お金で なんでも 解決ができないことは わかりきったこと
お気に入りのモノに
手を入れなければ
使い続けられない事がわかった時ほど
どんなことをしても
使ってやろうと
いろんな試みをしていくのであり
また
すぐに できなくても
数年をかけて
何度か 試してみることもできる
モノとの関係は とても面白い
麻の独楽柄の着物は
シミを どうやって評価していくのか
この夏の課題です
ところで
私の曲独楽の扱いでも 同じような事がある
私が使っている曲独楽は
ほとんど絶対
自分の扱い方だから 心棒を曲げたりしても
癖がわかっているので 修理がしやすいが
我が息子が コマに触れる機会があり
増して
私の目を盗んで
しかも メチャクチャな取り扱い方をし
一番堪えられないのは
そういうことをしたのに
それさえも 当人が忘れ去っていて
持ち主の私が 突然そういう状態のコマを
発見する事が 増えている
そういう時は
自分の やり方よりも
入門当時の 私が曲げたコマの心棒を
紋也師匠が どうやって直していたのか 思い出すことで
さほど 手を傷めることも無く
修理が出来るわけで
これはしかし
その風景を見知っていなければ
私もできないことだから
人一倍不器用に 曲独楽を曲げていた私の
意外に自慢できることだ
これから いろんな人に 私は曲独楽を触っていただくので
この特性を存分に活かしてみたいと思う
愛媛県では 子供向けの支援を色々しているので
私も遅ればせながら子育て支援に参加します
これは 私 三増 巳也の持っている 曲独楽の中でも
最大クラスの もので
だいたい直径が 40数センチあります
重さも800g近いので
結構気を使います
製作していただく先生から
貴重な物なので くれぐれも慎重に扱う事を
約束している曲独楽です…
さて最近の 曲独楽というのは
実に いろいろな 色形が 増えて
ずいぶん 鮮やかになってきました
三増 紋也師が テレビ出演の機会に もっと 回転する様子を
わかりやすく お客様に 目で楽しめる方法をと
新しく考案した 柄が この 渦巻き柄だったのですが
江戸時代から 曲独楽の柄は
中国伝来の 陰陽五行説に基づく 五色と
色柄とも 決まっていました
うちの師匠を含め 各芸人諸先輩が昭和の戦争敗戦の後
アメリカ進駐軍との共存を求められて
特に
日本特有の 江戸期からの芸は
みんな 変更を迫られる事になった時期があります
GHQ アメリカ進駐軍の キャンプ
横田基地や横須賀など
今でも雰囲気が残っている場所もありますが
今では想像もつかない 場所
私がいつも 父 源氏太郎から聞くのは
目黒 雅叙園です
ここは かつて 「昭和の竜宮城」と 称して
憧れの 宴会と結婚式場でしたが
戦後すぐに アメリカ軍の事務所として 接収され
美しかった回廊も 軍靴のまま 出入りできるようにと
すべて はがされて
飾ってあった 美術品もめぼしいものは 持ち出されたという事でした
ううむ
返還されてからの 復旧が とても美しく仕上がっていて
今では 昔話として 聞く事も 稀となりました
やがて90周年を迎える 目黒雅叙園…
ここの階段は昭和10年当時の もとのまま 残っているので
東京都有形文化財に指定されているとのことです
ああ 東京
私は 出てきたから 思うのだけれど
文化の 親しみやすさ
これは 東京の 最も 誇るべき 姿であります
世界にも 自慢していい事です
アメリカ ニュージャージーのコマ製造会社The Toy Crafter 社長の Donさんが
日本のそういうところを すごく褒めていた事が
今ようやく しみじみ 理解できるようになっています
Donさんも高齢になられて 今ではコマの回し方を
幼稚園などへ 実演に行かれることを ライフワークにされていますが
人生の先輩の
いろいろな 思いを受けて
私も少し 形にしていくことを 始めました
10年前 愛媛県の内子町に引っ越したから
私も ここで 地域にシミコム活動を 開始します
今までは あちこち伺って
局地的に 心の交流をしてまいりましたけれど
この内子町に タネを植えたいと思います
こども の ための 心地よい 場所と そのかたわらに 愛らしい 品と 安らぎを…
いままで 原稿をお休みして
こういうものを書いていました
亭主の店 かわせみの 店先に 置いています
やれやれ
ところで
私たち コマの曲芸師、曲独楽師 三増流の師匠である、三増 紋也が亡くなって
7月で一周忌となります
亡くなった時
後輩の紋右衛門くんが
紋也師の
芸界での 評価が
低いのではないかと
大層嘆いておりました
しかしながら
紋也師の 各受賞歴を見ていると
あまりにも 65年間の芸歴が長かったから
受賞した当時に 彼は 物心ついていなかったわけで
空気のような自然体で 芸を体現していた 晩年の紋也師
その存在感は 弟子の私たちにとって
身体を作っている一部ともなっているのであり
どのように その恩恵を 表現していくかで
これからの 新しい評価そのものが決まっていくに違いないのです
私たち芸を専業とする人ですが
これからいかに 生きていくのかを
真剣に表現の一部として取り入れていくか
芸として どこまで それを 表す事ができるのか
一心に していかなくてはいけない気もします
そして
意外と気が付かなかったのが
言葉で表すという 態度です
私も 自分でホームページ、ブログと
一方通行の情報から 1999年に始まり
近年の ツイッター、Facebookの双方向
コミュニケーション型が
加わって
今思います
何か 寄席でも
イベントでも
仕事をして
演技終了
たった 20分か 30分の
コマを回す間だけの
口上
それだけで
一生過ごすのか…?
それができない私でしたから
紋也師匠に 黙って始めた事を怒られたけれど
曲独楽の普及に一役 微力ながら させて頂くお願いの元
こうして
自分の意見たっぷりの
JunkStage製コラムの形まで
到達しておりまする
ずっと続けて意見を言わせて頂いてきました
自分だけの 曲独楽ではないので
今後の曲独楽の事は 大きな支えを無くして 心配な感じですが
踏みとどまりたいと 思っています
さて
GWという 全国的なエネルギー利用での長距離移動期間中
愛媛県の内子町でも
観光の方々は たくさん来られていましたけれど
大地震の影響があった去年からは 多少経済的に 動きがあった様子ですが
どうにも 活性化を目標として いろいろ算段していた人数とは
桁が違って少なかったようです
NHKの全国ニュース、夜7時の最後で5月5日に紹介された内子町・大凧合戦ですが
合併して五十崎町という名前が言われなくなってしまい
五十崎出身の亭主にとっては ずいぶんつまらない事のようでした
人の出具合も少なかったのは 少子化も関係するでしょうが
生活状況の変化や娯楽の多様化、長距離移動の影響など
考えるほどに 近代化してきた 日本の地域文化そのものが
今後 ほとんど 壊滅していく足音のような ヒシヒシとした感覚に襲われます
曲独楽は 江戸300余年の歴史上 3回 禁止令が幕府から出されました
明治に入ってからは 欧米の芸能の珍しさと どう対抗するか
闘って
昭和の戦争を挟んで戦後
紋也師や小志ん師が 寄席の曲独楽を守り抜き
幸三郎先生や後からは女楽師が米軍キャンプで苦労を重ね
アメリカのラスベガスでショーの合い間に不動の位置を築いた こま鶴先生
そして コツコツと 曲独楽を作る技術を保ってこられた
江戸独楽の広井先生兄弟
独楽玩具の製作の職人さんを増やした功労者です
曲独楽も もっと考えていかなくちゃ
工夫工夫…
柔軟な日本の大衆芸の懐は
日本の良い部分を損なうことなく アジア異文化を
取り入れて飲み込んで来ました
やりようによっては
欧米文化も そうできる可能性さえ あります
日本の人の 「面白がり方」というのは
知識人には 眉をひそめる 題材も数多く
しかし
勢いは それを遥かにしのいで大きなうねりを 生んできました
歌舞伎 念仏踊り 吉原 音楽 若い人や女性のファッション アニメーション…
ホントに
工夫工夫…
初めて長男が小三にして海釣りした成果です。
ネンブツダイだけど…(^.^;)
今回は、いっこうに「はかどらない」歴史探訪方面を ちょいと横へ置いといて
家紋から コマの歴史を ひたすらに 探っていきまする。
まず、家紋というのは、実に色々な模様と、その成立のいわれがあって、
様々な方面からも研究されていて、
事典もたくさん刊行しているから、見ていて面白いし、いいなと思っていました。
我が家の父 源氏太郎の家紋は 五三の桐
母 このみの家紋は梅
みなさんも 親戚の結婚であるとか
墓参りの際に 見る事があるでしょうから
あながち 遠い話題ではありませんね
しかし
家紋が 武家系列の 由来なのか
他の成り立ちによるものなのか なんて
専門書でも 読まない限り わかるもんではありません
私は祖母から 武家の由来だとは聞いていましたけど
詳しくはありませんので 以下は WEB上で公開されている
専門誌から 参照していきます
独楽の紋の話です
まず こちらから 「独楽」紋の 画像をごらんいただければ 有り難いです
二種類の独楽が 描いてあります
まず 木下独楽という記述がある方ですが
その独楽の形を見てみると
実に 「愛媛のちょんがけ」、「熊本のちょんかけ」によく似ている事がわかりました。
もう一つは 杭のようなかたちのものです。これは、欧州でもアメリカでも、
ムチ独楽という、止まりかけたら紐で叩いて回す独楽です。
家紋の独楽は もう一種類あります。
これは ケンカ独楽と紐の模様です。これは今でも柄としてわかりやすいので
着物のおしゃれ紋としても 使われています。
さて、「木下」独楽の話を、したいと思います。
「木下」とは、なんでしょうか。
豊臣秀吉が、木下藤吉郎という名前であったことを、思い出していただきたい。
木下というのは、秀吉のことであります。
そして、秀吉の配下に
娯楽を仕事としている 武家で言うところの「御伽衆」にあたる人々が
多くいたのです。
そして、海外へも攻め入っている秀吉は、多くの海外からの品を
自国へ持ち帰ったり、もちろん人においては、無理やり日本に連れてこられた人も
いたそうなので、相当な影響力です。
そんなわけで、権力者に気に入られると、側において芸を披露したり、
国から移って旅をして、新しい土地に城を作ったりすれば、
そこまで一緒に付いて行って
新しい遊びや 文化に触れて きっと生きていたに違いないと思うのです。
海外から持ち帰った珍しいものは、きっとその芸を象徴する
紋章として
家紋として
その家柄を示す役割を与えられて
後の世に 秀吉の功績を 輝かしく伝える為の 手段としても
残されているはずなのです。
私の今いる 愛媛県で ちょんがけ独楽という遊びがある事を 最近お話し始めましたが
実は この 家紋・紋章になった 木下独楽こそが
その ちょんがけ、ちょんかけ独楽を あらわした柄ではないだろうか ということを
私は思っています。
曲独楽には「風車」という芸が あるのですが
口伝えの伝承として 昔の名古屋城のふすま絵には
その風車そっくりそのままの 演技の描写を描いた市中風景画があったそうです。
大きな茶会を開いたり、御伽衆を引き立てたり、
かくも、この太閤秀吉という方、
今になっても その力の強さは 続いているというところですね。
もう少し、探りたい話です。
子供の参観日と 内子町の地域の区長当番が重なって
眠い中の原稿です。
文章がわやわやなのを、御許しくださんせ。
春がやってきたかと思っているうちに
月末が もうすぐそこまで来ている
ということは
大多数の人が移動を楽しむ
ゴールデンウィークなる期間と結合することになり
愛媛県の内子町・八日市護国町並み保存地区が
いかに小さな観光地といえども
やたらと忙しくなる時期なのである
実のところ
自分が息子と過ごしていなかったら
体力やら 活力などは あまり変化を感じない日常生活であるはずだった
しかし 小1と小3の息子達は
私たち両親の体力など 考える事もなく
グリグリ進化し続けていくわけで
生き物の成長の早さにおいて
人類が 離乳を早める工夫を生み出したお陰とかで
四季いつでも出産して子育てできる人って すごいのである
おそらく 高齢出産が ごく当たり前の仲間入りをしていく世の中にあって
自分のことを構う時間も 短くて済む心の余裕も 生まれやすいのではないのか
てなことを考えたりして ご近所の回覧板とか 地区の会費集めをしながら
夜中の原稿を書いている今…
仕事の場所である 江戸から明治期の建物保存地区を
維持している人の高齢化と
来る人との交流時間が 娯楽の長距離化で短くなり
かかわりを持つ きっかけ作りが非常に難しくなっていくので
私も自分の専門職 コマの曲芸師としては
地域に古くからある コマの子供遊び ちょんがけコマを
何とかして 探ってみたいと考えています
熊本のちょんかけコマとの共通点として コマの加速のやり方が同じ事がありますが
コマの形と 最初の回転の始め方が違います
熊本のコマが16cm程度と大きくて重いので より コマ自身の回転率が 初動でつけやすく
勢いもなかなか落ちにくいから 回転を維持するのも技術的に 楽です
しかし 伊予・愛媛のちょんがけコマとなると
コマが平均で10cm弱 高度な技術者だと 最近喧嘩コマで量産されている
ブリキコマで回せてしまう人もいますが
私など 超初心者は 軽すぎては とても回す事も 維持ももちろんできず
基本的に コマ自体に重さを付加した 鉄輪を巻いた木のコマで 挑戦するのです
本当に難しいコマです
最初などは何回も練習するうちに 自分が左回転しながら コマに加速をつけるので
目が回ってしまって大変でした
小さい頃から ゲーム機やテレビなどまったく無かった世代の人は
山の中でこのちょんがけコマを遊んで 隣の村まで対戦に行ったり
技術比べで 大人になってからも
同じコマを遊ぶ人同士が 神社や寺の境内などで対戦したりして
子供に教えるというよりは 自分の技術の高さを誇示したくなっちゃうみたいでした
非常に覚えるのが困難な遊びなので
いくつになっても技術が衰えないし
情熱を持って コマを語る事ができる方が
ちょんがけコマの愛好家さんには多いようです
あちこちで 熊本の愛好家さんや 大学の先生などが
普及目的の 大会を開いている様子で
熊本のちょんかけ独楽の方は 知名度がすごく高くなりました
何とか 愛媛の方も 形を作っておきたいなと思っています
まとまりを 作っていかないと 出来る方が 高齢なので
時間が有りません
ネット無縁の世代だから 葉書と手紙でしなくちゃいけないのが 本当に大変…
まだまだ 頑張らないと 家庭と亭主のかわせみの仕事と 曲独楽と こういうことの
並行作業は とても大変です
とにかく 今日は もう 寝かしてください…
どうやら これは 何かのきっかけになるらしい
そういう予感がする時
結構私は 寝不足だったり
他に用事があって その時だけ局地的に忙しかったり
そういう状態の事が多い
今回も どういうわけか
寝不足と 次男の風邪と
初めての 長男次男の習字教室通いが
インドネシアのコマの事を調べている私を直撃している
仕事のキリというのは 皆さんにも必ずあるから
共通の話題として わかっていただけると思うけども
意思の力で乗り切れるのは
自分の身一つ 身軽な環境である経験からの
自信であることが
結婚出産子育て突入後
仕事に身を入れだした矢先に
どんな人でも 慌てる状況だと
…
思いたいのよ…
…
どうしたら 地道に重ねていく単純作業を
新一年生のワクワク息子にワカラセラレルノカ
とにかく
私自身 小学校に通ってた時から 曲独楽師ではなかった
だから 希望を持って
…
それは
ウソ
…
今日のは 完全な
敗北宣言です
明日はヘベレケの 赤目で
弾ける息子らの手綱を 操る
母でありまする
コラムというのは
こんなブログ状に書くつもりはないのだけど
地域の回覧板担当も巡ってきた事だし
本気で地域参加を 生活サイドからも していかなくちゃ、
という課題なのでした。
玄関先で今夜は狸の生ゴミ争いが激しいデス
では 次回は
ちゃんと かたちにまとまる事を 祈る…
乗馬クラブに連れて行き、初めて乗せていただきました。
ランボー号。
何でも初めて体験する事で、何か得る所はあるものだから、近所にこのような有り難い方々がいらっしゃることに感謝です。
特に思うのですが、実際に自分から乗りたいと言い、そこまで行き、乗ってみてこそ、の子供なりの気構えというか、心構えなので、こういう積極的な経験は、親やら他の人が言い聞かせる事や、やらせてみる物事なんかに比べると、ものすご~く身になる事です。
私自身、親に言われた事はほとんど忘却の彼方、深い霧の向こう…。
幼稚園で通ったオルガン教室…先生が怖かった。それだけ覚えていたりします。
さて、春から愛媛県の地域の子供のコマ遊びについて、調べ始めました。
現在だいたい、70歳代以上の方に限って遊ばれている、「ちょんがけコマ」という独楽の遊びです。
また調べていくうちに、登場してきた歴史上の人物との関係。
熊本県のちょんかけ独楽との関連性。
謎な部分が多いのですが、どうも、インドネシアに起源があるとの記述を発見し、
今軽い興奮状態です。
調べろ~。
当コラムでは おそらく一番読者の皆さんにとって 最もつまらない話
先日 次男が無事に 保育園を卒園いたしましたっ!
我が家単位での国民増加人数は彼が最終便であるので
…おそらくだけど…
これからひたすら曲独楽はじめ 日本の風土と遊びや芸のつながりの事
普及活動に まい進させていただくつもりです
でも これだけは言わせてください
しかししかし 実体験というのは どんなに予測可能な事であっても
本当に 現実感に勝るものは無し…
憎たらしい小児の私
自分が卒業する時は 泣くか泣かないか 友達と帰りのジュースおごるか賭けた位だから
そういう押し殺し系列の感情体感は
慣れているというか
そもそも相当な鈍で 愚なる私
素直系直感表現とは 在学中
検便を集めるだけの 保険委員
遅くまで帰れない 体育委員
夏休み遠出できない 園芸委員
…損な経験が多かったので
すっかり小学校高学年の頃には
漫才のツッコミ性格が 板についた
生き残り 後出し性格に変容をとげた結果だけれど
高校で 相当なひねくれを発揮しつくしたせいか
社会人となったたくぎん行員時期には
すっかり素直な新人に戻る事も出来た
でもって 曲独楽師を習得し現在母にもなり
今 びっくりの お母さんとしての 涙の体験を したばっかりのコラムなのである…
本当に 意外だ
曲独楽を人生の友とした時
絶対に結婚しないと
紋也師に宣言した私が
結婚を決めた事も
人生は驚きに満ちている
息子が二人生まれてくれた事で
私の考え方に しっかりとした支えが出来た
曲独楽を伝えていく事に
何ら 抵抗なく 息子に教えるという事ではない
別に教えなくてもいいんだという事だ
私がきちんとしたものを 残しておくことで 曲独楽は残っていく
それを選ぶのは個人の自由だからだ
こうしなくちゃいけないという 決まりごとの 外せない部分以外は
自由な曲独楽だから
その日本の大衆芸として 市民の楽しみとしての曲独楽のおおらかな部分を
古典芸という事で 硬くする意味は無いということ
子供が自分から好きで関わるのは ぜんぜん構わないので
そうなった時に 型を教えようと思う
意外だ
自分の人生にも こんなに面白い 日常がある
面白い日々に万歳
ところで今 私は 愛媛県の ちょんがけ独楽という 難しい回し方の独楽を調べています
またまた 新しい課題への挑戦が始まります~
桜が咲いたしね
早咲きの しだれ桜は 今日満開だ
写真を撮って コラムに載せますね~
仲間である 私の仕事 コマの曲芸 曲独楽きょくごま
私は1998年頃に 日本古来の曲芸や獅子舞などを保全普及しつつ寄席の色物として
活動している太神楽曲芸の職業芸人の団体
約10年間太神楽曲芸協会に所属していたから
先輩諸氏が どんな活動をしているのか
実地で勉強させていただけて 本当に有り難かった
実際の所 稽古していて どうしようもなく聞きたいことがあったとすると
曲独楽の事だけでは 解決が付かない、なんて事もあるので
父 源氏太郎の先輩・同期・後輩だったりする太神楽曲芸協会の先生方には
書類では わからない歴史の話や 一生自分の財産になる事をいろいろ伝えて頂いた
太神楽曲芸協会からは 結婚すると決めた時に退会させて頂いたけれど
今でも ものすごく 見えないところで お世話になり続けている…
曲芸で使用した小道具など 御祓いをして 「まり塚」という場所に納めるのですが
私も実は 川崎大師にあるその「まり塚」の台座に
名前を掘り込んでいただきました
今でもありますから
もし行かれる方がいたら 三増巳也の名前を 探してみてね~
技芸だけでなく それに関係する様々な事を維持し 伝えていく
衣裳 道具の管理 伝統の奉納芸 祭で呼ばれて各氏子さんのいる場所へ出掛けたり…
そこの方たちの長寿健康を祈願し ご商売なら繁盛するように芸をご披露して
何日かかけて 訪れていく
そういう祝祭の風景を 形にする役目というか
お互いの心を確かめ合う機会を作る仕事も 大事なことなので
もし 私が 曲芸の師匠方と 寄席の楽屋や お客さんのお座敷でだけ
お会いする関係だったら
こういう細かな 活動のことは 知る事がなかったろう
体が動かなくなる高齢の頃には 各師匠は指導に回るけれど
中でも お囃子の維持や技術の向上に 多大な功績があることを
ここで 強くお知らせしておきたいと思う
上手な師匠は 呼ばれて歌舞伎公演などで 御簾内の演奏家としても活躍の場がある
今まで 維持してきた事は 本当に 寄席の席亭さんや
ご贔屓のお客様 寄席を支える芸の仲間に 応援して頂いてこそ…
毎年 川崎大師では まり塚まつり がありますので
お近くの方は 一度行かれてみてはどうでしょうか
奉納演芸なので 無料です
私がいた頃は 浴衣反物をデザインして 販売していましたが
最近は落語方面も 「はなしか」ゆるキャラグッズ販売が始まったみたいですので
未確認ですが 何かお楽しみがあると思います…
2012年5月21日(月)午前11時から 儀式・演芸奉納 開催
詳しくは川崎大師サイト 「まり塚まつり」へどうぞ ↓
http://www.kawasakidaishi.com/event/may.html#maritukamaturi
太神楽曲芸協会サイトも 歴史の説明など ありますので どうぞ ↓
http://www.daikagura.org/index.html
明日は 次男の卒園式 お別れ会で曲独楽での お祝いをします
人生の節目に ふさわしい こういう心の現場で 日本の庶民の芸は
生き続けて行きます
格式がある儀式で かつて奉納してきた歴史が
「型にはまる」ように きちんとした 芸へのご評価を頂戴する 支えです
日本で 道路での娯楽が 規制されているのは 混乱を避けるためで
地道な地元の人の 心の活動と どうしても
同じような場所で 「知らずに」他の場所から来た人とは
見た目では「技芸」ですが 心の構えそのものが違う為に
話をしても あまりかみあわなくなってしまう
そういうことは もう 起きないように 今後なって欲しいと思いますね…
気が付かないうちに
データ化されているもの
データ化されていないもの
この不具合は いつか困った事に
なりそうな感じがする
各国の貿易事情を変えていこうと
FTAとか TPP交渉が 続いていきます
これから 私たちの歴史の中で 民間伝承や子供が主体の地元の祭や儀式
そういう一番はかない状況にある 子供の発育とか
地元の人との 交流など
そこに住んでいて その土地を維持し 水場や 日当たり 風の流れまで考えた 家々を
ただ 黙々と 生きていく事で 続けている人たちがいるのです
都市部に生きていると
地方の本当の声は 一般の人の場合を考えてみても
もしかしたら 一生 関わり無いものなのかもしれません…
私は東京生まれだし 育ちも37年間ずっと豊島区民で
結婚して愛媛県内子町大瀬の里山生活をして9年目で
仕事がコマの曲芸師で 各地を訪れる機会が多いから
都市部と地方の良さを 色々考える事が多いです
純愛媛県人の亭主が話す山間の人の暮らしの様子など
「ちょっと待ってよ」と言いたくなるくらい
おおよそ百年近く 考え方が変わっていないということ
よくよく 尾根尾根に立ち並ぶ家並みを見てみれば
滅多やたらと騒がしくする事は無く
普段どおり 毎日の農作業をしている風景が 寄り添っている
百年前くらいの蔵が 崩れかかって斜めになっていても
他人に迷惑がかからないなら そのままにしておき
近くに使いやすい小屋を作って使う
本当に崩れて倒れた時を見計らって 近所から小さなユンボ(ショベルカー)で
独りでもできる 取り壊し作業をする
たぶん 重機は 無かったとしても 別に急ぐわけでもなし
手作業で 片付けていく
亭主が買い取った 今の大瀬の大きな農家本家さんにも 蔵が三つあって
全部倒れていて そこにそのまま 取り壊して埋めていた
ちょっと見て考えても 山の上なのに
家を作ったのは江戸時代 もしかしたらそれ以前の室町期までさかのぼれる地域
石垣の石をどこから こんなにたくさん人力で運んだのか
近くには石灰の鉱脈があり 町並みの白壁の漆喰の多さは ここから来る事を知った
石灰岩だから あまり農作物には向かない
石灰の石の間を川が流れる風景は
真っ白な石に真っ青な水の色が 夢のように美しいけれど
そこに 魚は一匹も泳いでいない
そう きれいすぎると そういうことになる
私も きれいすぎなくて良かったナ
私が知る限り 石灰岩の山で取れた竹の子は 旨くないのだ
我が家の竹の山が 石灰の山でなくて良かったナ
石灰は 近代ではコンクリートとして利用されているから
必ず 地元にはコンクリートの会社がある
埼玉県秩父の武甲山は おかげで縄文時代の信仰遺跡や
数多くあったという巨岩も すっかり無くなってしまった
内子の石灰は たくさん掘れない山で良かったナ
先日 亭主の情報で 数キロ離れた山地に 展望台を作っている人がいると聞き
早速 山の道を車で猛烈に登って行って見た
途中でイノシシ駆除中の 鉄砲を持ったおじさんに 危うく撃たれそうになりながら…
大屋敷 ミニ鍾乳洞 どちらも 案内してくれたおじさんが持っている畑にあるとのこと
昔の悲しい伝説と 今も 遠い所から 内子の人と出会って話がしたいと来る人の
出会いの場所を 畑仕事をしながら 管理されていた
内子の建設会社さんなど 寄付して出来た小屋もあり
展望台から見える山 そして町並み保存地区や 各目印の場所を書いた地図が
山の高さなど わかりやすく表示してあった
(もし ここに行かれたら 訪問ノートに必ずご署名をお願いしますね
私も息子に書かせましたよ)
もう こういう個人の存在力って 意味がなくなる時代が来るのだろうか…
芸についても 技の歴史じゃなく
もちろん芸人個人の歴史なんかでもなく
そういう技芸を通じて そこに住む人が どのように 人とのつながりを作っているのか
それに気が付かなくては
いっこうに 真剣に職人仕事をしている人や
命がけで現場作業をする人
そして 病気や差別で苦しむ人
そういう心の人と
恥ずかしくなく 出会ったり 話したり
心置きなくする事が 減ってしまうだろうから
そう そういう管理者側の 権威に満ちた社会の情報からは
決して 搾取されている立場の人の 気持ちは微塵も見当たらないはずだ
どんなに探しても 都合の悪い 弾圧や搾取 奴隷や人身御供 遠島 斬首 押し込み
飢饉の時に 穴を掘って女性や子供に飛び越えさせた「雀塚」の話など
民間伝承には ちゃんとその話が存在していても
歴史の教科書はじめ 統治者についた側の文献には載っているはずも無い
残っている遺跡や廃墟の 神殿の顔が削られているのを見た人はいると思うけれど
あれが そういうものの やってきた証拠だし
楽しみのために その土地の生き物を狩って絶滅に追い込んだ話を知っているはず
私たち 日本の古典的大衆芸は その生まれた場所を この 民間伝承だと
言い切る事も していきたいと思います
そうしていくことで 海外の表現者に もっと 理解してもらいたい
無理解 誤解を減らしていかなければ
無用の混乱も避けられる
日本のお金を持って自国に帰る技芸者諸氏
くれぐれも これからは 日本の民間伝承を 少しでも学んで お帰りいただきたい
そうしたら バブル期に銀行員だった私のパリ3日旅行での
「日本は台湾の別名だろ 日本、台湾は中国の小さな島だ」と
フランスのカフェでおじさんに言われた この言葉に
反論する糸口ぐらいは つけてやりたい
亡き母の歌っていた 子守唄には 技芸は必要なかった
子供を思う心を 唄うのだから
ささやかな 心さえ 奪い取る可能性がある単一化
大衆芸まで 染めるのは そりゃ 罪というものじゃあ ありませんかね!?