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前回の記事から早一ヶ月半も経ってしまった。
その間、ほぼ毎週のように気仙沼へ入り、地元の住民さんたちとともに、
まちづくり計画の策定を進めてきた。
いま、ここ半年ほどかけて作業してきた計画案が、ようやく形になりつつある。
その間、ほぼ毎月の住民を交えたまちづくりのためのワークショップを開催し、
その合間を縫って、まちづくり協議会(地域のまちづくり団体)の役員会に出席した。
数えてみると、8月から12月までの5ヶ月で、計57日間、気仙沼に居たことになる。
もちろん、数時間程度の滞在の日もあるので、滞在時間に直すとそれほどでもないが、
ほぼ2ヶ月近い日数、あの地を踏んだことになる。
ただ、これが多いのか少ないのか、頻度が高いのか低いのか、
ここまで深くまちづくりに携わった経験が無いので、正直、よくわからない。
現地に腰を据えて取り組む方法もあっただろうが、
本音を言えば、あまりその手段は取りたくなかった。
その理由は、前回の記事で触れているので、もしよかったらご一読いただきたい。
http://www.junkstage.com/fujiwara/?p=525
一方で、半年という時間は、おそらく、街の将来を決めるには短過ぎる時間だろう。
しかし、時間をかければ良い計画ができる、というものでもない。
当たり前のことだが、まちづくりそのものは、計画ができてゴールではない。
むしろ、そこがスタートラインで、これからもまちづくりは続いていくのだ。
できることなら、来年度も、まちづくりの行く末を見続けていたいとは思うが、
さて、こればかりはどうなることやら。
そろそろ前回の続きに入ろう。
なぜ、専門ではない分野の活動に参加しているのか、
という動機の問題に答えていきたいと思う。
つまり、そのモチベーションはどこから来るのか、という話。
大学院生という立場から話をするならば、
博士論文を書く上で、気仙沼での経験が直接的に生きることはまずない。
また、生活上の理由、ということであれば、
残念ながら、まちづくりのお手伝いで得られる報酬は微々たるものだ。
それでも、貰えるようになっただけ相当マシなほうで、
最初のころは、それこそ、手弁当で現地を訪れていた。
さて、それでは、自分はいったい、あの場所で何を成し遂げたいのか。
自分が「誰かを助けたい!」なんて善意で動く人間ではないことは百も承知なので、
少なくとも、綺麗なことは一切考えていなかったのは確かではあるが、
いざ、その理由を説明しようとすると、上手く言葉にならないことに気が付いた。
「楽しいから」では答えにならないので、
もう少し、その楽しさの源泉を掘り下げてみることにする。
誤解を恐れずに言えば、自分がまちづくりに携わっていて面白いと感じるのは、
すんなりと決まっていく物事よりも、むしろ、紛糾する話題のときだ。
地元の人々にとっては、過程は割とどうでもよくて、結論としてどうなるか、が全てだ。
どんなに苦労を重ねたところで、何も決まらなければ結局は徒労に終わる。
なので、当然のことながら、揉め事はできるだけ避けて通りたいのが人情というものだ。
もちろん、それで良いと思う。
一方で、自分の関心は、むしろ過程にあるようだ。
例えば、AとBという主張が、地域の中で激しく対立していたとする。
なるべく喧嘩別れをさせないように、
それでいて、地域としてまとまった結論へ導くためにはどうすればよいのか。
とにかくAかBか、という結論が出ることが重要、というわけでもない。
地域を分裂させないために、あえてどちらも選ばない、という選択肢があってもいい。
「このままいくと地域が分裂しますが、それでも押し通しますかどうしますか?」
という投げかけをしたとして、いったい、現実の場面で、それがどう転ぶのか。
それこそ、綺麗事では済まない、生の問題が、そこにはある。
分裂しない方がいい、というのは単なる机上の論理に過ぎない。
分裂してでもAを選ぶほうが、将来的には街に経済的な利益をもたらすかもしれない。
あるいは、Bを選ぶことで、貧しくとも平和な暮らしが保たれるかもしれない。
大事なのは、その街が「何を大事にしたいのか」。
大事にしたいのは、経済なのか、環境なのか、それともコミュニティの和なのか。
そこがはっきりしさえすれば、選ぶべき選択肢は、自ずと見えてくるはずなのだ。
そして、それこそが、その街のカラーであり、その街の文化と呼べるものなのだろう。
外からまちづくりに参画することで得られる最大のメリットは、
まさにその、街が「大事にしたい何か」を導き出していく過程そのものに、
深く関わることができること、だと思う。
そしてそれは、現地で求められている「調整役」という役回りにも合致する。
これは、大袈裟に言ってしまえば、その街の歴史をつくる作業だ。
そんな経験、滅多にできない。
その過程において、一翼を担うことができる。
自分にとって、動機はそれぐらいで十分過ぎるくらいだ。
もちろん、それを楽しめるのは、そもそも自分自身の行動原理が、
「結果よりも過程を楽しむ」タイプであることにも、大いに起因しそうではあるが。
(了)