昨日はたくさんの雪が降った。
待ちかねたたくさんの雪。
雪がたくさん降ったら出掛けると決めていた場所。
エゾフクロウの住む老木。
先日、家族で見に来た時には雪が少なくて、撮った写真も冬らしさに欠けていた。
そして今日は木の枝にモコモコとくっつき、想像通りの素晴らしい雪景色。
フクロウも首をくるくると回したり、毛づくろいをしたり、あくびをしたり。
極寒の朝、とても温かい光景に出会うことができました。
「自然への興味の行き着く果ては自分自身が生きていることの不思議さへと通ずる。」
ある人物がそんな事を語っていた。
決してこのような言葉に導かれた訳ではないのだが、近頃は僕自身も自分の祖先達の事が気になっている。
今、自分が生存しているということは、20万年前に新人類がアフリカで誕生してからいつの時代も途切れることなく命を繋ぎ止めてきたという事実に他ならない。
少し大げさに聞こえるかもしれないが、考えてみるとそれは本当に奇跡のようなことである。
私達はいつの時代にどこからやってきたのか、そして私達の住む土地の歴史について先人達が残した遺跡を巡りながら、現代までの「自然と人間の成り立ち」について調べている。
オホーツク人の存在。
かつて北方から北海道に渡来し、北部から東部にかけての海岸沿いに広く暮らしていた人々。主に海での狩猟採集を生業としていた民で、縄文人やアイヌとは全く違う「北海道の先住の民」である。
どの遺跡を見ても、同年代に彼らの特徴ある住居跡とアイヌの住居跡が重なることは決して無く、オホーツク人はオホーツク海岸沿いに、アイヌは内陸の川沿いなどに住居を構え、しっかりと棲み分けができていたと言われている。
しかし、彼らが北海道で築いた独特の文化、「オホーツク文化」はアイヌ民族の文化形成に大きな影響を与えていったという。
先日、網走の博物館に足を運んだ時の事。
小さなヒグマの彫刻の前で足を止めた。
北海道のオホーツク海沿いの集落跡から出土したものでオホーツク人が残したものである。
海での狩猟生活が主だったオホーツク人であるが、ヒグマに対しても特別な信仰を持っていたと言われている。
彼らの住居跡の内部からは壁際の特定箇所にヒグマの頭骨の集積が見つかることが多く、中には一軒の住居から数百体分もの頭骨が見つかったこともあるという。
他にもクマ意匠の彫刻や木製品が多く出土していることから、彼らのヒグマに対する強い信仰心が窺える。
実はこの彫刻には非常に興味深い事実が隠されていた。
一つ目はこの彫刻の素材が北氷洋にしか生息していないはずのセイウチの牙で作られているということ。他にも礼文島でオホーツク人によるセイウチの牙で作られた彫刻品が出土しているのだが、一説によるとこれらはオホーツク人が北方地域との交易によって入手した牙や骨に加工を施したものであるという。
現在ではこの説が有力視されているが、北極に住む憧れの動物であるセイウチの骨が北海道から出土していること自体に不思議さを感じるのである。
二つ目はヒグマの背中に彫られている文様である。
アイヌのクマ送りの儀式では、クマの胴に”削り掛け”を巻き付けて神の国に旅立つ晴れ着に見立てている。
つまり、オホーツク人もクマ送りの儀式を持っていたということである。それどころか、アイヌ文化がまだ形成される以前の出土物であることから、オホーツク人のクマ送りの方が先行していて、アイヌに影響を与えた可能性が高いということだ。
これまで北海道にアイヌ以外の民族がいたことさえも知らなかった自分にとって、それは衝撃的な内容だった。
果たして、はるか昔に北方からやってきたオホーツク人とは何者なのか・・・。
歴史上では10世紀頃になって忽然と姿を消してしまったとある。
これもまた、故郷へ引き上げたという説もあれば、次の時代の擦文文化時代に吸収されてしまったという説もあり、謎に包まれている。
その後、僕は専門家の方々の書籍を見つけては何冊も読みふけっているのだが、次々と興味深い内容を知ることとなり、この個人的研究は遅々としていてなかなか前には進まない。
まだしばらくは「オホーツク人」から離れられないだろう。
早朝、撮影先へと車を走らせていると原野の中にポツンと小さな動物の姿が目に入った。
すぐに車を降りてカメラを持って原野の中を歩いてゆくと、既に先程の動物の姿がない。
「やっぱりもう逃げてしまったな・・・」と諦めかけた時、数メートル先の笹薮がガサガサと揺れた。
その動物を驚かさないように忍び足で距離を詰めて上からそっと覗き込むと・・・。
動物は笹藪の中で体を丸めて小さくなり、顔だけはしっかりとこちらを向いてじっと僕の方を見据えていました。
「エゾタヌキ」だ。
足の遅いタヌキはこれ以上逃げられない事がわかると、藪の中でじっと動かなくなります。
ちなみにタヌキは更に激しく驚くと気を失うことがあります。
俗に”死んだふり”ともいわれていますが、これは動物学的には自分の意志によるものではなく、反射的に起こる「擬死」行動だといわれています。
難しい話はさておき、この生態こそがあの「狸寝入り」の所以です。
さて、本州ではキツネよりタヌキの方がよく目にするといいますが、北海道ではその逆で通常あまりタヌキを見かけることはありません。
タヌキは愛嬌のある動物として古くから物語の主人公や置物や言葉の形容として用いられてきましたが、身近な動物でありながら人目に触れる機会も少ない為、細かい生態はあまりわかっていないといいます。
人目に触れず森の奥深くでひっそりと生きるエゾタヌキ。
解明などされなくとも良い。
どうか日本古来の動物として、豊かな森の中に、物語の中に、私達のココロの中に生き続けてほしいと願う今日この頃です。
さあ、彼らはこれから大切な繁殖の季節を迎えます。
所用で道北方面へ向かった帰り道、通りがかった川を見下ろすと夕闇の川が水鳥で埋め
尽くされていた。
あまりの数の多さに目を疑い、翌日改めて撮影の準備をして再び同じ川を訪れてみた。
川面に下りると、彼らの声がひとつの和音となって周囲に響き渡っている。
水鳥はオナガガモの群れだ。
ユーラシア大陸北部や北アメリカ大陸で繁殖し、冬季に南へ渡って越冬する。
生息地、越冬地が比較的広範囲に及ぶ為、日本国内でも各地で越冬する姿が見られる。
それにしても見事な数だ。
河原に群れる鳥たちを観察してみると、目を閉じて気持ちよさそうに寝ている者もいれば、
ガーガーと叫びながらあちこち歩き回って、辺り構わず寝ている鳥たちにちょっかいを
掛けている者もいる。
そして、どういうタイミングなのか、時々一斉に飛び立っては頭上をぐるぐると周って
また着水する。
僕にはわからないが、遠くに猛禽でも飛んでいて警戒しているのだろうか・・・。
彼らが水面から舞い上がるたびに空一面が黒く埋め尽くされ、その圧倒的な光景に目を
奪われた。
人間が「社会」という無数の構成の中で生きているように、鳥たちの世界にも私達には
知り得ない集団の中の自分の位置というものがあるのだろうか。
自然に対する興味や不思議さは尽きることはないが、科学的な視点ではない生き物のココ
ロの内を探るのはなんだか楽しいものだ。
今年も圧倒的な春を実感することができた。
久しぶりに森の奥地に入った。
雪の上には小動物の足跡があちこちにある。
大木を見つけるたびに上を見上げ、フクロウやモモンガが営巣しそうな樹洞を探すが、
そう簡単に出くわすものではない。
だいたい、いつも動物との出会いは偶然や不意が多いもの。
でも、今回はある動物に出会う為にこの森へやってきた。
果たして出会うことはできるのだろうか・・・。
カンジキで森を歩いた後は日没を待って車の中に寝袋を広げてひと寝入りした。
目を覚ますと午後5時。窓の外は夕日の残照がゆっくりと闇に変わっていくところだった。
三脚に望遠レンズをセットしている時、少し先の木立の中に小さな動物が走り去るのを
見たが、その後しばらくなにも起こらなかった。
いつのまにか空には丸い月が浮かび、星が瞬き始めてている。
そう、こんな時は動物への期待は捨て、きれいな夜空でも眺めていよう。
山奥で一人静かに満点の星空を眺めるとは、なんて贅沢な時間だろうか。
30分、1時間・・・。
日常とは違うこの時間の流れの中で自然のことや、これから自分がやりたい事などたくさん
の事を考え、いつのまにか撮影の事など忘れて想像の世界へと入り込んでいった。
やがてちらちらと雪が降りだしてきて、ふっと我に返った。
長い時間雪の上に寝そべっていたせいで、すっかりと体が冷えてしまった。
さて、そろそろ戻ろうかと体を起こしてみると・・・、
なんと、ずっと待っていたあの動物が雪の上に立ち止まってじっとこちらの様子を見ている
のだった。
一体いつからこちらを見ていたのだろう・・・。
しかも、近くにもう一頭いるようだ。
“エゾクロテン”
イタチの仲間で愛嬌のある顔に似合わず、実は肉食でかなり獰猛な動物だ。
これまで偶然何度か目にすることはあったが、夜行性で通常は滅多に人前に姿を現さない
為、今まで本格的にカメラを向けることがなかった。
やっと出会うことができたという喜びを抑えながら、落ち着いてすぐに撮影を開始する
が、これまた難易度が高い。
はじめから想像はしていたが、闇の中で素早く走り回る彼らを写真に収めるのは容易
なことではなかった。
しかもストロボ光源は眼の反射が起きてしまう為に正面からは当てられない。
ストロボ2灯をそれぞれ別な三脚に取り付けて斜め方向から光が当たるように置いて、
カメラのシャッターにリモートで発光するようセットする。
これで決まればきれいに写るのだが、なにせ彼らはとにかく走り回るので、ストロボの位置
を何度も置き換えての撮影となった。
そんな状態で撮影は夜中まで続き、結局最後まで彼らに遊ばれたまま終わりとなった。
クロテンが目の前から姿を消し、再び辺りが静まり返った。
天を見上げると今も無数の星が輝いている。
今日は山奥深くで素敵な物語を見ることができた。
それだけでココロが充分に満たされていた。
また次回の出会いを楽しみに思いながら寝袋に潜り込んだ。
2月、北海道では一年で一番寒い「厳冬期」を迎えるが、今シーズンは
オホーツク海での流氷の接岸が例年以上に遅く、つい数日前のことだ。
そんな中、北海道内の中でも一段と冷え込みの厳しい十勝地方の海岸では
ある自然現象が冬の風物詩となり始めていた。
夜明け前。
雪原を越えて海岸に出ると沖合から流れてくる冷たい空気が容赦なく頬を刺した。
まだ暗い海岸を砂浜に沿ってしばらく歩いた。
久しぶりの冬の海はなんと気持ちの良いことだろう。
波の音、冷たい風、凍った砂浜の感触、水平線まで広がる星空。
それは冬の厳しさを越えてここにやってきた者だけが体験できる世界。
程なくして一日の始まりを告げる光が水平線の向こうから昇ってきた。
そして目の前には自然から送られてきた”Gift”。
海岸に打ち上げられた氷が光を受けてオレンジ色に輝き始めたのだ。
どこまでも透き通り、複雑な形をした氷塊はまるでガラスの彫刻のようだ。
砂浜の上にそっと置かれた氷は、波が寄せるたびに海の中へ消え去り、
そしてまた新しい”Gift”が送られてくる。
僕は海岸に座り、静かにその情景を見つめた。
いつまでも見ていたい美しい冬の景色。
この景色を見た瞬間、改めて北海道という豊かな土地に感謝し、改めてこの土地
の自然に惹かれてゆく自分をココロの中に感じた。
12月に入ってもなかなか雪が降り積もらなかった。
思い描く絵の中にどうしても雪がほしかったのだ。
結局、雪を待っていても時間が過ぎ去るばかりで、
ソワソワしていた僕は我慢できずに出発することに
した。
ここは北海道北部の山間部。
暗闇の湖畔に車を止めて寝袋の中に潜り込んでから
まもなく、遠くから微かにたくさんの鳥の鳴く声が聞こ
えてきた。
耳を澄ましてみるとそれは冬の使者、ハクチョウの声。
その夜は”冬の北の自然”を象徴する声を聴きながら深い
眠りに就いた。
夜明け前、まだ暗闇の中をさらりと雪のかぶった草原を
抜けて河原にたどり着くと、突然静寂を破って流れの中
からバシャバシャと激しい音が聞こえてきた。
ドキッとして川の中をのぞき込むと、産卵を終えたサケ
達が最後の力を振り絞って川の流れに抵抗しているの
だった。
やがて空が白み始めたころ、力尽きたサケを狙って河原の
木に止まるオオワシやオジロワシの姿をあちこちに見つけた。
彼らは冬になると極東ロシアから北海道に渡ってくる
世界最大級の海ワシ。
体高が90㎝、翼を広げると2.5mという巨体は、遠く
の木の枝に止まっていても存在感は充分だった。
その姿は北方の野生生物の象徴とも言える。
僕は金色の空がワシの姿を影絵のように映し出す瞬間を
待った。
そして、その時がやってくる。
首を回す、鳴く、羽ばたく・・・。
どんな小さな瞬間も見逃さない様、長い時間ファインダー
から目を離さなかった。
とにかく、青空に変わるまでのわずかな時間が今回の撮影
のすべてだった。
次回は雪の降り積もった景色の中で彼らを捉えたい。
なにかと忙しいこの秋。
10月に入り、自然界ではあっという間に紅葉が深まり、つい先日には早くも北海道内
各地で降雪となった。
このところの急激な寒気の到来に、自宅でもいよいよストーブが稼働し始めている。
近頃は、夕方を狙って自宅近くの山を歩くようにしている。
今の季節、森の中では小さな生命達が冬に備えて活発に活動しているのだ。
足を止め、耳を澄ませてみると、あちこちからカサカサと枯れ葉を掻き分けるような
音が聞こえてくる。
特に夕方、日没の1時間くらい前が賑やかでおもしろい。
僕はいつもこの時間帯をめがけて森に入る。
低い斜光の中で生き物をシルエットで捉えるチャンスでもあるのだ。
夏には早朝にしか出会うことのなかったエゾリスも、今の季節はこちらの存在を気にする
暇もないくらい日没ぎりぎりまで木の実集めに余念がない。
そんな訳で充実した時間を終えて帰路に向かって歩き始める頃には森の中は闇に包まれ
始めている。
真っ暗な山道を帰路に向かってトボトボと歩いていると、決まって森の奥からエゾシカ
の求愛の声、ラッティングコールが大きく響き渡ってくる。
それは秋の夜長にぴったりな風情ある声だ。
以前は北海道東部の旅先で、寝袋の中でこの声を聴くのが楽しみのひとつであったのだが、
ここ数年来自宅から車で数分の札幌市郊外の森でこの声が聞けるようになった。
エゾシカの増加問題も気になるところだが、野性味あふれるこの声が自宅近くで聞くことが
できるのは密かに嬉しい。
できればもう少しこの秋の情緒を楽しんでいたいところだが、きっとこの森もいつものように
あっという間に白銀の世界に変わってゆくだろう。
さて、本格的な冬がやってくる前に取材しておきたい場所がいくつかある。
まずは明日、自分も冬支度をひとつ、”冬タイヤ”に交換だ。
久しぶりに見上げた満月。
深まる秋、冷たい空気が漂う中で見る満月は穏やかで美しかった。
月の引力が大きくなる満月の夜は地球上の生物達に様々な影響を与える
という。
満月の日には私達人間を含めて様々な生物に出産や産卵が多いと聞く。
明治以前、まだ月の周期を基準に置いた太陰暦が使われていた頃、
当時の産婆さんは月の満ち欠けを見て出産の予定を立てたという。
私達と月の密接な関係性について、科学の知を超えた不思議な力を感じずには
いられない。
満月の夜の森。
これまでの撮影行でも幾度もそのタイミングを迎えてきたが、
やはりどこか雰囲気が違う。
それは満月が放つ強い光のせいだけではないだろう。
静まり返った森の中であちこちでうごめく生命の気配に耳を澄ませる。
きっと自然の中で生活していた先人たちは、私達より更に深いところで満月の力
を感じ取っていたに違いない。
さらに深いところで・・・。
小高い山の上に登ると突然視界が開けて、森の奥の方にやっとそれらしき
ものを発見した。
いつか訪れてみたいと思っていたこの地。
森の中の空間にはどこかから運ばれたと思われる大小様々な石がたくさん
置かれていた。
それらはある規則性があるかのようにきれいに円形に配列されていた。
「ストーンサークル」
世界のあちこちに残されているというその史跡はここ北海道の地にも
いくつか存在する。
これは縄文時代後期、今から約3500年程前に北海道に生活していた
北方系縄文人によって作られたもの。
3500年前・・・。
それはどれほど以前のことなのか。
わずか数十年という時間しか与えられていない私達の生命からは想像しがたい
時の流れである。
今回訪れたストーンサークルは、かつてはなんらかの儀式や祭り跡という説も
あったというが、その後の調査によって人骨、土器片、飾玉、弓などが出土し、
現在は先住民の墓であると結論付けられている。
以前、別な土地で見たストーンサークルはこれほどまでにきれいな配列は
していなかったが、このストーンサークルは本当にきれいに円形状に配石され、
美しい状態で残されている。
辺りには直径5m程のサークルがいくつも点在していた。
岩の半分は地面に埋められ、地上に露出した部分は苔むしていて長い長い時の流れ
を感じさせるものだった。
深い山の中でどこか場違いなこのサークルは、ある意味この土地で初めて人間に
よって造られた人工物といってもよいだろう。しかしそれは気の遠くなるような長い
歳月の中で完全に自然の一部と化し、今も静かにそこに眠っっている。
夕刻、初秋を迎えた冷たい空気の中で僕は太陽が沈むまでここで過ごしていた。
森の中は徐々に光を失い、鳥や虫たちの声も止んで辺りが静まり始めた。
そろそろ山を下りようと腰を下ろして荷物をパッキングしていると、
驚いたことにサークルの岩の一部が赤く輝き始めていた。
太陽が水平線に沈む直前、木々の間から差し込んだ真っ赤な夕日がストーン
サークルを照らしていたのだった。
それは本当に美しい光景だったが、わずか一瞬の出来事だった。
夢中でシャッターを切った。
まるで古代の先人が再び息を吹き返し、皆で円を描いて座っているように見えた
のだ。
その後、急速に森が闇に包まれてゆく情景が、たった今見たストーンサークルの姿を
一層強烈な印象として僕に与えていた。
輝いた瞬間、なにか不思議な”力”といえば大げさだろうか・・・、でも自分自身
が不思議な心境に包まれたのは確かだった。
北海道の自然、動物達、人々。
太古から存在し続ける「生命の繋がり」には無数の不思議さ、美しさが隠されている。
ぼくはこれからもこの地に生きる生命を、そして時を超えて様々な生命の足跡を辿って
いきたいと考えている。