わざわざアジアを研究するような連中というのは、
どこか斜に構えたところがあるというか、メインストリームに抗う、
みたいな美学を持っている部分が往々にしてある。
が、それが、特に若いうちは滲み出過ぎてしまって、
アジアの諸問題を突き詰めていくと、西洋からの影響が大きい、
というような結論、とも言えない精神論に陥りがちだ、という。
たしかに、「資本主義経済はもう限界だ」、
なんて、声高に叫んでみたところで、
実際に、資本主義が、現代社会の諸悪の根源であることは、
なんら証明が成されたわけでもない。
みんなが心の何処かで、仮にそう思っていたとしても、
そのことは、論拠としては何の足しにもならない。
学術的文章において、その種の曖昧さはタブーなのだ。
そして、それを前提に論が組み立てられている場合などは、
その論自体が結果的に砂上の楼閣に過ぎないことになってしまう。
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ただ、困ったことに。
自分自身は、そんな曖昧さが、結構好きだったりする。
虚言妄言で大衆を煽動するような文章が書きたいとは思わないが、
世界の何もかもを明らかにしないと気が済まない、
というのは、人間の驕りのような気がしている。
どうやら、素直に学究の徒では居続けられそうにないが、
郷に入っては郷に従え。
まだもう少し、ここでやりたいことがある。