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月日の経つのは早いもので、旧暦の7月に入り、今日は七夕(棚機)の節句、まだまだ暑い日は続きますが、間もなく立秋を迎える頃となってしまいました。
前回のコラムは端午の節句に公開しましたから、ほぼ2か月間の長きに亘るご無沙汰、これでは隔週(レギュラー)ならぬ隔節句ライター(ゴメンナサイ!)、百姓への道を往く、川口巽次郎です。
この間、7月初には無事人生3度目の田植えを終え、以来、今日までのほぼ1か月間、毎朝晩、田畑で草を刈る日々を過ごしておりました。わたくしたちのお米作りは、「自然農」のやり方ですから、超スローな完全手作業なのですが、今年は昨年よりは田植えも草刈りも順調に済ませる事が出来ました。
お蔭で、今、私たちの田では夏の日差しを浴びて稲たちがすくすくと育ってくれています。
私にとっては3度目のお米作りになりますが、それでも、ついこの間までは苗代であんな幼い姿で揺れていた命が、このように立派に育ってくれている姿に接すると、奇跡を目の当りにしているような心持ちがします。
特に今頃の田の面を渉る風に稲の葉先が揺れて波打つ様を眺めていると、余りの美しさに気が遠くなるような心持ちになって、しばし立ち尽くしてしまいます。
田の畦では、昔のままに大豆や黒豆を植えています。「畦豆」と呼ばれます。こちらも元気に育ってくれています。
こうして田植え後の約一か月間、稲や豆が負けないように草を刈ってあげて、無事こうして成年の姿にまで育ってくれたならば、後は水の調整をするだけで、田や畦の沢山の生命と稲、豆たちに任せて実りの時を待つ、即ち、田での仕事は収穫の時までしばしのお休みに入ります。そのしばしの休息の時の始まりが「お盆休み」なのですね。
ところで、私たちの田は僅か7畝(700㎡)弱、現代の農業機械、肥料、除草剤、農薬を使ってお米だけを作るのであれば、年間実働5日程度で十分に収穫出来てしまうであろう程の、極々、小さな一枚でしかありません。しかし、わたしたちのように「自然農」の理に沿った手作業で、機械も、薬、肥料も使わなければ、2人でも片手間では対応出来ない程の広さなのです。
それでも、そんな小さな田であっても、きちんと守ることが出来るならば、わたしたち2人の命を一年間に亘って支えてくれるに余りあるめぐみを与えてくれるのです。
先ず稲は、一年を通して食べる主食、ご飯になります。翌年分の籾を取り、仮に、2人で毎日三食、一合づつのお米を食べても余る程の量が収穫できます。余るお米を、畦豆(大豆)と合わせて、必須調味料であるお味噌(米味噌)を仕込みます。更に、稲の裏作として、冬から春にかけて育てる麦と畦豆とを合わせれば、お醤油が仕込めるのです。お醤油にした残りの小麦は、折々に粉に挽いて、うどんやパンにして戴けます。暑い夏の日にはご飯よりも小麦の粉ものが美味しいですからね。
つまり、この1枚の小さい(けれどもわたしたち2人の体力にはほぼ見合った広さの)田さえあれば、わたしたちが、日々、十分な食べ物を戴いて生きることが、保障されるのです。
このような「お話」は、田舎で百姓暮らしを始めた当初のわたくしにとってはおよそ法外な「夢物語」に過ぎませんでした。しかし、今、これは、わたくしにとっては単なる「事実」です。
この一枚の田が在りさえすれば、わたしたちは、農薬は勿論、外部から一切の肥料(化成、有機を問わず)を持ち込む事も無く、最小限の道具(鍬とスコップと鎌)だけを使って、一切の機械や化石燃料(かつての厖大な生き物達の亡骸)の力を借りる事も無く、自らの命を守ることが出来るのです。
それなのに、今、この日本では、そうして人の命を支えてくれる力を持つ豊かな田畑山を、棲むことすら出来ない程に自らの手で汚してしまうという、目を覆うばかりの事態が進行しています。果たして、この世に生きる物として、果たしてこれ以上に愚かな行為があるでしょうか?
わたしは、全ての人たちとは申しませんが、今よりももう少しだけ多くの人たちに、ささやかな田畑を守ることさえ出来れば自然のめぐみの力のみで自らの食べ物は自ら確保して豊かに生きることが出来る場所があるのだ、という事を、そしてそれに気付く歓びの大きさを、知ってもらうことが出来たならばさぞ嬉しいことだろうに、と想っています。
そうなれば、お盆休みには日本各地のそんな方たちのお宅を訪ねては、素晴らしく美味しいご飯のご相伴に預かる事も出来るのでしょうからね。