2014FIFAワールドカップ、ブラジル大会が開幕した。
開幕カードは、開催国ブラジルがクロアチアを3-1で破って幸先良いスタート。
これから、7月14日の決勝まで、1ヶ月に渡る熱戦が繰り広げられる。
今回のブラジルW杯、ちょっとだけ現地観戦を考えて、
念のためかかる費用を試算してみたのだが…
少なくとも50万円は下らない、という結果となり、あえなく断念した。
日本ブラジル間の往復航空券はそれほど高騰しているわけでもなかったが、
とにかく、ブラジル国内の国内線と宿泊が異常に値上がりしていた。
インフラ整備の遅れも指摘されており、交通・宿泊の面では、
おそらく、多くのトラブルが頻発することになるのではないかと思われる。
さて。
このコラムで、国別の戦力分析などをしてみたところで、
さほどニーズは無い、というか、場違いであることは承知しているので、
ここは少し目線を変えて、せっかくの機会なので、
ブータンのサッカー事情について紹介してみようと思う。
ブータンは…
現在、FIFAランキングで最下位(207位)タイ。
同率でサンマリノとタークス・カイコス諸島と並んでいる。
ちなみに、タークス・カイコス諸島なんて初めて聞いたが、
どうやら、西インド諸島に位置するイギリス領、らしい。
ランキングポイントは0ポイント。
これは、直近48ヶ月の間に、全敗(引き分けもなし)していることを意味する。
今回のワールドカップの予選には出場すらしていない。
以前のコラムでも触れたことがあるが、
ブータンは、かつて、2002年の日韓ワールドカップの裏で、
「The Other Final」を戦ってちょっとした話題になったことがあった。
ときは、W杯本大会決勝と同じ2002年6月30日。
場所は、ブータンの首都ティンプーのチャンリミタン・スタジアム。
当時のFIFAランキング202位のブータン代表が、
ランキング最下位(203位)のモントセラト代表を迎えて、
国際Aマッチとして、公式に「最下位決定戦」が行われたのだ。
ちなみに、Wikipediaでは、同試合の観客数が25,000人と記してある。
同スタジアムの公式な収容人数も25,000人となっている。
が、現地を訪れたことのある実感として、
どう考えてもこの数字は盛り過ぎではないかと思われてならない。
日本で、同規模のスタジアムを探したところ、等々力陸上競技場が該当した。
比べてみると…
スタンド部分の収容人数は割といい勝負に見えるが、
等々力が四方スタンドで囲まれているのに対し、チャンリミタンは半分しかない。
多めに見積もっても、15,000人程度と思われるのだが…
真相は、今度渡航した際に、もし覚えていれば検証してみたいと思う。
試合結果は、ブータンが4-0でモントセラトを下して、最下位の汚名?は免れた。
ただ、モントセラトにとっては、完全アウェイに加えて、
スタジアムが標高2,000m超の高地に位置しており、
これがそのまま実力差か、と言われれば、やや疑問符の残る内容ではあった。
モントセラトは、現在、ランキング166位とジャンプアップを果たしており、
ブータンは大きく水をあけられているのだが…
もはや、ランキング150位以下は大した意味を持たないとも言われているので、
実際に再戦した場合には、どのような結果になるのかは未知数である。
この試合は、なぜか日本とオランダの合作で、ドキュメンタリー映画化されている。
もし関心のある方は、ご鑑賞いただきたい。
http://www.amazon.co.jp/dp/B0000ABAOZ/
最後になるが、
実は、ブータン代表の歴代監督を日本人が務めていることを、
知っているという方は、果たしてどれだけいるだろうか。
行徳浩二氏(2008-2010)、松山博明氏(2010-2012)と引き継がれ、
現在は、小原一典氏(2012-)が指揮を執っている。
氏の略歴や活動概況が、日本サッカー協会のホームページに掲載されていたので、
こちらも、興味のある方は、ぜひご一読いただきたい。
http://www.jfa.or.jp/jfa/international/dispatch/report/ohara.html
ワールドカップ本大会において、強国同士がマッチアップする様は爽快であり、
今大会も、多くの記憶に残るスーパープレイが生まれることを期待したい。
と同時に、ブータンのような、サッカー弱小国においても、
日夜、ボールを蹴っているサッカー少年たちがいる。
今度、ブータンを訪れた際には、
ちょっと彼らに混じってボールを蹴ってみるのも悪くない。
そんな新たな楽しみに思いを馳せつつ、熱狂の1ヶ月を過ごそうと思う。
先日、こんな記事がインターネットニュースに掲載された。
封建時代から一気に現代へ、ブータンを変える携帯電話
http://www.afpbb.com/articles/-/3013074
これについては、自身の研究対象にどストライクであったため、
何か物申すべき、と思ってあれこれ思案を巡らせてみたのだが、
まだまだ調査中で多くを語れないもどかしさもある。
あまり現段階で中途半端なことは言えないのだが、
過去に寄稿した文章で、このあたりに言及したものがあったので、
一部改訂を加えて転載してお茶を濁すことでご勘弁いただければと思う。
「ブータンの情報化」をテーマに研究をしている、という話をすると、
まず「どうしてそんな研究を?」という怪訝な顔をされることが多い。
「幸福の国」として語られることの多いブータンと、
「情報」という現代社会を象徴するような言葉とが、
上手く結びつかないのだろう。
たしかに、ブータンは近代化、特に先端技術を導入することに対して、
最大限の注意を払ってきた。
自然環境への負荷、伝統文化への浸食を最小限に抑えることが出来なければ、
経済的メリットを得られたとしても、結局は国民の幸福には繋がらない、
との考えからであった。
当然、情報化を進める上でも、慎重な政策が採られてきた。
かつて、ブータンの先代(第4代)国王は、
「欲望は人間が受け取る情報量と比例して増大する」と語ったという。
そこには、「情報」がもたらす影響力、
例えば、欲望を刺激され、過度の消費主義に走ってしまうことなどに、
強い警戒感を抱いていたことが伺える。
それは、「国民総幸福 (GNH=Gross National Happiness)」を提唱した、
先代国王自身にとって、最も恐れていた事態、と言える。
それでもなお、国家政策として情報化を推し進めなければならなかった、
その背景事情には、時を同じくして進行していた民主化への歩みが
大きく影響していると考えるのが妥当である。
「情報」が広く国民に開かれていることは、
「国民が、自らの良識に基づいた正しい判断を下す」ことを是とする
民主国家にとって、必須条件であったためだ。
このような経緯を経てブータン国民に与えられた「情報」は、
果たして彼らを「幸福」に導いているのだろうか。
学問的には、その問いに答えることは極めて難しい。
「情報」と「幸福」のあいだには、多くの間接的要因が折り重なっており、
その直接の因果関係を特定することはほぼ不可能に近い。
新しい「情報」、
例えば、隣国での生活の様子がテレビで紹介されることによって初めて、
自分たちの生活が相対化される。
つまり、彼らに比べて我々は貧しい、といった状況を認知することになる。
そのとき、人々の心に生まれるのは、憧憬や羨望だろうか。
そうしたプラスの感情が、ある種の原動力となって、
能動的に変わろうとするならば、
情報化はきっと国民を幸福へと導いていくだろう。
しかし、嫉妬や諦観に支配され、ネガティブな思考に囚われてしまえば、
その未来は決して明るくない。
「情報」そのものが善であったり悪であったりすることはなく、
全てはそれを受け取る人間の心一つ、ということになる。
さて、最後に一つ。
1960年代からはじまる、高度経済成長時代の日本。
その中に、工業化の次を見据え、技術革新によってもたらされる近未来社会、
「情報(化)社会」を夢想した先達がいた。
その中の一人、増田米二は、
情報(化)社会では、コンピュータが人間の知的労働を代替・増幅する、
という技術革新が、社会・経済構造だけではなく、
人々の価値観をも大きく変革することを予測した。
その一方で、彼の著書の中には、
情報社会の国民目標は「国民総充足 (Gross National Satisfaction) 」である、
という文言が出てくる。
工業化、情報化を経て、労働から解放された我々に待つのは、
生産力や効率性の高さを競い合うことではなく、
満たされた生活こそが、真に求める社会の姿になる、と予見したのだ。
当時の日本で、ブータンが提唱する「GNH」を紹介した文献等は皆無であり、
増田が、「GNH」という言葉を知っていた可能性は限りなく低い。
それでもなお、彼の提唱した「GNS」は「GNH」と驚くべき近似を示している。
この偉大な先達は、
「情報」に、満ち足りた未来(≒「幸福」な未来)を託したのだ。
GNH研究所 ニュースレター vol.7(2013年10月15日発行)より
※一部改訂
一連のSTAP細胞論文問題に端を発する、科学界への猜疑の眼差し。
4月1日の理化学研究所の会見で、改竄、捏造の不正があったとの認識が示され、
歴史的な大発見は、一転、白紙に戻ることがほぼ確実になった。
自分も、異端であるという自覚はあるものの、
一応、アカデミック界隈の端くれに身を置く者として、
この問題について口を開くべき責任を感じ、筆をとっている。
前編では、論文の評価(査読)において、
現在の、「暗黙の作法」に頼った評価手法が限界を迎えつつあるのではないか、
という問題提起をした。
http://www.junkstage.com/fujiwara/?p=559
今回は、研究の可否をどのように問うか、という問題について触れようと思う。
まず、前提として、ある一つの厳然たる「暗黙の了解」が存在する。
それは、他人の研究を、論理的な手段を用いずに否定しない、ということ。
研究者個人の人格や属性、あるいは、それに付随するあらゆる感情論は、
研究自体には何ら影響も及ぼすものではない。
つまり、何の根拠も無いダメ出しをしてはいけない、ということだ。
あいつは駆け出しのペーペーだから、とか、女癖が悪いから、とか、
そういう色眼鏡は、研究の真偽にとっては何の意味も持たない。
もちろん、あくまでも建前としては。
加えて、その「暗黙の了解」は、
さらにもう一つの「暗黙の了解」の上に成り立っている。
それは、研究者は等しく皆、「新たな知の探求」を目指している、ということ。
これは、前回触れた、研究者の最も根源的な姿勢を示している。
裏を返せば、知を求めない研究者は、研究者ではない、ということだ。
つまり、ごまかしたり、嘘をついたりするような研究者が存在するはずがない、
という、ある種、非常に楽観的な見方とも言える。
そのような、二つの「暗黙の了解」に基づいて、
提出された論文の可否を問う、とは、いったいどういうことだろう。
研究の手順に誤りは無いか、論理の飛躍は無いか、
集められたデータは適切な方法で処理されているか。
など、細かく挙げればキリが無いが、一言で言うならば、
「論理的であるかどうか」ということに尽きる。
論理の組み立てに問題が無ければ、論文は「可」とみなすことができる。
この場合、論文が「否」であるという意味は、
論理的ではない、証明が不十分である、ということを指す。
決して、「ニセモノ」だとか、「デタラメ」だと、全否定しているわけではない。
研究者はその結果を受けて、再トライをする権利を有している。
今回のSTAP細胞論文で疑われたのは、こうした「可否」以前の問題だ。
それは、「論文が不正によるものか」という、前提条件を根本から覆す問題。
研究の可否を問う問題ではなく、研究者の善悪を問う問題、とも言える。
カギとなるのは、そこに「悪意」が介在していたかどうか。
研究者が、故意に、あたかも真実であるかのような研究成果を発表した場合、
その研究が専門的な内容であればあるほど、それを見破ることは困難になる。
かつて、ゴッドハンドと呼ばれた考古学者が手を染めた捏造事件を、
記憶している方もいることだろう。
別の地層で発見された土器を、他の場所で発見したかのように見せかけ、
考古学史的な大発見をでっちあげた、あの事件。
万が一、その学問分野で最も優れた第一人者が、何らかの作為を行ったとしたら、
彼以上に優れた者がいない以上、誰もその真偽を確かめられないことになる。
「彼だからこそ、成功した」と言われてしまえば、それ以上追求できない。
それは、科学にとって、絶望的なほどに手の施しようが無い事態だ。
屋台骨であるはずの、
研究者はすべからく、共通の倫理に則って研究をしている、
という「暗黙の了解」が崩れてしまうと、
論文の論理性だけでは、その清濁を判断できなくなってしまう。
だからこそ、改竄、捏造、そして、剽窃は、研究界隈では、最も忌み嫌われる。
(ちなみに、それぞれ、大辞林によれば以下のような定義になる)
「改竄」=文書の字句などを書き直してしまうこと。普通、悪用する場合にいう。
「捏造」=実際にはありもしない事柄を、事実であるかのようにつくり上げること。
「剽窃」=他人の作品学説などを自分のものとして発表すること。
STAP論文には、改竄、捏造があった、との最終報告がまとめられた。
もう一つの問題である、STAP細胞は存在するのか否か、という点については、
時間はかかるだろうが、いずれ何らかの結論が出るだろう。
しかし、ここに至ってもなお、この問題が、
研究者としての資質が足りない者による過失なのか、
そこに何らかの「悪意」が介在したものなのかは、
依然として闇に包まれたままだ。
本人が「悪意」を否定しているだけに、泥沼化の様相も呈している。
何より、故意の不正であったかどうかは、当の本人以外に知りようが無い。
しかし、これだけ公然と、研究者としての資質が足りないことが明るみになった以上、
彼女の研究者としての再起は、極めて難しいと言わざるを得ない。
ただし、一つ間違えてはいけないのは、
彼女一人を「悪」と断定し、尻尾切りをして問題を片付けてはいけない、ということ。
このままでは、また第二第三の同じような問題が出てくるだろう。
いまの科学界には、それほど、自浄作用が期待できないところまで来ていると思う。
そもそも、「悪意」の無い「不正」とはいったいなんだろう。
もっと言えば、「悪意」の無い「不正」が生まれてくる背景とはなんだろう。
「知」の根幹が揺らいでいる、としか言いようが無い事態が、そこにはある。
「悪意」が無くても「不正」に相当するような稚拙な論文ができあがってしまう、
そして、そんな論文が、堂々と世界に冠たる科学誌に掲載されてしまう。
今回のケースは、まさに、
近代科学界そのものが陥っているジレンマが表出した、と言える。
学問の世界に横たわる暗い陰の、その一端を垣間見た、そんな気がしてならない。
火中の栗を拾うような真似をあえてしよう。
今回のお題は、博士課程在籍者が語る、STAP細胞論文問題について。
ただし、研究の中身については未解明の部分も多いため、
あくまでも、近年の科学界における、
「研究」と「論文」に対する取り組み姿勢に焦点を当てていく。
そもそも、研究者の目指すところは、
少々クサい言い方をするならば、「新たな知の探求」にある。
一般には有り得ないと考えられているものを、有ると証明する、
そのための全てのプロセスが「研究」と見なされる。
研究室で試験管片手に機材を操作することばかりが研究ではなく、
リンゴの木の前で寝そべっている時間も、ときに研究に繋がることもある。
一方、「論文」とは、その研究成果を発表する最も代表的な手法だ。
どんな素晴らしい発見をしても、それが世間に認められなければ、
その研究には何の価値も与えられない、ただの自己満足となる。
まれに、自身の好奇心を満たすためだけに取り組んでいる研究者もいるが、
それだって、研究で飯を食っていくとしたら、
ある程度は周囲に評価される成果物を残す必要がある。
必然的に、多くの研究者は、日頃から論文の執筆に追われることになる。
それは、営業マンにとってのノルマのようなものだ。
発見のための発想力や知識のほかに、
物書きとしての素養がなければ、おそらくこの職業は務まらない。
そういう意味では、このコラムの原稿を、落としに落とした自分は、
どうやら、若干、その素養を欠いている節もあるのだが…
さて。
近年、研究の世界は、生き馬の目を抜くような時代へと突入した。
どの学問分野でも、問われるのは、その「スピード」と「オリジナリティ」。
言い換えれば、「最も早く新しい発見をしたもの」が評価される時代。
有用性や汎用性は二の次、とまで言ってしまうとやや語弊があるが、
少なくとも、基礎研究と呼ばれる領域では、あまり重要視されることはない。
誰もが新しい発見を目指していくとどうなるか。
研究のテーマは、常に最先端の分野へと偏り、その先端をさらに伸ばしていく、
あるいは、先端を枝分かれさせていく、そのことに全神経が集中する。
その結果、学問分野は限りなく細分化してきている。
「学会」という括りで、ある程度似通った分野の研究者が寄り集まっているが、
実態としては、各研究者が独自の学派を形成している、とさえ言える。
問題となるのは、そのような状態で、
他の研究者を「評価」することなどできるのか、という点。
そのことに触れる前に、まず、一般的な論文の構成について言及しておこう。
通常、論文を執筆する場合、先行研究と呼ばれる、
関連する既存の研究について、ある程度ページを割かなければならない。
誰かが既に言及したこと、証明したことを記述することで、
自分の論文が依って立つ研究領域を明示するのが、その主な目的となる。
既知の事柄を自分の言葉で記述する、というのは、思いの外、骨の折れる作業だ。
コピペするのは論外だが、当然、自分の研究成果ではないので、
せいぜい文章表現を変えるくらいしかできることはない。
そんな二次創作のようなことをすることに果たして何の意味があるのか。
かといって、長々と数十ページに渡って誰かの文章を引用をするわけにもいかない。
それはそれで、引用ではなくパクりだ、との批判を浴びる種になる。
通常、引用はせいぜい数行程度まで、と言われている。
実は、この先行研究、本来は「誰々が何々と言っている」程度の触れ方をして、
詳細は参考文献そのものを参照してもらえば事足りるはずのものだ。
わざわざ参考文献でどのように書かれているか、事細かに説明する必要はない。
通常、論文の評価者(査読者)は、その学問分野に精通しており、
示される参考文献には一通り目を通していることが前提となるからだ。
しかしながら、先も述べたように、学問分野は細分化しており、
提出された論文が、その評価者(査読者)にとって未知の内容を含むこともままある。
そういった場合、論文を評価するにあたって、
参考文献まで全て目を通すとなると、その作業量は膨大になってしまう。
先行研究を丁寧に書くということは、こういった査読者の負担を軽減する目的もある。
というより、それは「暗黙の作法」と言ってしまっても差し支えないと思う。
もちろん、本質的には、そういった作業を含めて査読者の責務の範囲であり、
正当な評価を下すためには、そうした労力を惜しんではならない。
ただ、湯水のように次々と新しい論文が発表される昨今の科学界において、
それはあくまでも理想論でしかない、というのが実情だろう。
STAP細胞論文において、20ページに渡るコピペが見つかった背景には、
当然、研究者個人の倫理の欠如もさることながら、
上述のような、アカデミック論文における「暗黙の作法」が物語るような、
根深い闇が隠されているような気がしてならない。
(続く)
2010年以来、4年振りに、東京で3月11日という日を迎えた。
震災以降、気仙沼で活動を続けているわけだが、
だからといって、その日を気仙沼で迎えたことも、また無い。
この日。
これまでに過ごした3.11を少しだけ振り返ってみることにした。
2011年3月11日
バングラデシュ
あの日、遠い異国の地で、日本の大災害の報を聞いた。
当時の詳しい状況は、以下の記事を開いてみていただきたい。
http://www.junkstage.com/fujiwara/?p=176
海外のニュースが伝える惨状を、ただ呆然と、ホテルの一室で眺めていた。
日本人、と分かると、多くの現地人が慰めの言葉をかけてくれる。
でも、それが、どことなく自分に向けられているものでは無いように響く。
自分は被災していない。
その自分が、慰められる謂れはない。
むしろ、こんなところにいる場合ではない。
そんな気持ちを抱く。
東京の地でも、地震の影響で交通機関がマヒし、
多くの友人・知人が、「その日は帰宅できなかった」と話した。
その混乱すら共有できない自分。
とにかく感じたことは、今にして思えば、
「無力感」と呼ばれるものだったのだろう。
2012年3月11日
仙台
1年目の節目は、仙台の実家に居た。
その前後で気仙沼を訪れていたものの、震災の追悼式典が催される当日は、
手持ち無沙汰で、実家に引き揚げてきていた。
たぶん、現地に居ても、その深い哀しみを共有できない自分は、
また、言い知れない無力感を味わうことになっていただろう。
そういう意味では、1年が経っても、
その心のうちは、遠い異国の地に置き去りにしてきてしまったような、
そんな感覚で溢れていた。
2013年3月11日
マレーシア
奇しくも、再びアジアの地で迎えた、2度目の3.11。
あえて異国の地を目指した。
というつもりはなかったが、いま思えば、その気持ちはゼロでは無かったと思う。
奇しくも、あのときと同じく、長距離バスのなかで、その時間を迎えた。
賑わう車内で、一人、黙祷を捧げる。
もちろん、もう誰も慰めの言葉をかけてきたりしない。
もしかしたら、追悼を強要するような、そんな国内の雰囲気が嫌で、
一人静かにその日を過ごすために、逆に被災地から離れたのかもしれない。
2014年3月11日
東京
東京メトロ東西線に乗車中、アナウンスが入る。
「本日、14時46分。東日本大震災から3年を迎えます。
東京メトロは、全線で一旦停車し、黙祷を捧げます。
みなさまのご理解とご協力をお願いいたします…」
3月11日を前に、テレビでは震災関連のドキュメンタリーなどが急増。
ある番組は、3年目の復興の現状を伝え、
ある番組は、震災当時の状況を再検証していた。
それから一週間が過ぎた。
3月11日を境に、再び、震災を伝える報道は急速に減った。
それでいい、と個人的には思っている。
あの日、テレビのキャスターは、「忘れない」と声高に繰り返した。
誤解を恐れずに言えば、このフレーズに、実は凄く違和感がある。
そこには、裏を返せば、「忘れる」者を責める響きが混じっていた。
悲しまない者、黙祷を捧げない者を、非難する響きが混じっていた。
現地を訪れていれば、自ずと感じる。
身近な誰かを亡くした人達にとっては、
「忘れない」のではなく、「忘れられない」のだと。
毎年、この日は、国中が喪に服す、そんな雰囲気が、
しばらくの間は続いていくのだろう。
ただ、本来、喪に服すことと、被災地の復興を願うことは、
全く別の次元の話だ。
兎角、そこを混同した話が多過ぎる。
ときどき思い出したならば、
そのとき何かしたくなったのならば、
街角で募金でもすればいい。
それ以外は、普通に日常生活を送ればいい。
買い物に行けばいい。
誕生日を祝えばいい。
晩酌をするのもいい。
それが、東京で、普通に生きる者の務めだろう。
3年経って、改めてそんなことを思っていた。
さて、前回まで2回に渡り、
「ブータン研究者が、なぜ東北でまちづくりをするのか」
というテーマについて連載した。
ブータンでは、情報化について研究し、
気仙沼では、まちづくりについて実践を交えて学んでいる最中である。
正直に言って、震災を機に気仙沼に関わりはじめ、
そしていま、まちづくりの現場にこれほど深く入り込んでいるのは、
様々な偶然が重なった結果、という以外に無い。
そうでなければ、それまでほぼまちづくりについて素人同然だった人間が、
したり顔で「まちづくりやります」などと言ったところで、相手にされなかっただろう。
そんなわけで、当然、ブータンの研究を気仙沼の現場で活かす、という気もなければ、
逆に、気仙沼の経験をブータン研究に応用する、なんて場面も全く想定していなかった。
が、しかし。
ここへきて、まさかのコラボレーションが実現することになった。
そう、まさかの、気仙沼における「ブータン講座」開講!
自分がブータンについて研究している、という話をちらっとしたところ、
地元の方の食いつきが思いの外良く、あれよあれよという間に、そういう運びになった。
いまのところ長期講座ではなく単発の予定だが、
もしかしたら、好評であれば引き続き…、なんてお声もかかるかもしれない。
さて、どんな話をしたら良いものか。
おそらく、気仙沼の人たちは、ブータンについての知識が、
「あの猪木に似た国王がいる国」
「王妃様が若くて美人だった!」
という程度の知識しかないわけで。
つまりは、2011年秋の国王訪日時のメディア報道のみがニュースソースなわけで。
やっぱり「幸せの国」について知りたがるんだろうなあ、と思うわけで。
難しいのは、このコラムでも昔書いた気がするが、
ブータンは、「幸せ」を目指す国であることは間違いないが、
いま現在「幸せ」な国かと言われると、ちょっと言葉に窮する。
少なくとも、日本でブータンに詳しい人達の前で、
「ブータン=幸せの国」という図式は、一種のタブーになりつつある。
一応、自分も、日本ブータン友好協会というところで、
縁あって幹事という立場にあるので、そう軽率な発言もできない。
ただ、一方で、真実をありのままに伝える、ことだけが重要というわけでもない。
気仙沼という地で、ブータンについて話をすることの意義はなにか。
気仙沼の人たちに、ブータンのどんな姿を伝えれば意味があるのか。
それ無しで、ただブータンについての知識をひけらかすような場にはしたくはない。
講座の開催は、3月16日(日)。
それまで、しばし悶々と悩んでみようと思う。
さて、どういう話をすることにしたのか、気になる人は、ぜひ気仙沼へ!
前回の記事から早一ヶ月半も経ってしまった。
その間、ほぼ毎週のように気仙沼へ入り、地元の住民さんたちとともに、
まちづくり計画の策定を進めてきた。
いま、ここ半年ほどかけて作業してきた計画案が、ようやく形になりつつある。
その間、ほぼ毎月の住民を交えたまちづくりのためのワークショップを開催し、
その合間を縫って、まちづくり協議会(地域のまちづくり団体)の役員会に出席した。
数えてみると、8月から12月までの5ヶ月で、計57日間、気仙沼に居たことになる。
もちろん、数時間程度の滞在の日もあるので、滞在時間に直すとそれほどでもないが、
ほぼ2ヶ月近い日数、あの地を踏んだことになる。
ただ、これが多いのか少ないのか、頻度が高いのか低いのか、
ここまで深くまちづくりに携わった経験が無いので、正直、よくわからない。
現地に腰を据えて取り組む方法もあっただろうが、
本音を言えば、あまりその手段は取りたくなかった。
その理由は、前回の記事で触れているので、もしよかったらご一読いただきたい。
http://www.junkstage.com/fujiwara/?p=525
一方で、半年という時間は、おそらく、街の将来を決めるには短過ぎる時間だろう。
しかし、時間をかければ良い計画ができる、というものでもない。
当たり前のことだが、まちづくりそのものは、計画ができてゴールではない。
むしろ、そこがスタートラインで、これからもまちづくりは続いていくのだ。
できることなら、来年度も、まちづくりの行く末を見続けていたいとは思うが、
さて、こればかりはどうなることやら。
そろそろ前回の続きに入ろう。
なぜ、専門ではない分野の活動に参加しているのか、
という動機の問題に答えていきたいと思う。
つまり、そのモチベーションはどこから来るのか、という話。
大学院生という立場から話をするならば、
博士論文を書く上で、気仙沼での経験が直接的に生きることはまずない。
また、生活上の理由、ということであれば、
残念ながら、まちづくりのお手伝いで得られる報酬は微々たるものだ。
それでも、貰えるようになっただけ相当マシなほうで、
最初のころは、それこそ、手弁当で現地を訪れていた。
さて、それでは、自分はいったい、あの場所で何を成し遂げたいのか。
自分が「誰かを助けたい!」なんて善意で動く人間ではないことは百も承知なので、
少なくとも、綺麗なことは一切考えていなかったのは確かではあるが、
いざ、その理由を説明しようとすると、上手く言葉にならないことに気が付いた。
「楽しいから」では答えにならないので、
もう少し、その楽しさの源泉を掘り下げてみることにする。
誤解を恐れずに言えば、自分がまちづくりに携わっていて面白いと感じるのは、
すんなりと決まっていく物事よりも、むしろ、紛糾する話題のときだ。
地元の人々にとっては、過程は割とどうでもよくて、結論としてどうなるか、が全てだ。
どんなに苦労を重ねたところで、何も決まらなければ結局は徒労に終わる。
なので、当然のことながら、揉め事はできるだけ避けて通りたいのが人情というものだ。
もちろん、それで良いと思う。
一方で、自分の関心は、むしろ過程にあるようだ。
例えば、AとBという主張が、地域の中で激しく対立していたとする。
なるべく喧嘩別れをさせないように、
それでいて、地域としてまとまった結論へ導くためにはどうすればよいのか。
とにかくAかBか、という結論が出ることが重要、というわけでもない。
地域を分裂させないために、あえてどちらも選ばない、という選択肢があってもいい。
「このままいくと地域が分裂しますが、それでも押し通しますかどうしますか?」
という投げかけをしたとして、いったい、現実の場面で、それがどう転ぶのか。
それこそ、綺麗事では済まない、生の問題が、そこにはある。
分裂しない方がいい、というのは単なる机上の論理に過ぎない。
分裂してでもAを選ぶほうが、将来的には街に経済的な利益をもたらすかもしれない。
あるいは、Bを選ぶことで、貧しくとも平和な暮らしが保たれるかもしれない。
大事なのは、その街が「何を大事にしたいのか」。
大事にしたいのは、経済なのか、環境なのか、それともコミュニティの和なのか。
そこがはっきりしさえすれば、選ぶべき選択肢は、自ずと見えてくるはずなのだ。
そして、それこそが、その街のカラーであり、その街の文化と呼べるものなのだろう。
外からまちづくりに参画することで得られる最大のメリットは、
まさにその、街が「大事にしたい何か」を導き出していく過程そのものに、
深く関わることができること、だと思う。
そしてそれは、現地で求められている「調整役」という役回りにも合致する。
これは、大袈裟に言ってしまえば、その街の歴史をつくる作業だ。
そんな経験、滅多にできない。
その過程において、一翼を担うことができる。
自分にとって、動機はそれぐらいで十分過ぎるくらいだ。
もちろん、それを楽しめるのは、そもそも自分自身の行動原理が、
「結果よりも過程を楽しむ」タイプであることにも、大いに起因しそうではあるが。
(了)
脱サラして、大学院へ入り直したのが、かれこれ3年と9ヶ月前。
もう、サラリーマン時代より、院生時代のほうが長くなってしまった。
研究をはじめてほんの3年余りで、いっぱしの研究者になったつもりもないが、
一応、研究テーマに「ブータン」を選んでいる以上、
「ブータン研究者」を名乗ってもさほど不思議はあるまい。
「ブータン専門家」ではなく、研究者、なら、誰でも名乗れる気もする。
前置きはさておき、本日のお題は、
「ブータン研究者が、なぜ東北でまちづくりをするのか」である。
そんなてめえの事情になんぞ興味はねえ、と言わずにまあ聞いてほしい。
この場合の「なぜ」には二種類ある。
なぜ、専門ではない分野の活動に参加しているのか、という動機の問題。
なぜ、専門ではない分野の活動が可能なのか、という能力の問題。
特に、後者は最近よく尋ねられるので、ちょっと先に解説しておきたい。
そもそも、「まちづくり」とはなにか。
少しだけ触れておかなければなるまい。
Wikipediaを引くと、次のように記述されている。
まちづくりとは、文字通り「まちをつくる」ことであるが、一般的にこの言葉が使われる場合、「まち」は既存のもので、新たに「つくる」ことを指し示す例は少ない。また、建物や道路といったハード面や、歴史文化などのソフト面を、保護・改善する事によって、さらに住みやすいまちとする活動全般を示す。衰退した地域の復興を目指す再生活動は「地域おこし・まちおこし」であるが、明確な定義をせずに、都市開発あるいは地域社会の活性化など、論じる人によって、様々な文脈で使われているバズワードである。街づくり、町づくりなどとも表記されるが、ひらがな表記が多く使われる傾向にある。
一般的には、「さらに良い生活が送れるように、ハード・ソフト両面から改善を図ろうとするプロセス」と捉えられていることが多い。また、多くの場合、まちづくりは住民が主体となって、あるいは行政と住民とによる協働によるもの、といわれる。ただし、民間事業者が行う宅地開発なども「まちづくり」と称している場合がある。
実際に、いま、学内の復興支援プロジェクトの一環として、
宮城県気仙沼市で行っている「まちづくり」を上の語意に従って整理すると、
「東日本大震災からの復興を果たすための、そして、震災前よりも住みよい街をつくるための、住民主体の取り組み」
ということになるだろうか。
自分にとって、「まちづくり」にこれほど深く従事するのは初めてである。
以前、学部時代に都市研究として「汐留」を取り上げ、
その成り立ちや再開発の経緯や進め方について調査したことはあったが、
そのときは、あくまでも研究のまねごとに過ぎなかった。
—–
ところで、自分の所属する研究室の専門分野は、
情報科学、あるいは、政策情報論、と掲げてある。
キーワードは「情報」であり、「情報化社会」が研究のターゲットである。
そこだけ切り取ると、「まちづくり」とはおよそ縁がありそうに無い。
どのような「情報」にしたがって、人(集団)は意思決定をしているのか。
より良い決定を促すためには、どのような「情報」が手に入ればよいのか。
さらに進んで、「情報」が氾濫する社会とはどのような社会になるのか。
そういったテーマが、根底にある関心事、ということになる。
翻って、「まちづくり」とはなにか、改めて考えてみる。
「まちづくり」とは、言わば、「情報」の取捨選択と意思決定の連続である。
「どのように災害から人命や財産を守るのか」
「どのように産業を興し、地域の経済を活性化していくのか」
「どのように子どもを生み、育てるための環境整備をするのか」
などなど。
それら一つ一つについて、選択のための素材となる「情報」を厚め、
価値判断をおこない、そして意思決定を下す、というプロセスそのものだ。
これが、自分だけの価値観で決めてもよい物事であれば、
わざわざ外から専門家が入ってあれこれ指南する必要など無いのだが、
街、という単位で決めるとなると、途端に難しくなる。
細かい説明は省くが、学問の世界では、
「集団が完全に合理的な意思決定を行うことができる方法は無い」
と言われている。
多数決や順位評点法など、世の中にはいろいろな決定手法があるが、
結局、そのどれもが、合理的ではない、つまり、誰もが納得できる方法は無い、
ということになる。
—–
つまり、「まちづくり」においては、そもそも合理的な決め方は無いけれど、
なんとかして「住民合意」なるものを導き出していく、ことが求められる。
一人一人が異なる主張を持っているわけだから、
全員を説得して回る、というわけにもいかず、
例えば、こちらの主張はこちらの案件で通し、もうひとつの案件ではあちらを立てる、
といったお互いの歩み寄りの部分がどうしても必要になってくる。
外部者が入る、というのは、そういった部分の調整役を担う、という側面も多分にある。
どうしても、街のなかの人が調整役になってしまうと、
その人は全く主義主張を持たないニュートラルな立場でなければならない。
どちらかに肩入れをしている、となっては調整役の意味を成さないからだ。
となれば当然、外部者に一番求められるのは「バランス感覚」だと個人的には思う。
当事者ではない者には、そもそも決定権は無い。
決定者や、ましてや、特定の主義主張へ扇動する者になってはならない。
個人的な主張を交えた瞬間に、外部者たる地位を捨てることになる。
その街を深く理解する努力をしつつ、ヨソモノでありつづけなければならない。
成すべきことは、混沌とする行政制度、メディア報道、他箇所の事例などを、
わかりやすく整理して「情報」として提示すること。
そして、それらを元に膨らんだ議論を如何に収束していくか道筋を示すこと。
人間である以上、データの取捨選択の過程で、主観がゼロということは有り得ない。
しかし、フラットな立場である人間である、と住民の方々に認識してもらわなければ、
常にその「情報」にバイアスがかかっていることを疑われることになる。
街が既に一つの固まった主張を持って、その方向へ突き進もうとしているのであれば、
そういった偏った情報も、あるいは有用であるのかもしれない。
ただ、もう既に進む方向が見えているのならば、もはや外部者は必要無いはずだ。
いま、気仙沼で「まちづくり」を支援する立場にある。
従前のまちづくりに関わる行政制度や事例などはまだまだ不勉強で、
非常に申し訳ないことに、そういう点ではほとんど役に立っていない。
事務的な作業を担いつつ、バランス役としてようやく少し認知されてきた、
という段階だと個人的には認識している。
「あいつがいたおかげで、少しは物事が円滑に進んだ」
と思ってもらえれば、まずは第一段階をクリア、といったところだろう。
(続く)
昨年12月に開催し、好評を博したブータンシンポジウムが、
今年も、12月15日(日)に開催される運びとなった。
昨年の開催分についての記事はコチラ。
http://www.junkstage.com/fujiwara/?p=398
前回同様、運営スタッフとして準備に奔走する毎日である。
昨年は、まだ2011年のブータン国王来日の余波が残っていたからか、
あまり集客には苦労しなかった記憶があるのだが、
今年は少しだけ、昨年より出足が鈍い印象。
テーマもちょっとだけ重めなのも一因かもしれない。
題して、「ブータン、民主化への挑戦 —2013年総選挙までの道のりとこれから」。
政治に無関心な現代日本人を惹き付けるにはインパクトに欠ける。
いや、実はタイトルを付けたのは他ならぬ自分自身なのだが…
多くの日本人はご存知ないだろうが、今年の夏は、
ブータンの政治史上、とても大きな変化がもたらされた。
本コラムでも計8回という長期連載でお届けした、ブータンの総選挙。
そこで、これまでの野党が勝利し、政権交代が果たされたのだ。
とはいえ、ブータンが民主化したのは、今からたったの5年前、2008年のこと。
今年の選挙は、それ以来の、つまり、ブータン史上2度目の選挙。
政権交代、とはいうが、日本のように、55年体制が崩壊したのとは訳が違う。
もちろん、民主化以前からブータン政府を牽引してきた多くの政治家たちが、
今回の選挙で敗れたことによりその地位を追われたのは事実なのだが、
そのへんの込み入った話はここでは置いておこう。
さて、このシンポジウム、上記のようなやや堅めのお題ではあるのだが、
昨年同様、多くの「ブータンを良く知らないけれど、興味はある」という、
いわゆる認知層に参加してもらいたい、という意図は変わらない。
そのために、「よくわかる、ブータンの政治」的な資料も用意しているので、
もし、少しでも本コラムを読んで興味を持っている方がいれば、
あまり必要以上に恐れずに、気軽に参加してみていただけると嬉しい。
以下、詳細。
——
◎概要
テーマ:
「ブータン、民主化への挑戦ー2013年総選挙までの道のりとこれから」
日時:
2013年12月15日(日) 13:00 本会議開場
10:00 – 12:00 分科会(ブータン勉強会)
13:30 – 17:30 本会議(基調講演、パネルディスカッション)
17:45 – 19:45 懇親会(ブータン・ナショナルディ パーティ)
会場:
JICA地球ひろば 2階 国際会議場 (JICA市ヶ谷ビル)
〒162-8433 東京都新宿区市谷本村町10-5
定員:
130人(先着順)
会費:
本会議 日・ブ協会会員,学生1,000円 / 一般1,500円 (当日2,000円)
懇親会 日・ブ協会会員,学生4,000円 / 一般5,000円 (当日5,500円)
公式サイト:
http://www.bazam.net/jbfa/symposium/
◎登壇者
基調講演:
テンジン・リグデン(CEO, Bhutan Communications Services)
パネリスト:
青木薫(シデ・ブータン コーディネーター/ブータン日本語学校校長)
仁田知樹(前JICAブータン事務所長)
諸橋邦彦(国立国会図書館 調査員)
真崎克彦(甲南大学 マネジメント創造学部 准教授)
◎分科会
発表者:
高橋洋(地球の歩き方「ブータン」編集者)
藤原整(早稲田大学 社会科学研究科 博士後期課程)
平山雄大(早稲田大学 教育学研究科 博士後期課程)
※お申込みは以下の専用サイトから。
http://kokucheese.com/event/index/117765/
——
ちなみに、今年も、昨年と同じく、懲りずに午前中の分科会で発表をする予定。
お題は、「ブータンにおける民主化と情報化」。
ブータンにおける、選挙時のメディア報道やインターネットの活用状況などを、
選挙期間中のフィールド調査の様子も交えながら紹介していく予定である。
詳細は、こちらを参照されたい。
http://www.bazam.net/jbfa/symposium/branch/
一応、あまりブータンに関する基礎知識は必要としない、つもりだ。
分科会の他の2つのテーマは大変にマニアックなので、
あまりブータン通ではない自覚のある方、特に言語や地理に疎い方には、
手前味噌ではあるが、オススメをしておきたい。
秋は学問の季節、かどうかはさておき、
10月に入ってから、学会発表をする機会が立て続けにあった。
前半には、日本南アジア学会、後半には、日本インド学会という、
それぞれ、特定の国・地域に関わる、いわゆる地域研究者を集めた学会であった。
こうした地域研究の学会に出る場合、あるいは、
先月スタッフとして関わった社会情報学会のような、情報系の学会に出る場合、
そのいずれの場合も、自分のような「ブータンの情報化」という、
ニッチな研究対象を選んでいる人は、どうしてもマイノリティになってしまう。
その結果、学会で発表するときには、
・ブータンとはどんな国か?
・情報化を研究するにあたって、なぜブータンを選んだのか?
という、基本的な部分をまず最初に説明しなければならない。
しかしながら、大体こうした場所で一人に与えられるのは、
せいぜい15分から長くて20分くらい。
基礎知識編を10分もやってしまっては、本論に到達すらできない。
必然的に、贅肉を削ぎ落とす作業に多くの準備時間を割くことになる。
ところで、アカデミックな世界では、パワーポイントの発表は、
「1枚1分」というのが、定説となっている節がある。
10分の発表なら10枚、20分なら20枚、程度におさめる、というのが、
暗黙の作法のようにもなっている。
しかし、これだって、スライドのほとんどが文章で書かれているのか、
あるいは、写真が1枚だけ掲げてあるのか、によって当然違ってくる。
ただし、アカデミック分野のパワーポイントというのは、
得てして、黒い文字で埋め尽くされていることが多いのだが…
—–
そういえば、会社員時代にもパワーポイントを作る機会は多々あった。
自分自身が発表するのではなく、会議で使うための資料として。
その資料作成に際しては、いくつかの決まり事めいたものがあった。
あまり細かいところまでは記憶が定かではないが、
概ね、このあたりだったような気がする。
・文字サイズは24pt以上
・文章ではなく箇条書き
・グラフやモデルを多用
つまり簡単に言うと、「読ませる」プレゼン資料を作るな、ということ。
短い会議の中で、端的に要点を伝えて相手に理解させる(納得させる)ことこそが、
プレゼンテーションの目的であるならば、
詳細はあえて説明せず、結論をまず述べて、その理由付けも簡潔明瞭にする。
そして、質問に備えて、仔細なデータをバックヤードで持っておく。
なるほど、理に叶っている、ような気もする。
とはいえ、当然、企業のプレゼンと、学会発表とは、その性質から大きく異なる。
学会発表で問われるのは、その研究の論理構成や研究手法の確かさであり、
どちらかというと、結論そのものよりも、そこへ至るプロセスが重要視される。
そうすると、細部を端折るとどうせ突っ込まれるので、
それなら最初から言いたいことは全部書いておこう、とこうなる。
結果、1分間で1スライド「読む」ことも危ぶまれるような、
大層立派なスライドショーが出来上がることになる。
——
ところで、日本人はプレゼン下手、とよく言われる。
『TED (http://www.ted.com)』で繰り広げられているような、
感情を込めて、ダイナミックな動きをつけながら発表をする、
という人にお目にかかることは滅多に無い。
一方、昨年、こんな記事を目にしたのを思い出した。
AMAZON STAFF MEETINGS: “NO POWERPOINT”
http://conorneill.com/2012/11/30/amazon-staff-meetings-no-powerpoint/
曰く、プレゼンテーションを使うのを止めて、
「6ページの文章化されたメモ」を事前に共有することで、
無駄な時間を省き、かつ、きちんと筋道の立ったアイデアを伝達できる。
当日の発表はごくシンプルなもので済む。
実はこの手法、むしろ、学会発表の形式に近いような気もする。
たしかに、学会の場では、手元の配布資料として、
パワーポイントをただ打ち出したものではなく、
発表する研究内容を記したA4で2〜4ページほどのサマリーを配る、
という習慣がある(ところもある)。
そもそも、そうした手元資料を配るのであれば、
その内容をわざわざパワーポイントに複写して投影する、
なんて必要自体無いのかもしれない。
“Think Complex, Speak Simple”
この言葉は、あらゆる世界のプレゼンテーションに通用しそうだ。
発表内容は十分に熟慮する必要がある。
しかし、発表そのものを複雑にしてしまっては、相手の理解が追いつかない。
逆に、発表をシンプルにしようとしすぎて、
話す内容まで中身が無くなってしまっては本末転倒だ。
結局のところ、学会発表だから、とか、競合プレゼンだから、とか、
そういったテンプレートに捕われた発表には何の意味も無い。
なるほど、派手なプレゼンテーションは目を引くが、
実際、発表者の自己満足で終わってしまうことも少なくない。
その背後に、どれだけ豊かなアイデアがあるか。
そして、あるのであれば、それを如何に聴衆に感じ取ってもらうのか。
プレゼンターは、まさに、そこの部分にこそ力を注ぐべきなのだろう。