今月末から、昨夏につづき、ブータンを再訪する。
このコラムでは脱線することが常ではあるが、
いちおう、「ブータンの情報化」が研究テーマであることを、
読者のみなさまにも、今一度、思い出していただこう。
さて、前回は、初めてのブータン行だったこともあり、
調査2割、観光8割、くらいのユルい旅だったのだが、
今回は、どうやらそういうわけにもいかない。
なにぶん、修士論文提出まであと1年と迫り、
本格的なフィールドワークを行わなければならない時期に来ている。
が、ブータン研究には、いかんせん、カネがかかって仕方無い。
公定料金として、1泊200ドルを納めることが義務づけられ、
滞在期間も最長15日間と、フィールドワーカーにはちと辛い。
いや、単純計算で、15×200=3,000ドル(≒250,000円)の時点で、
既に鼻血が出そうだ。
15日間フルで滞在するのも、正直しんどい。
大学院生も、博士課程ともなれば、研究費のひとつも出るものだが、
修士課程の身としては、全ての調査が自腹というのが手厳しい。
もちろん、修士でも研究費が取れないこともないのだが、
ちょっとニッチ過ぎる分野なので、審査を通る気がしない。
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そんなブータンの話が、この1月から産経新聞で連載されていたので、
せっかくなので、ここで紹介しておこう。
記事の論旨はこうだ。
ブータンは、とても便利になった。
と同時に、もしかしたら、かけがえのない何かを失いつつある。
溢れるゴミ、就職難、ホームレス、物乞い。
たしかに、周囲の、いわゆる途上国が体験してきた多くの逆風を、
ブータンもまた、その身に受けている。
もちろん、一朝一夕には変わらない。
しかし、確実に、着実に、変わっていく景色。
そして人々。
無意識な「幸せ」から、意識した「幸せ」へ。
変わった後も、「幸せ」でいるために、いま何をするべきか。
そんなお話。
【変わりゆくブータン~桃源郷の今】(1)「昔」が離れていく
http://sankei.jp.msn.com/world/news/110123/asi11012312000028-n1.htm
【変わりゆくブータン~桃源郷の今】(2)山肌を駆け上るビル群
http://sankei.jp.msn.com/world/news/110130/asi11013012010001-n1.htm
【変わりゆくブータン~桃源郷の今】(3)揺らぐ「幸せ者率97%」
http://sankei.jp.msn.com/world/news/110206/asi11020612010000-n1.htm
【変わりゆくブータン~桃源郷の今】(4)止まらぬ「外国化」
http://sankei.jp.msn.com/world/news/110213/asi11021312010000-n1.htm
【変わりゆくブータン~桃源郷の今】(5完)当たり前すぎる「幸福の方程式」
http://sankei.jp.msn.com/world/news/110220/asi11022012000001-n1.htm
幾分、先入観が入り込みすぎているきらいはあるが、
丁寧に取材された良質なブータン紹介文になっていると思う。
ただ、しかし。
流されず、踊らされず、自分の目で、見定めてきたい。
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ちなみに。
今回の研究旅行では、もう一ヶ所、
腰を据えて訪れてみようと思っている場所がある。
それは、バングラデシュ。
インドの東。
かつて、東パキスタンと呼ばれたイスラム国家。
あれよあれよという間に、人口は日本を抜き去り、
首都ダッカは、世界一人口密度の高い首都、とも言われる。
そんなバングラデシュは、実は、
NGOや、最近流行りの社会的起業家の巣窟でもある。
世界最大のNGO「BRAC (Bangladesh Rural Advancement Committee)」や、
ノーベル平和賞を受賞したムハマド・ヤヌス率いる「グラミン銀行」など、
世界の貧困を救うための智恵と資金が集積している。
ただし、智恵やカネは、
貧困を救うための必要条件であって、十分条件ではない。
そのあたり。
いま、バングラデシュで何が起きているのかを見に行くのが、
今回の旅のもうひとつの目的。
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思うに、好奇心には善悪が無い。
ただ、知りたいと思ったら、躊躇わずに、前へ。
理由はあまり説明できないが、昔から「鳥獣人物戯画」が好きだ。
どれぐらい好きかって、
そのためだけに、縁のある高山寺(京都市)まで、
うっかり一人で訪れてしまうくらい好きだ。
ちなみに、高山寺には、現在、写本が置いてあるだけで、
ホンモノは、東京国立博物館、京都国立博物館にそれぞれ保管されている。
もちろん、知っていて行った、ああ、もちろん。
で、思わず食い付いてしまったのがこのニュース。
鳥獣戯画、元は表裏に絵 江戸時代に分離? │ 京都新聞
http://www.kyoto-np.co.jp/sightseeing/article/20110215000155
要するに、元々両面に描かれていた絵を、
剥がして台紙に貼って補修した跡がみつかったんだとか。
何が凄いって、その補修したヤツの勇気だ。
江戸初期とはいえ、既に数百年経って文化財と化している絵巻を、
真ん中からひっぺがそうなんて、およそ考えられない大胆な策。
あるいは、ただ無頓着なだけだったのかもしれないが。
この「鳥獣戯画」、マンガのルーツとも言われており、
日本でマンガが盛んなのは、コレがあったからだ、
なんて無理矢理こじつけられたりもする。
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さて、せっかくだから、無理を承知で、
そんなこじつけに乗っかって、少しマンガの話を。
先日、[朝日新聞グローブ] 第57号に、
「MANGA、宴のあとで」と題する特集が掲載された。
http://globe.asahi.com/feature/110207/index.html
いつの頃からか、日本のマンガは、
海外で、「COOL JAPAN」なんてもてはやされるようになった。
あくまでも子供の読み物である「COMIC」と区別して、
日本のマンガを「MANGA」と呼ぶ、なんて話もある。
そんな「MANGA」が欧米でよく売れている、
という時代は、最早、過去のものになりつつある、
というのが、前述の特集の論旨のようだ。
だが、考えてみれば、それも当たり前の話。
日本のマンガが、欧米市場に持ち込まれて一世を風靡したのは、
まさに、先進国が、発展途上国を食いものにする構図そのもの。
マンガ未成熟市場を、焼き畑的に食い荒らしただけの話で、
きちんと耕していなければ、そこから新たな芽が出るはずもない。
それにしても、各国のマンガの年間売上高、
というものが載っていたので、それを1人あたりに換算してみると、
なかなか衝撃的な数字が出てきた。
日本 4187億円(127百万人)→3300円/人
フランス 111億円(65百万人)→170円/人
アメリカ 114億円(319百万人)→35円/人
フランス、アメリカでマンガが流行ってるなんて言ったところで、
日本人の熱の注ぎようは、やはり桁違いであることがわかる。
諸外国からしてみれば、1億総オタク国家ニッポン、なわけだ。
経済産業省では、「クールジャパン戦略」なんて銘打って、
コンテンツ産業のテコ入れに必死になっているが、
なんだか、そのクールは、「カッコイイ」の意味ではなくて、
「冷ややか」の意味に聞こえなくもない。
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さて、唐突だが、ここでまた京都に舞台を戻そう。
京都は、高校生の頃にひどく憧れた街で、
今でも、2年に1度くらいのペースで訪れることにしているのだが、
だからといって、京都らしいことをした記憶があまりない。
大体、行くと大概、宿泊先がマンガ喫茶では、趣きも何も無い。
それこそ、外国人にとっては、
KYOTOでMANGAに囲まれて眠るなんて、最高にCOOL、
だったりするのかもしれないが。
個人的には、清水寺も、銀閣寺も、本願寺も、
それ相応にクールだとは思うが、あまり自分の琴線には触れない。
メジャーな寺の中で、一番のお気に入りは、龍安寺。
だが、残念ながら、寺として好きなわけではない。
いや、それを言ったら、高山寺も結局そうだし、
とても失礼なことを言っているとは重々承知しているのだが。
ハマったのは、「吾唯知足」と記された蹲踞(つくばい)だ。
そこかしこで聞いたことのある言葉だったのだが、
それが龍安寺にあると知って、やはりそのためだけに訪問した。
英訳すると、”I learn only to be contented.” となるらしい。
和歌の英訳は、韻の関係もあってことさら難しいようだが、
個人的には、この訳は、音感も良くてなかなかどうして、と思う。
今回は、いや今回も、そんな何にとりとめのないところで。
前回の記事から早一週間。
エジプトは、依然、争乱の最中にある。
しかし、遅かれ早かれ、時代が動くことになるのは間違いない。
願わくば、武力衝突ではない方法で、政権移行を果たしてほしい。
さて。
今回は、そんなエジプトの話を教訓にしながら、
前回、問題提起した、インターネットが「革命」を促すキーではなく、
「民主主義」を推進するアクセルになりうるか、を考えていきたい。
「インターネットを使った民主主義のことなら、
『エストニア』を調べてみるといいよ」
実は、つい先日、そんな話を聞かされた。
ちょうどチュニジア政変が起きたばかりのころ。
まだ、エジプトの話は微塵も出てきていないころのことだ。
エストニアは、いま八百長問題で揺れる大相撲の把瑠都の出身国、
と聞いてピンとくる人は、まあそう多くはないだろう。
バルト海に面した、ヨーロッパの小国。
すぐ東にはロシア、北にはフィンランドがある。
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調べてみると、なるほど、
エストニアはICT先進国だということがすぐにわかった。
2005年、地方選挙において、世界で初めてインターネット投票を実現。
2007年、オンラインで確定申告を行った人は86%にも上ったという。
国民は電子IDカードの所持が義務化されており、
ネットバンキング等、さまざまなサービスを受けられるとか。
ICTを国家戦略に活用するバルト海の小国・エストニア │ マイコミジャーナル
http://journal.mycom.co.jp/articles/2008/10/28/estonia/
北欧の小国エストニアは電子政府の先進国! │ NTT GROUP MAGAZINE
http://www.ntt.co.jp/365/book_data/book_vol25/04-wwt/
日本では、住基ネットの導入だけでも四苦八苦していたわけだが、
エストニアは、二の足を踏む先進諸国をあっさりと置き去りにした。
これは、1991年に独立を果たしたばかりの新興国であることが効いている。
どうせ新しく仕組みをつくるなら、当時の最先端を取り入れてやろう、
そんな気概があったことは想像に難くない。
人口140万足らずの小国であることが、その足枷を軽くした面もありそうだ。
また、北欧は、どういうわけか、先端技術が生まれる土地柄であるようだ。
携帯電話メーカーとして世界No.1を誇るノキアはフィンランド発。
いまやWebサーバー運営に欠かせないOSとなったLinuxも同上。
そして、世界中の通信業界を震撼させたSkypeを生んだのが、エストニアだ。
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そんなエストニアは、しかし、
2007年、皮肉にも、国家規模のサイバー戦争の最初の標的となった。
日本ではおそらく小さな扱いだったので、記憶に無い方も多いだろう。
恥ずかしながら、筆者も全く覚えがなかった。
詳しくは下記リンク先を読んでもらえればいいのだが、
かいつまんで説明すると、(おそらく)ロシアからのサイバー攻撃を受け、
エストニアのネットインフラはパンクに追い込まれた。
前述の通り、社会サービスの多くをインターネットに依存している同国は、
一時、大混乱に陥り、一度、国外とのネット通信を遮断し事態を収拾した。
初の”サイバー戦争”!? 狙われたIT先進国エストニア │ マイコミジャーナル
http://journal.mycom.co.jp/articles/2007/08/14/blackhat1/
銀行とめたエストニアへの攻撃「犯人」は分からぬまま │ 朝日新聞 GLOBE
http://globe.asahi.com/feature/101004/02_1.html
他の国ならいざ知らず。
この事件は、間違いなく、エストニアにおいては民主主義の危機であった。
だが、このことは、残念ながら、インターネットが、
「民主主義」を推進するアクセルであることを意味しない。
せいぜい、「民主主義」を牽引する、牽引車、といったところだ。
自走式ではない。
インターネットが民主主義的であると言われるゆえんのひとつは、
国家主権の及ばない連帯を生み、コミュニティを育てるからだ。
エジプト政府は、だからこそ、インターネットを遮断した。
その連帯を断つために。
ただし、普段の生活の中では、情報は一部の企業に集積され、
情報を与える側と与えられる側というヒエラルキーは変わらない。
それが、政府か、民間か、という違いだけだ。
あるいは、民間にその権力を委ねる方が、
よっぽど危険なような気がしなくもない。
いま、中東がアツい。
何がって、残念ながら、アジア杯優勝の話ではない。
そう、エジプト政変の話だ。
いや、実際のところ、アジア杯で日本が大盛り上がりのその裏で、
中東各国は、その火消しに躍起になっていた。
正直言って、政治にはあまり関心が無いのだが、
この話、食い付きポイントは、インターネット発、という部分にある。
そもそものきっかけは、
エジプトと同じく北アフリカに位置する、チュニジアの政変。
1人の若者の焼身自殺が、革命の口火を切ったと言われている。
本来、イスラム教の戒律では、自殺はタブー中のタブーだ。
しかし、禁忌を犯してまで、生活の困窮を訴えた若者の姿が、
携帯メールなどを通じて国中に発信され、怒りの声が上がり始める。
やがて、Facebookをフックに、抗議デモの時間と場所が通知され、
火種は瞬く間に、独裁政権を呑み込んだ。
厳しく言論統制が敷かれた独裁国家の多い中東諸国では、
こうした革命の形態など、もちろん初めてのことであり、
それだけでも、近隣諸国は戦々恐々となっていたのだ。
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そこへ来て、今回の一件は、エジプトへと飛び火した。
まだ現時点では、その決着を見ていないのだが、
どうやら、30年に渡るムバラク政権の打倒は時間の問題のようだ。
エジプトでも、やはり「ソーシャルネットワーク」が力を発揮した。
奇しくも、同タイトルの映画が絶賛上映中というのだから、
どうにも話が出来過ぎている気がしなくもない。
ちなみに、残念ながら筆者はまだ同映画を見ていない。
見ておいた方が良さそうな気はしているのだが、
どうにも、「全米大ヒット」な類の映画への拒絶意識が拭えない。
それはそうと、エジプト政府は、対抗策として、
まず、twitter、Facebookへのアクセスを遮断。
次いで、全てのインターネット接続を遮断するに至った。
あからさまな言論統制に打って出たわけだが、それも最早、後の祭り。
火の点いた群衆は、そう簡単には止まらない。
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ここへ来て、続々とインターネット発の革命が起きつつあるわけだが、
さて、果たしてインターネットに、本当にそんなパワーがあるのか。
これまたタイムリーなことに、
1月25日発売の『クーリエ・ジャポン vol.076』に、
「“つぶやき”では革命は起こせない」という記事が載った。
発売時期から言って、中東の政変が起こる前に書かれた記事であろう。
あるいは、政変後に書いたのだとしたら、その勇気に感服したい。
いずれにせよ、そこに書かれていた論調はこうだ。
フェイスブック流の社会運動が成功するのは、
「多大なる犠牲を払ってもいいから、その運動に参加しよう」
というモチベーションを人々に与えるからではない。
むしろ、そうした大きな犠牲を払うのは嫌だという人に対し、
さほどのモチベーションがなくてもできることに取り組もう、
といったことを薦めるのだ。(Malcolm Gladwell)
たしかに、犠牲を払う人がいなければ、革命に火は点かない。
焼身自殺という、壮絶な死が無ければ、今回の革命は起きていない。
また、社会運動の成功には、
ヒエラルキー構造や、キング牧師のような指導者が不可欠だと指摘し、
インターネットを基盤としたネットワーク構造では弱い、
という論法にも一理ある。
ただ、この論は、旧来型の革命と、SNS型の革命、という
極端な二元論で物を語り過ぎだろう。
SNSはマッチ箱のようなもので、誰でも簡単に火を点けることができる。
これまでの社会運動のように、いきなり火炎瓶に火を点けるところから、
というやり方に比べて、はるかに敷居は低くなった。
まず、大きな犠牲とともに、革命の最初の産声が上がる。
SNSがそれに火を点け、徐々に広がり、各地でデモが発生。
そして、指導者として、ノーベル平和賞受賞者のエルバラダイ氏を擁立。
と、双方の型を取り入れた、ハイブリッド型の革命が完遂しつつある。
無論、まだまだ予断を許さない状況ではあるので、
あくまでも、2011年2月1日現在のコラムとしてお読みいただきたい。
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さて、インターネットが登場して間もないころ、
しきりに、インターネットは民主主義的であると叫ばれた時期がある。
多対多の通信を可能にしたことや、
情報という力を民衆に与えたことなどが、その根拠に挙げられていた。
たしかに、今回のケースが示しているように、
言論統制を敷かれている国において、それは有効に働く面が大きい。
インターネットが巻き起こした民主化革命として、
長く世界中で記憶されていくことになるだろう。
だが、そのことは、インターネットが「革命」を促すキーとなっても、
「民主主義」を推進するアクセルになることを示してはいない。
果たして、インターネットは、民主主義にどう作用するのか。
あるいは、あくまでも中立的な技術であり続けるのか。
そのあたりの話を、次回、もう少し突っ込んで考えていきたい。
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LINKs
Anger in Egypt │ Al Jazeera English
http://english.aljazeera.net/indepth/spotlight/anger-in-egypt/
#egyjp(日本語) │ twitter
http://search.twitter.com/search?q=%23egyjp
前回、ずいぶんと尻切れで終わってしまったので、その続きをば。
「地球はせいぜい50億人しか養えない」という話。
この50億という数字自体は根拠に乏しく、眉唾ものではあるのだが、
ここで大事なのは、数字の問題ではない。
地球には限られた土地しかないのだ、という事実への気付きだ。
こんな当たり前の事実を知ってか知らずか、
しかし、はるかに昔から、限られた土地を有効活用するための努力、
つまり、単位面積あたりの収穫量の増加を目指す試みそのものは、
農家にとって、大きな命題であったことは間違いない。
品種改良、農薬、化学肥料、遺伝子組換え…
農家はいつのころからか、化学の専門家としての顔を持つようになる。
ただし、これらはひとえに、効率的に農作物を作って売れば儲かる、
という市場経済原理に突き動かされたゆえの行動であり、
上述したような大義名分を掲げている農家は皆無だった。
そしてそれは、農家の責任でもなんでもなく、
農業を市場経済に巻き込んでしまった、「神の見えざる手」の仕業だった。
結果としてもたらされたのは、
「いま、その土地から収穫できるモノを最大化すること」
を、是とする思想。
そこからは、「持続可能性」というものが忘れ去られている。
先日、『クーリエ・ジャポン vol.075』を読んでいて、
ふと目に止まったのが、「現在と未来の不均衡」という言葉。
同誌の中では、サブプライムローンを例に挙げて、
金融市場における現在価値の水増しを糾弾する言葉であったが、
これは、そのまま農業にも当てはまる話だと思う。
いまを最大化し続けると、果たして未来はどうなるのだろうか。
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1月22日に公開になったばかりの、
『フード・インク』という映画がある。
映画『フード・インク』公式サイト
http://www.cinemacafe.net/official/foodinc/
題材は、農業の工業化、そしてそれがもたらす食の危機。
詳しくは、興味があれば映画館へ足を運んでもらうのがいいと思うが、
曰く、農作物や家畜が、この大量生産大量消費社会においては、
まるで工業製品かのように扱われ、処理されてきたが、
その歪みが、新たな病原菌の発生や、栄養の偏りによる肥満など、
至る所で噴出しはじめている、という内容。
大量生産を可能にしたことで、たしかに食料は安価になった。
しかし、その背後にあるのは、残念ながら、
「地球上の全ての人たちを飢えで苦しまないようにしてやるぜ」
という正義感に燃える素敵な発想ではない。
もちろん、世にあるこの手の多くの映画がそうであるように、
物事をひとつの側面だけから捉えた見方であり、
やや啓蒙的な内容に偏り過ぎているきらいもある。
この映画を見ながら考えていたのは、
工業型農業の対極に位置する、自然農法、という考え方について。
昨今、マスコミにも登場するようになったので、
ご存知の方も多いかもしれない、『奇跡のリンゴ』の物語。
品種改良を重ねた結果、すっかり弱くなってしまった現代のリンゴは、
農薬無しでは絶対に育てることはできない、という鉄の掟がある。
そのタブーに挑戦し、苦節10年、見事に無農薬のリンゴを実らせた、
リンゴ農家の木村秋則さんが、その主人公だ。
木村秋則オフィシャルホームページ
http://www.akinorikimura.net/
第35回 木村秋則 | NHK プロフェッショナル 仕事の流儀
http://www.nhk.or.jp/professional/2006/1207/index.html
この話、美談として散々各所でもてはやされ、
なかなかここまでやれないよな、と持ち上げられ、
ともすれば、一過性のブームで消え去ってしまうのかもしれない。
ただ、この話のミソは、実は、こうして作られたリンゴが、
その品質と価格の両面において、市場の中で価値を持ったことにある。
大量生産されたものに比べればもちろん高価ではあるが、
品質との兼ね合いの中で、十分な競争力を持ち得たということ。
「持続可能性」のひとつの形を提示したことに、その真の価値がある。
じゃあみんな自然農法にすれば万々歳かというと、そうでもない。
冒頭の話に立ち戻って考えると、
全員が、自然農法を実践したとしても、
なお、解決できない、人口過多という問題が横たわっている。
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そんな世界の人口増の流れとは裏腹に、日本はいよいよ人口減に転じた。
併せてやって来たのは、世界一の長寿国の称号と、超高齢化の波。
最近では、欧米から、そんな世界に先駆けた日本の姿を、
「ジャパンシンドローム」などと呼ぶ声もあるらしい。
欧米とて、これから人口減、高齢化の問題を抱えていくことになる。
その先陣を切る日本のお手並み拝見、という腹づもりが透けて見える。
これから3月にかけて、NHKがこの問題をシリーズ放送するらしいので、
どんな論を展開してくるのか、今から楽しみにしたい。
ジャパンシンドロームをのりこえろ│NHKニュース おはよう日本
http://www.nhk.or.jp/ohayou/special/20110117.html
NHK あすの日本
http://www.nhk.or.jp/asupro/
さて、ここからは個人的な腹案、というにはお粗末なものも含めて、
いくつか考えてみたことを書き連ねて、本論の締めとしたい。
年金問題もさることながら、高齢化の問題とは、すなわち、
扶養する側とされる側の不均衡を招くことにある。
ただ高齢者が増えるというだけではなく、
それと平行して少子化が進むことで、問題はより一層深刻になる。
扶養する側が減り、される側が増えつづけた先に何があるのか。
答えはもう、火を見るよりも明らかな、経済の閉塞だ。
現代日本の農家は高齢化が進み、平均年齢は還暦をとうに超えた。
ただ、上記のような閉塞感を打開する可能性がある、という意味で、
実は高齢者が農業に携わる、それ事態は悪くないと個人的には思う。
定年退職後の田舎への移住だって捨てたもんじゃない。
問題は、持続力。
つまり、後継者の問題だ。
農家の長男でも無い限り、農業を志す若者というのは極めて稀だ。
価値観の多様化なんてご大層に掲げてみたところで、
大学生の就職希望先ランキングは、相も変わらず大企業が居並ぶ。
どんなに就職難を叫ばれても、農業に足を踏み入れはしない。
それは、若者が短絡的だからではなく、むしろ、
それを選択しなければ生き辛い世の中だと骨身に染みているからだ。
「スローライフ」なんて言葉が流行ってみたところで、
結局、憧れは憧れでしかない。
そんな、一時のブームとしてではなく、若者の就職先として、
真剣に農業を提示してやる、というのはあまりにも無謀だろうか。
もちろん、超えなければいけないハードルは高い。
若者は、大卒という背負い込んだプライドを捨てなければならず、
農村は、血縁や地縁という昔ながらの繋がりを失うことにもなる。
過去を美化し、近所付き合いを懐かしむのではなく、
「ヨソモノ」を受け入れる心の広さ。
そんな開かれた農村の姿が目の前にあれば、あるいは、
若者の心を捉えることができるかもしれない。
まだまだ、この話題に関心を持つようになって日が浅く、
紙の上でそんなことを夢想することしかできないが、
少しでも、誰かに響く言葉を届けられるようにと、
そんな思いで、日々、机に向かえるような学生でありたい。
先日の内閣改造を契機に、一気に機運が高まってきた「TPP」。
で、「TPP」ってなんじゃい?
という方も、たぶん少なくないのではないだろうか。
環太平洋戦略的経済連携協定
Trans-Pacific Strategic Economic Partnership Agreement
縮めて、Trans-Pacific Partnership、これを略して「TPP」だ。
英語の時点で、長過ぎて縮められているという体たらく。
漢字が連続して10文字を超えると、途端に暗号にしか見えなくなる。
という、低次元なTPP批判はさておき。
文字面だけ読んでみたところで、
環太平洋地域で、経済的に仲良くやりましょう、ということはわかる。
中身も、概ねその通りだ。
ただ、この「TPP」、参加している国がちょっと特殊だ。
いや、特殊では語弊があるが、日本人にはやや馴染みの薄い国が並ぶ。
現加盟国は、シンガポール、ニュージーランド、チリ、ブルネイの4ヵ国。
たった4ヵ国で環太平洋とは、随分とうそぶいたものだと感心するが、
たしかにこの4ヵ国を地図上に並べてみると、環太平洋という言葉以外では、
形容する言葉が見当たらないのも事実。
この4ヵ国だけで事が進んでいる分には、
日本もさほど神経質になる話ではなかったのだが、
ここに、以下の国々が興味を持ちはじめたあたりから、雲行きが怪しくなる。
それは、米国、オーストラリア、ペルー、ベトナム、マレーシアの5ヵ国。
米国が入っていることからも分かる通り、
ここまで来ると、ちょっとした規模の経済集団になることは間違いない。
これは日本も傍観してばかりはいられない、
と慌てふためきだしたのが昨年の話。
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この「TPP」参加の是非を巡っては、国内でも賛否両論あることは、
おそらく報道などを通して聞いたことくらいはあるだろう。
簡単に言うと、輸出入に関して制限が少なくなるので、
輸出を増やしたい(国際競争力がある)産業にとってはメリットがあり、
輸入を減らしたい(国際競争力がない)産業にとってはデメリットがある、
ということになる。
例えば、前者は自動車であり、後者はコメだ。
で、結果として生じたのが、農水省VS経産省という身内争い。
下記が、各省がTPP参加是非を問うためにまとめた試算である。
農業への影響試算(農林水産省)
前提)主要農産品19品目について、
全世界を対象に直ちに関税撤廃を行い、
何らの対策も講じない場合:食料自給率の減少:40%→14%程度
GDPの減少額:▲7.9兆円
就業機会の減少:▲340万人基幹産業への影響試算(経済産業省)
前提)日本がTPP、対EU、対中国経済協定をいずれも締結せず、
韓国が対米国、対EU、対中国経済協定を締結した場合、
「自動車」「電気電子」「機械産業」の3業種について、
2020年までに米国・EU・中国において市場シェアを失う影響:GDPの減少額:▲10.5兆円
就業機会の減少:▲81.2万人EPAに関する各種試算│内閣官房
http://www.meti.go.jp/topic/downloadfiles/101027strategy02_00_00.pdf
これを見て、じゃあTPPには参加するべきか否か、
判別できる人がいたらちょっと凄い。
というのも、そもそも前提がズレている、というよりズラされているからだ。
農水省は、勝手に「全世界を対象に直ちに関税撤廃を行い」などと、
大風呂敷を広げはじめたかと思えば、
経産省は、勝手に韓国を仮想敵として設定する始末。
ここまで来ると、およそ数字を並べることには何の意味も無い。
とはいえ、たしかに産業界にとって、TPPに入らなければ見通しは暗い、
という見方が大勢を占めていることも、また事実なようだ。
帝国データバンク調べによれば、以下のアンケート結果が得られたという。
TPPへの参加、企業の65.0%が日本にとって「必要」
不参加の場合、7 割超の企業が景気に「悪影響」と認識TPPに関する企業の意識調査│帝国データバンク
http://www.tdb.co.jp/report/watching/press/pdf/keiki_w1012.pdf
言わば、消極的な参加を強いられる事態。
政府としては、TPPへの参加を前提とした上で、
如何にして国内農業を守るべきか、という方向に舵を切ったようだ。
だが、いまや日本の農業従事者の平均年齢は齢60歳を超え、
若者の就職難が叫ばれる一方で、農業を志す若者は一向に増えない。
国内農業にテコ入れするための目処は、何一つ立っていないのが現状だ。
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と、今回、いきなり「TPP」のことに触れたのは、
まさにこの、農業に関する問題について、最近考える機会が増えたためだ。
前にも何かの折に取り上げた記憶があるが、
世界人口は70億人に達しようとしており、さらに増加の一途を辿っている。
一方で、農作物はせいぜい50億人を養う程度しか収穫できないという。
このあからさまな不均衡が引き金となって、
世界各国で、農地の争奪戦が起きている。
中国や韓国は、足早にアフリカに農地を確保した。
そして、もちろん、日本はその流れに乗り遅れた。
多少の装飾が交じっているとはいえ、ここまでが事実。
この流れを、現代の「植民地化」だと非難する声もあるが、
中国に散々工場を建てて「世界の工場」などと呼んでおいて、
農業について、同じことをするのはルール違反だ、などと、
自分のことを棚にあげるのはお門違いだろう。
かといって、
自動車がなくてもヒトは死なないが、食べ物がないとヒトは死ぬ。
だから農業のほうが大切だ、というのは短絡的な議論でしかない。
自動車が売れないとカネがなくなって、カネがないと食べ物が買えなくて、
結局、ヒトは死ぬのだ。
少なくとも、今の経済構造の中では。
もう少し論を発展させたいところだが、
紙幅の関係もあるので、今日のところはこのあたりで。
あまり自分の専攻分野とは関わりが無いと言うか、
下手に手を出すと火傷する領域であることは承知の上で、
今年最初の回は、「生物学」の話をしようと思う。
というのも、去る12月2日、
NASAが開いた、例の「地球外生命体」に関する発表について、
自分なりに思うところがあったためだ。
当日のニュースでは、下記のように報じられたこの発表。
ヒ素で成長する細菌発見、地球外生命探索にも新たな視野
http://jp.reuters.com/article/topNews/idJPJAPAN-18457020101202
いろいろと大事なことが省かれているので、
筆者が仕入れられた情報を元に、簡単な注釈を加えておこう。
まず、地球上のあらゆる生命体は、「DNA」という物質を持っている。
この、DNAに書き込まれた遺伝情報を、親から子へ伝達することで、
生命はその子孫を引き継いで、今日まで生存してきた。
生命にとって必須元素と呼ばれているのは、以下の6つ。
水素(H)、炭素(C)、窒素(N)、酸素(O)、リン(P)、硫黄(S)
これらは、その「DNA」を構成するための元素群である。
過去から現在に至るまで、この構成を満たさない生命体は、
ただのひとつも存在しなかったと言われてきた。
そこへきての、今回の発見。
なんでも、先の元素のひとつ、リン(P)の代わりに、
ヒ素(As)をDNA中に組み込んで生命を維持する生物が居るという、
にわかには信じ難い話。
そもそも、ヒ素というと、例の和歌山カレー事件を思い起こす方も、
おそらく少なくないのではないだろうか。
そう、ヒトにとって、あるいは多くの生物にとって、
ヒ素は、その生命を脅かしかねない猛毒のひとつとして認識されている。
これまでにも、100℃を超える熱湯の中で生きる細菌など、
苛烈な環境下で生きる生命体がいくつも発見されており、
いわゆる、毒と思われる物質を体内に取り込んで分解できる、
という類の生命体の存在は知られていた。
しかし、そのいずれもが、最低限、上記の6元素が存在しない環境では、
生きることができない、という条件を逸脱するものではなかった。
その常識を打ち破った、という意味で、
今回の発見は、正に生物学上の大発見であったことは間違いない。
そもそも、生命にとって毒であるということは、現在の生物学的には、
「生命に必要な物質に性質が似ているが、異なる作用を引き起こすために、
生命体が積極的に排除しようとする物質」ということになるらしい。
似ているのでうっかり間違って取り込んでしまうと、大変なことになる。
全くの異物よりも、そういったものこそを毒と呼ぶのだそうだ。
つまり、ヒ素は、生命の必須元素であるリンに性質が似ている、
このことは、今回の話以前から、良く知られた話だったという。
化学に詳しい人間によれば、元素周期表を見れば一目瞭然だとか。
元素周期表
http://ja.wikipedia.org/wiki/周期表
どうやら、周期表上でタテに並んでいると性質が似ている、
ということらしいのだが、多分、なんでそうなるのか分かるヒトは、
そもそもこの文章をここまで丁寧に読んでくださってはいないだろう。
かくいう筆者も、中学、高校と化学は大の苦手分野だった。
主な理由は化学の先生とウマが合わなかった、
という、今にして思えば他愛も無い理由だったのだが、
たったそれだけのことが人生を大きく左右することもある。
生物は結構好きだったが、高校ぐらいになってくると、
化学がわからなければ太刀打ちできない込み入った話になってきて、
結局、さじを投げてしまった。
その時は、まさか、ここでこうして、
玄人気取りで学術的な開設をすることになろうとは、
露ほども思っていなかったわけだが。
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さて、このニュースが世界を駆け巡る少し前。
日本をはじめとした地域では、全く異なるニュースが駆け巡っていた。
その多くが、次のようなものだった。
「すわ!ついに、NASAが宇宙人発見か!?」
たしかに、NASAが宇宙生物学上の発見、なんて大それた銘を打てば、
上記のような反応を示すのは、ある意味では自明の理。
煽るだけ煽られた期待感は、実際の発表を聞いて急速にしぼんだ。
あるいは、騙されたと憤慨する者も居た。
それはもう、ネット上は、12.2を挟んで大騒ぎになっていた。
今回の発見は、リンが無い環境下で、それをヒ素に置き換えて生きる、
そういった生命の柔軟性を示した。
このことは、もちろん、リン以外の元素についても、
同様のことが起こりうる、という可能性を示唆している。
そして、これまで地球外生命体を探索する上で、
上記6元素を中心としていたものを、今後見直していく必要がある、
そういう意味で、宇宙生物学上の発見とした、ということのようだ。
例えば、これまで必須とされていた水についても、
それを必要としない生命体の存在の可能性を考慮しなければならない。
これに対して、
そもそも、地球外生命体がDNAを遺伝情報の媒体としている、
その前提自体がおかしいんじゃないか、という指摘が、
やはりネット上に噴出した。
何か全く新しい仕組みで、生命を維持している可能性。
もちろん、
素人が、ちょっとニュースを見ただけですぐに気付くようなことに、
まさか、NASAの科学者が気付かなかったはずはない。
気付いた上で、しかし、現実問題として、
我々地球人が、生命を探す根拠は、どうあがいてもDNAにしか無いのだ。
未知の生命。
その何もかもが未知である以上、どこか依って立つ論が無ければ、
真っ暗闇の砂漠で、一粒の砂を手探りで見つけるような、
途方も無い作業が待っていることになる。
無いよりはマシな手掛かり、ということになろうか。
それにしても。
どうやら生命というヤツは、想像の少し斜め上を行くものらしい。
ヒトの知が蓄積されはじめたのは、文字の誕生を起点としても、
たかだか5千年前から。
地球の誕生が、45億年前。
宇宙の誕生が、140億年前。
だからどうしたということは特に述べるつもりは無いが、
その途方も無いものさしの長さに、思いを馳せずにはいられない。
気が付けばもう年の瀬。
相も変わらず、コラム執筆をサボりがちで申し訳ない限り。
今年一年の締めくくりとして、
2010年の自分史的重大ニュースを集めてみることにした。
果たして、そんなもののニーズがあるのかどうかはさておき。
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まず、何と言っても、
この春、3年勤めた会社を辞め、大学院に進学したこと。
そもそも、それがきっかけでこのコラムをスタートしたわけで。
良く言われるのは、「で、将来どうするの?」の一言。
たしかに、大学生の就職内定率が6割にも満たないこのご時世に、
自ら職を辞すなんて、自分で言うのも何だが、正気の沙汰ではない。
これについては、取り立てて楽観的なわけでもない。
どちらかというと、悲観的なぐらいだ。
なんとかなる、という自信があると言えばそうだが、
なんともならなくてもまあいいか、という諦観と言い換えた方が近い。
たとえ全てを失ったとしても、世界の片隅で生きていく。
そんな、やや後ろ向きな覚悟が、たぶん、今の自分を支えている。
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次いで、やはり外せないのは、ブータンとの出会い。
そもそもの出会い自体はもちろんもっと古い話。
これまでに旅してきた中で、幾度も聞いた、ブータンの噂。
そんな噂だけで、大学院の研究テーマに選んでしまった自分は、
いかにも勇み足だったことは否めないわけだが、
1年が経って、その勇み足もまんざらでもなかった気がしている。
夏、初めてブータンの地を踏んでその思いが芽生えたように思う。
のどかな農村風景に心洗われる思いがすると同時に、
何より心を打ったのは、ブータンの人々の信心深さ。
宗教を信じるということが、
今、日本ではとても胡散臭いモノにハマっているような、
そんな印象を抱きがちだ。
だが、ブータンの人々の、生活に溶け込んだその信仰の、
なんと温かく、そして清々しいことか。
昔は自分も、どちらかと言えば、
論理的なことしか信じない、いわゆる科学信仰に近い人間だった。
だからこそ、痛感したこと。
時には、理屈では説明できないようなことを、
噛み砕いて、受け入れていくほうが、
もしかしたら、ずっと生き易いのかもしれない、ということ。
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そして、もうひとつ。
今年、訪れたのは、そう、結婚ラッシュ。
周囲の親しい友人どもが、娶るは嫁ぐは。
そりゃ、自分の年齢を考えれば、周りもそれなりに結婚適齢期。
そろそろ…と考えてしかるべき年次であることは間違いない。
が、それはそれとして、今の自分の立場はまるで正反対。
相手の有無はさておき、無収入では甲斐性もへったくれもない。
焦るとか焦らないとか、そういうことではなく、
なんだか、自分とは違う世界の住人を見るような、
そんな目で、結婚する人たちを見送っていった。
ある意味、最も結婚を意識する年、になったのかもしれない。
無論、自身にその機会が訪れるのは、随分先になりそうだが。
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さて。
ややしんみりと振り返った2010年。
2011年も、ひとまず大学院生活が続くことになる。
せっかく自ら選んだ道なのだから、ひとつ結果が出せるように。
経済的には充実しようもないので、せめて精神的な充足を。
JunkStageを訪れてくださった読者のみなさんも、
どうぞ、良い年をお迎えください。
ここ数回、小真面目なネタに走りすぎたせいもあってか、
やや息切れ感が出てしまいまして…と、
1ヵ月振りの更新になった言い訳を、まずはさせていただきつつ。
今回は、軽めの、というか、ごく個人的な話を少々。
お題は、好奇心のアンテナの張り方、について。
大学院生というと、四六時中、研究のことを考えている、
なんてイメージを持つ方もいるかもしれない。
が、しかし。
こう言ってしまうと、各方面に角が立ちそうな気もするが、
どちらかというと、研究のことを考えていない日の方が多い。
勿論、一般論ではなく、あくまでも個人的な話だ。
世の中には、マジメな人間とそうでない人間が居る。
そもそも。
「情報科学」を専攻しているくせに、
先端技術にびっくりするほど興味が沸かない。
電子書籍元年だ、スマートフォン元年だ、なんだ、と、
世間では、騒いでいるのか、あるいは、踊らされているのか。
3Dテレビ、拡張現実(AR)なんてものも登場してきたが、
技術的にできるようになったから、とりあえずやってみたけど、
活用方法はこれから考えます、な感が否めない。
一応、触ってはみるようにしているのだが、
いかんせん、「うん、開発者はがんばったんだろうな」ぐらいの、
どうしようもない感想しか浮かんでこない。
たぶん、一生開発する側の人間にはなれそうもない。
ただ、断っておくと、情報科学というテーマを選んだことを、
後悔しているとか、そういうことでは決して無く。
情報化社会、などと呼ばれはじめて久しいこの世の中だが、
テクノロジーがある程度浸透してきたことで、
新しく生まれる技術が、「利便性」やら「効率」やら、
そういう尺度でしか語られなくなってきていることに、
ひどく違和感を覚える、という話。
「怠惰を求めて勤勉に行き着く」
とは、某漫画のセリフだが、
みんな、便利だ便利だと新しい技術に飛びついていくが、
それを使いこなしているようで、よく考えれば振り回されている。
そんな経験がある人も多いのではないか。
違う、そこには自分のアンテナは伸びない。
そんな思いが、ここ数年、どんどん強くなってきている。
たぶん、本当の情報化社会は、技術至上主義が一段落して、
さあ、じゃあそれを使って俺たちはどうやって生きるのよ、
という話が、出てくる時にやってくる。
自分の研究活動の目標は、きっとそこにある。
で、そういう研究を進める上で、モチベーションになるもの。
それはひとえに、刺激、なのかな、と。
およそ自分の研究テーマと関係の無いモノに触れることで、
それをガソリンにして、日々蠢く。
宇多田ヒカルが、「人間活動に専念したい」と言った意味が、
実は少しわかる気もする。
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だからというわけじゃないが。
何故か、アートに傾倒しがちな、今日この頃。
これまで真っ当にアートを学んだことなど無いので、
ゲイジュツカ、なるものは、超有名人しか知らない。
ルノワールとか。
ただ、若干こじつけるならば、
予備知識が無いが故に、すっと入ってくるものが、たぶんある。
アンテナに引っ掛かるモノは何かと言えば、
「グッ」とくるモノ、としか言えない。
それが言語化できるならば、そもそも苦労は無いのだが。
さて、そんなこんなで、
暇を見つけては、気になった美術館やらをぶらつく毎日。
先日は、勢い余って、瀬戸内海まで出張し、
「瀬戸内国際芸術祭」なるものを見てきた。
http://setouchi-artfest.jp/
大小いくつかの島々を舞台に、開催されたこのアートイベント。
中でも有名なのは、直島、だろうか。
安藤忠雄建築の地中美術館などなど。
芸術祭期間だけではなく、常設のアート展示も数多く点在している。
http://www.benesse-artsite.jp/
ただ、個人的に、圧倒的に「グッ」ときたのは、犬島、という島。
「精錬所」という、かつて銅の精錬を行っていた遺構を活用し、
新たにアートとして生まれ変わらせた場所が出色。
改めて、自分の中の廃墟属性を再確認することになった。
面白かったのは、この島、
犬島という名前にも関わらず、猫が断然支配的であること。
だからどうしたと言われると、返す言葉も無いのだが。
それ以外にも、そもそも、島に流れるスロウな時間が、
何よりも宝物を見つけたような気持ちにさせられた。
この感覚はきっと、「ブータン」にも相通じるのかも、
とか、これまた無理矢理、自分の興味とこじつけながら。
………………………………………………………………………
と、いろいろ充電をして帰ってきたわけだが、
勿論、なにか直接的に研究に役に立ったということは何も無い。
さらに厄介なことに、刺激を受け過ぎたせいか、
なにかしら創作活動がしたいとか、
そっちの芽が、むくむくと育ってきてしまっている。
残念なことに、絵も描けないし、楽器も弾けないので、
溜まりたまった、インプットを発散する方法が無いのが、
いまのところ、不幸中の幸い。
すっかり本末転倒になりかけているのだが、
案外、現状に満足しているので、まあいいか。
という、何の生産性も無い話で締まりもないところで、
今回はお開き。
流行り廃りで語るべき問題かどうかはさておき、
「世界遺産」というカテゴリも、一時期のブームを超えて、
いまやすっかり定着した感があるような気がする。
「世界遺産」のお墨付きを得ることで、
観光客が倍以上に増えた例は数知れず、
世界遺産と観光開発はセットで語られることが多い。
「世界遺産」を冠したTV番組も数多く作られている。
が、世界遺産のその実は、
観光とは全く異なる、むしろ真逆の目的を果たすためのものだ。
ということをご存知だろうか?
その話をする前に、まずは世界遺産の基礎知識を学んでおこう。
世界遺産の概念は、次のように生まれたとされる。
1960年、エジプト政府はナイル川上流にアスワン・ハイ・ダムの建設を着工。このダムが完成すると、アブ・シンベル神殿を始めとする貴重なヌビア遺跡がダム湖に水没することになる。この事態を重く見たユネスコは、1960年、世界に緊急アピールを発表し、ヌビア遺跡救済キャンペーンを開始したのである。(中略)この国際協力による移築事業を通して、ヌビアの遺跡群が一国家の文化財と言う認識を超え、「人類共通の遺産(our common heritage)」という概念が生まれた。そして、そこから「世界遺産」という概念に発展したのである。
(出典/『世界遺産検定公式基礎ガイド』、毎日コミュニケーションズ、P37)
こうした運動が、巡り巡って、1972年、
「世界の文化遺産及び自然遺産の保護に関する条約」、
通称、世界遺産条約へと結実することになった。
この世界遺産条約、今でこそ、
2009年4月時点で、世界186カ国が加盟しているが、
発効当初は、ヨーロッパの遺産ばかりが登録され、
・世界(の中で、西洋から見て貴重な)遺産、と括弧書きが透けて見える。
・東洋、あるいはアフリカなどの文化を下に見る傾向がある。
などと、批判の的になったこともあったようだ。
ちなみに、日本の批准は1992年、世界で125番目と遅い。
その理由には諸説あるようだが、下記が最も説得力がある気がするので、
蛇足かとは思うが、念のため引用させていただくことにする。
一つだけ、ヒントがあった。日本列島改造計画の推進時期と同時期だった、ということである。証明する証拠があるわけではないが、これならば納得が行く。
日本列島改造計画は、日本各地の山を崩し、海を埋め、土地を掘り返し、道路、鉄道、空港建設、巨大な建築物などが次々と建設される推進力となった。(中略)文化財の可能性のある埋蔵物に出くわすと開発事業者は大変なことになる。その保存のために長時間の調査を行い、場合によっては建設工事、土木工事を中止、計画そのものを断念するケースも多々あった。世界遺産条約はそのさなかに、持ち上がった話である。時の宰相で、列島改造を使命とした田中角栄内閣は、「この上に、開発を遅らせる条約に参加するとは何事か」と反発した、と想像するのは無理なことだろうか。
(出典/http://www.tv-tokyo.co.jp/gaia/keyword/20080824/comment.htm)
………………………………………………………………………
さて、本題である、世界遺産と観光について改めて整理しよう。
現在、全てとは言わないが、大半の世界遺産が、
観光と一体不可分なモノとなっているのは周知の通りだろう。
もちろん、観光から得られる収入が、
遺跡の保護という目的に資する部分が少なくない。
そう、あくまでも保護が目的で、観光開発はその手段だ。
しかし、いつの間にか主従が逆転してしまい、
観光客を呼び込むために「世界遺産」の称号を欲する、
という面が少なからずあるのではないか。
確かに、観光地化することで、保全費用の捻出の他にも、
雇用の創出などの二次的な利得を手にする可能性がある。
その一方、
観光客の増加は、現地の人々の生活形態を大きく変化させ、
結果的に、当該遺産に深刻なダメージを及ぼす危険性も孕んでいる。
………………………………………………………………………
ここで、少しブータンの話をしておきたい。
ブータンは、2001年、世界遺産条約を批准した。
ただし、世界遺産として登録された数は、いまだゼロ件。
世界遺産として推薦するために、各国がユネスコに提出する暫定リスト、
というものがあるのだが、その暫定リストの件数もゼロ。
つまり、今のところ、ブータンは、条約は批准したものの、
世界遺産として自国の財産をアピールする意欲は持っていないようだ。
もちろん、そこには様々な思惑が絡んでいるのだろうが、
安易な観光開発手段として「世界遺産」を利用しよう、
という意図は、どうやらあまり見受けられない。
例えば、先の旅で訪れた「タクツァン僧院」など、
世界遺産に値してもおかしくない、史跡があるにもかかわらず、だ。
http://www.junkstage.com/fujiwara/?p=49
………………………………………………………………………
閑話休題。
そうは言っても、かくいう自分自身、
旅をするときに、「世界遺産」を全く意識していない、というと嘘になる。
世界遺産=凄いモノ、なんて、100%鵜呑みにすることは無いまでも、
ある程度の指針にしていることは間違いない。
ただ、そういう打算的な見方への自省もあって、
「世界遺産」について少し学んでみようと思い立ち、
昨年、世界遺産検定2級なるものを受験してみた。
http://www.sekaken.jp/
そこで見えてきたのは、
結果的に観光に利用されている「世界遺産」の実態への違和感だけでなく、
そもそもの「世界遺産」の理念全てに共感できるわけではない、ということ。
どういうことか。
あくまで私見に過ぎないが、
文化遺産は、百歩譲ってわからなくはないが、
自然遺産は、勝手に人類が評価していいようなものなのか。
という強い疑念が浮かび上がってきたのだ。
世界遺産とは、
「人類が共有すべき顕著な普遍的価値をもつ不動産を指す」、
という定義付けがされているわけだが、
その「人類が」という部分にひっかかりを覚えるのは、
穿った見方をしすぎだろうか。
つまり、地球が長い年月をかけて作り上げてきたものを、
人智を超えたものを、ヒトがその価値を認めて、守ろうなんて、
おこがましい話以外の何物でもないと思うのだ。
仮に、自然が、人災によって壊されようとしているとして、
それを守るのは、その自然が「人類の宝」だからでは無く、
人類の恥ずべき痕跡を残さないため、でしかない。
そういう意味では、自然の景観を、天災から守る、なんていうのは、
恐ろしいほどの自己矛盾を孕んでいるように思われてならない。
天災は、人類にとっては災害だろうが、自然にとっては、
あくまでも、それをひっくるめて、自然、と呼ばれるべき現象のはずだ。
………………………………………………………………………
とまあ、なんだか随分と話が大掛かりになってしまったが、
「世界遺産」は、その本質的な意味の部分において、
これから大きな転換期を迎えることになるだろう。
無限に登録数を増やしていけば、それぞれの価値が薄まるだけだし、
かといって制限してしまえば、新しく生まれる価値を否定することになる。
文化と自然、という問題にも、いずれメスが入っていくことになるだろう。
そう、きっと遠くない未来に。