脱サラして、大学院へ入り直したのが、かれこれ3年と9ヶ月前。
もう、サラリーマン時代より、院生時代のほうが長くなってしまった。
研究をはじめてほんの3年余りで、いっぱしの研究者になったつもりもないが、
一応、研究テーマに「ブータン」を選んでいる以上、
「ブータン研究者」を名乗ってもさほど不思議はあるまい。
「ブータン専門家」ではなく、研究者、なら、誰でも名乗れる気もする。
前置きはさておき、本日のお題は、
「ブータン研究者が、なぜ東北でまちづくりをするのか」である。
そんなてめえの事情になんぞ興味はねえ、と言わずにまあ聞いてほしい。
この場合の「なぜ」には二種類ある。
なぜ、専門ではない分野の活動に参加しているのか、という動機の問題。
なぜ、専門ではない分野の活動が可能なのか、という能力の問題。
特に、後者は最近よく尋ねられるので、ちょっと先に解説しておきたい。
そもそも、「まちづくり」とはなにか。
少しだけ触れておかなければなるまい。
Wikipediaを引くと、次のように記述されている。
まちづくりとは、文字通り「まちをつくる」ことであるが、一般的にこの言葉が使われる場合、「まち」は既存のもので、新たに「つくる」ことを指し示す例は少ない。また、建物や道路といったハード面や、歴史文化などのソフト面を、保護・改善する事によって、さらに住みやすいまちとする活動全般を示す。衰退した地域の復興を目指す再生活動は「地域おこし・まちおこし」であるが、明確な定義をせずに、都市開発あるいは地域社会の活性化など、論じる人によって、様々な文脈で使われているバズワードである。街づくり、町づくりなどとも表記されるが、ひらがな表記が多く使われる傾向にある。
一般的には、「さらに良い生活が送れるように、ハード・ソフト両面から改善を図ろうとするプロセス」と捉えられていることが多い。また、多くの場合、まちづくりは住民が主体となって、あるいは行政と住民とによる協働によるもの、といわれる。ただし、民間事業者が行う宅地開発なども「まちづくり」と称している場合がある。
実際に、いま、学内の復興支援プロジェクトの一環として、
宮城県気仙沼市で行っている「まちづくり」を上の語意に従って整理すると、
「東日本大震災からの復興を果たすための、そして、震災前よりも住みよい街をつくるための、住民主体の取り組み」
ということになるだろうか。
自分にとって、「まちづくり」にこれほど深く従事するのは初めてである。
以前、学部時代に都市研究として「汐留」を取り上げ、
その成り立ちや再開発の経緯や進め方について調査したことはあったが、
そのときは、あくまでも研究のまねごとに過ぎなかった。
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ところで、自分の所属する研究室の専門分野は、
情報科学、あるいは、政策情報論、と掲げてある。
キーワードは「情報」であり、「情報化社会」が研究のターゲットである。
そこだけ切り取ると、「まちづくり」とはおよそ縁がありそうに無い。
どのような「情報」にしたがって、人(集団)は意思決定をしているのか。
より良い決定を促すためには、どのような「情報」が手に入ればよいのか。
さらに進んで、「情報」が氾濫する社会とはどのような社会になるのか。
そういったテーマが、根底にある関心事、ということになる。
翻って、「まちづくり」とはなにか、改めて考えてみる。
「まちづくり」とは、言わば、「情報」の取捨選択と意思決定の連続である。
「どのように災害から人命や財産を守るのか」
「どのように産業を興し、地域の経済を活性化していくのか」
「どのように子どもを生み、育てるための環境整備をするのか」
などなど。
それら一つ一つについて、選択のための素材となる「情報」を厚め、
価値判断をおこない、そして意思決定を下す、というプロセスそのものだ。
これが、自分だけの価値観で決めてもよい物事であれば、
わざわざ外から専門家が入ってあれこれ指南する必要など無いのだが、
街、という単位で決めるとなると、途端に難しくなる。
細かい説明は省くが、学問の世界では、
「集団が完全に合理的な意思決定を行うことができる方法は無い」
と言われている。
多数決や順位評点法など、世の中にはいろいろな決定手法があるが、
結局、そのどれもが、合理的ではない、つまり、誰もが納得できる方法は無い、
ということになる。
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つまり、「まちづくり」においては、そもそも合理的な決め方は無いけれど、
なんとかして「住民合意」なるものを導き出していく、ことが求められる。
一人一人が異なる主張を持っているわけだから、
全員を説得して回る、というわけにもいかず、
例えば、こちらの主張はこちらの案件で通し、もうひとつの案件ではあちらを立てる、
といったお互いの歩み寄りの部分がどうしても必要になってくる。
外部者が入る、というのは、そういった部分の調整役を担う、という側面も多分にある。
どうしても、街のなかの人が調整役になってしまうと、
その人は全く主義主張を持たないニュートラルな立場でなければならない。
どちらかに肩入れをしている、となっては調整役の意味を成さないからだ。
となれば当然、外部者に一番求められるのは「バランス感覚」だと個人的には思う。
当事者ではない者には、そもそも決定権は無い。
決定者や、ましてや、特定の主義主張へ扇動する者になってはならない。
個人的な主張を交えた瞬間に、外部者たる地位を捨てることになる。
その街を深く理解する努力をしつつ、ヨソモノでありつづけなければならない。
成すべきことは、混沌とする行政制度、メディア報道、他箇所の事例などを、
わかりやすく整理して「情報」として提示すること。
そして、それらを元に膨らんだ議論を如何に収束していくか道筋を示すこと。
人間である以上、データの取捨選択の過程で、主観がゼロということは有り得ない。
しかし、フラットな立場である人間である、と住民の方々に認識してもらわなければ、
常にその「情報」にバイアスがかかっていることを疑われることになる。
街が既に一つの固まった主張を持って、その方向へ突き進もうとしているのであれば、
そういった偏った情報も、あるいは有用であるのかもしれない。
ただ、もう既に進む方向が見えているのならば、もはや外部者は必要無いはずだ。
いま、気仙沼で「まちづくり」を支援する立場にある。
従前のまちづくりに関わる行政制度や事例などはまだまだ不勉強で、
非常に申し訳ないことに、そういう点ではほとんど役に立っていない。
事務的な作業を担いつつ、バランス役としてようやく少し認知されてきた、
という段階だと個人的には認識している。
「あいつがいたおかげで、少しは物事が円滑に進んだ」
と思ってもらえれば、まずは第一段階をクリア、といったところだろう。
(続く)