ウィッグを作成したときに、残っていた髪をバリカンで剃り上げてから1年と1ヶ月。
勇気を出して、まばらに生えた髪を切りそろえに出かけた。
美容院の重たいドアを開けると、明るい店内がまぶしく感じた。
それは店内がガラス張りだったからだけではない。
なにかこう、気恥ずかしいような、ちょっと気後れしてしまうような気持ち。
個室に通される前に、髪を触られてしまったらどうしよう。
そんな不安な気持ちもあったかもしれない。
真っ直ぐにスタッフの目を見ることができなかった。
「○時に予約したメグミです・・・個室でお願いしたのですが・・・」
すぐに部屋へ通された私は、心底ほっとした。
椅子に腰掛け、名前や住所など、カウンセリングシートなるものを書き、
お茶を用意してくれたスタッフへとそれを渡した。
しばらくお待ちください、と言われてからの時間が長く感じた。
なんて切り出そう。
前の晩、ずっと考えていたけれど、答えは出なかった。
ほどなくして、担当者が現れた。
希望通り、女性の美容師さん。
「今日はどのようにしましょうか?」
鏡越しに笑顔で話しかけられた私は、突然ワっと泣き出してしまった。
驚いている彼女をよそに、ひとしきり涙を流してから、
小さな声で
「髪を切ってもらいたい」
そう言って、ウィッグに手をかけた。
治療で髪がすべて抜けてしまったこと。
半年くらい前から髪が生えはじめ、ようやくここまで伸びてきたけれど、
美容院へ足を運ぶ勇気がなかったこと。
来てはみたものの、まだ、女性の髪形として成り立たないようだったら、
今日はヘッドスパだけして、またウィッグで帰るのもやむなしと考えていること。
ここまで話すと美容師さんは言った。
「とても似合っていたから気がつきませんでした、ステキなウィッグですね!」
嬉しかった。
きっとそれしか言えない状況には違いなかったのだろうけれど、
手持ちの中で一番気に入っているウィッグをつけてきてよかったと思った。
一年ぶりの美容室でのシャンプーは気持ちのよいものだった。
髪を洗い流し、鏡の前にいる猿みたいな、ひよこみたいな髪型の私。
キレイな毛が生えてきていると褒められ、また嬉しかった。
ただ、ストレートだった私の髪は、そこにはなかった。
天然パーマのごとく、クリンクリンの髪が生えてきていたのだった。
ちゃんと切りそろえてもらっても、それは変わらなかった。
病院で聞いたことがあった。
新しく生えてくる髪の毛質は、前とは変わることもある、と。
まさにその状態。
でも、文句は言えなかった。
だって、こうしてまた生えてきてくれたのだから。
髪が抜け、お風呂場で発狂したのは、つい一年前。
つらい治療、手術を乗り越えてた私の身体はちゃんと、命を感じていた。
これからはウィッグのことを気にせず街を歩ける。
風が強く吹いたって、電車で座ってたって、気にしなくていいのだ。
ワックスをもみこんでもらい、ベリーショートでパーマがかかってるみたいだなんて、
なんだか突然オシャレな人になった気分。
そうだ、大きなピアスを買おう!
夫には友人と買い物に行って来ると言い、出かけた。
もしも、美容院へ行くまでに、弱気になって切れなかった場合のことを考えて。
きっと驚くだろうな!
かくして私は脱ウィッグに成功し、めでたく自毛デビューを果たした。
・・・次は、結婚式の準備~その後をお伝えします・・・
2009年5月
お風呂に入ってシャンプーをしているとき、
「髪の毛が伸びてきた!」
そう感じることが多くなった。
最後の抗がん剤投与は2008年10月末、そこから7ヶ月が経過していた頃だ。
完全につるっぱげになっていた私の頭髪は、ウィッグにつぶされながらも、
驚くまでの生命力を発揮し、力強く伸びてきていた。
赤ちゃんのような髪質、細くてしなっとしていて、手触りはまるでベルベットのよう。
医師からは、抗がん剤の副作用を説明されるときに
「髪はいったんすべて抜けるけれど、また元のように生えてくるから」
と言われていたものの、内心ものすごく心配していた。
もしも一生、これから先ずっとウィッグ生活だったらどうしよう。
楽しんでいくつも買ったくせに、実のところ、そんな風に思っていた。
毎日違うウィッグをつけて気分転換していたつもりでも、心の中では不安だった。
だからこそ、伸びてきた髪の毛を触るのが癖になっていた。
がんばれ髪の毛!と毎日毎日触りながら思っていた。
触って髪の毛があることが、少しずつでも伸びてきていることが嬉しくてたまらなかった。
これから暑くなっていくし、早くウィッグを取りたいなぁと思い始めていた頃だった。
しかし、どこで切ってもらえばよいのだろうか。
ガンがわかる前に行っていた美容院は、髪が抜けてから行かなくなり、はや1年。
気に入っていたところだったけれど、この状況を説明するのは・・・。
それに、そもそも切りそろえられた髪ではないから、ウィッグをして行き、その場ではずす必要がある。
その瞬間を考えると、周りの目がとっても気になって仕方がないように思えた。
ならば、医療用ウィッグを作ったところで、個室でのカットのサービスもあるから、
と思ったけれど、なんだかおばさんっぽくされそうで、それも気が乗らなかった。
そうこうしている間に6月になり、31歳の誕生日を迎えた。
この年はちょうど運転免許の更新の年だった。
証明写真を撮らないといけない。
思いきって新しい美容院へ行ってみよう!
そう思い、急いで検索し始めた。
予約の電話ではさすがにいきなりそんなことは伝えられないから、
個室があり、カウンセリング重視、というようなところがいい。
一軒、銀座でぴったりの美容室を見つけた。
・・・次は、地毛デビュー~その後をお伝えします・・・
2009年5月
緊張しつつ迎えた初出勤。
また元の職場に戻ることができ、またみんなと一緒に働けることが、何より嬉しかった。
とはいっても週2~3日でさらに時短勤務、同僚よりも1時間遅く出社し、1時間早く退社する。
そんな勤務形態はなかったのに、新設してくれた会社に感謝の気持ちでいっぱいだった。
休職願いを出した2008年4月から、実に1年ぶりの職場復帰。
ものすごく長い期間会社から離れていた気でいたのだが、考えてみればたった1年。
半年間の抗がん剤治療と手術に放射線治療、それを駆け足でこなしてきたんだと改めて思った。
終わりが見えなくてつらかった治療の日々も、時間としてはそれしか経っていないのだ。
その証拠に、まだ髪も生えそろっておらずウィッグでの職場復帰。
フルタイムで元のように働くには、まだまだ時間が必要だとは思ったが、まず第一関門はクリア、
そんな気持ちで仕事に取り組むことができた。
また、毎日ではないものの、決まったスケジュールで動くということは、
私には合っていたように思う。
ホルモン治療にまだ身体が慣れていなかったこの頃は、朝起きてみたら調子が悪い、
という日がよくあった。
身体がだるくておもかったり、めまいがしたりと、特別コレということはないのだけれど、
サボってるだけなんじゃないか?と思われてしまいそうな症状が、一番つらかった。
職場復帰前は、そんな日は家でゴロゴロしていたのだけれど
「よし、仕事だ!」と身支度を整えれば何とかなり、出社できる日もあった。
少しずつ身体を慣らし、これも社会復帰へのリハビリだと、そんな風に思いながら仕事をした。
また、夫の帰りが遅い日には、仕事の後の一杯も楽しめるようになった。
これは相当、嬉しいものだった。
元々お酒が大好きな私であったが、抗がん剤治療中はお酒どころか水も飲めない日もあったし、
そもそも乳がんはお酒があまり・・・と言われていたりもするので、なんとなく量は減らしていた。
だからこそ、ただお酒を飲むのではなく「仕事の後の・・・」というところに意味があった。
ご褒美的要素があれば、うしろめたさを感じることなく、美味しくお酒を飲むことができた。
夫も「飲み代を、自分で稼げるくらいになるといいね」と、冗談めかしに応援してくれたものだった。
・・・次は、ウィッグをはずすとき~その後をお伝えします・・・
この面接をセッティングしてくれた派遣会社の担当者には、
登録時に思い切ってガンのことはエントリーシートにて伝えてあった。
もしその時点でダメなら次の派遣会社では黙っておこうと、
なかば実験でもあったため、正直に、
治療がひと段落したためアルバイトを探している、と現況を伝えていた。
すると担当者からは、治療のために会社を辞めた、とせず
『結婚を機に退職し、今アルバイトを探している』
とした方がよいのでは?と言われていた。
そこに少し違和感を覚えつつも、面接当日。
やはり体調を理由に、はねられてしまうこともないとは言えないから、
先方には伝えていない、と聞かされた。
確かに特別なスキルが必要でもなく、誰にでもできる仕事を希望しているのだから、
健康な人の方がよいに決まっている。
週2~3日の勤務、通院日は休みの日で調整すれば、それで済むこと。
だから余計なことは言わなくてもいい。
そんなことは重々承知だった。
面接は穏やかな雰囲気で始まった。
ダメな固定曜日があると難しい、と言われたけれど、
少しくらいのワガママなら通るだろうと、月イチの通院のことも、言わずにいた。
週に2~3日のオフィスワーク、事務作業だ。
もうひとりのスタッフとのワークシェアリングで、週5日を協力し合って分担、
ということだから黙っていようと思った。
話は進み、では翌月ゴールデンウィーク明けから、という話になった。
即日内定がでるとは思っていなかったので、驚くと同時に嬉さがこみ上げた。
こんな高層ビルで、社員食堂もあるような大きな会社で働ける。
輝かしい社会復帰の第一歩、楽しみな気持ちになった。
たかだか週3日のアルバイトで、そこから治療費を捻出したらいくらも残らないが、
自分で収入を得ることで、ちょっとした後ろめたさがなくなるかなとも思ったし、
『今は治療が仕事なんだから』
と言う慰めの言葉も、これからはもう聞かなくていいんだ思うと嬉しかった。
でも、帰り道。
なんだかウソをついているようで、ソワソワした気持ちがし始めた。
聞かれなかったから伝えなかった、と思うようにしていたのだが、
隠しごとをしている、という気持ちに、どんどん変わっていくのを感じた。
もしまだ通院中だと知られたら?
ガンだとわかったら?
そして、これがウィッグだとバレたら??
内定をもらったのに、どこか不安な気持ちだった。
カミングアウトした方がいいのかどうか、悩んでいた。
ちょうどその時、ガン宣告されたときに退職ではなく
休職をすすめてくれた元上司と話す機会があった。
それなら元の職場に戻ればいいじゃないか、と声をかけてくれた。
確かに、復職できるのならば、それにこしたことはない。
ほとんど入れ替わりのない会社のため、ほぼほぼみんな私の事情を知っている。
治療がひと段落してからの再就職、元の職場に戻れるのならば、それが一番楽だ。
しかし、突然ロクに引き継ぎもせずに職場を去った私には、
そんな資格はないと思っていた。
申し訳なくてそんなこと言出せないし、そもそもアルバイトを雇っていなかったし、
それに今、人が必要かどうかもわからないし・・・ と、
ネガティブなことばかり言っていたら、それなら自分が話をつけてくる、
と、彼は言ってくれたのだった。
当時彼は元の会社にはおらず、日本にもいなかったのだが、
本当に話を通してきてくれた。
ただ、私は内定をもらっている身だったので、それを正直に話し、
お断りをするか、向こうからNGが出たらその時は面接をお願いしたいと伝えた。
結局二日ほど考えた。
派遣会社へは率直な気持ちを伝え、それを断りの連絡とさせてもらった。
担当者は、次からは先方にも事前にお知らせした上で、
もしくは、面接でちゃんとお話しできるようにしていきましょう、と言ってくれた。
私の経験上、派遣内定を破ったら、次、なんていう言葉が出てくることなど、
まずありえないと思っていた。
しかし、ちゃんと事情を話せば伝わるんだと、世の中、そう捨てたものでもないなと、思った。
その翌週、私は元の職場へ面接を受けに行った。
当時、ウチの会社には面接後のお決まりのパターンがあった。
それは、面接で好感触の場合は、オフィスの案内をして回る、というものだった。
30分ほど話しただろうか、
「じゃぁ、オフィス見学していこうか」
と冗談混じりに声をかけてもらった。
かくして、私は元の職場に週3日のアルバイトとして復帰することとなった。
・・・次は、職場復帰~その後をお伝えします・・・
※つい先日、手術から丸三年が経ちました。
おかげさまで再発転移もなくすごしております。
今後ともどうぞよろしくお願いいたします。
放射線治療が終わり毎日の通院が不要になるのを待ち、
病院から近かった一人暮らしの家を引き払った。
そのタイミングで夫と一緒に住み始め、専業主婦が板についてきたのは2009年4月頃。
朝食を作り夫を送り出し、掃除や洗濯など家事をして、夕飯の支度をしながら夫の帰りを待つ。
結婚したものの、これまで何ひとつ妻らしいことができていなかった私には、
この生活が新鮮で、楽しく、そして嬉しくもあった。
しかし、どうしても不安な気持ちがぬぐえなかった。
周りに取り残されているような、不安感。
もう、丸1年も仕事をしておらず、外出のほとんどが通院で、
社会との関わりがなくなっているような気がしていた。
これまで、仕事も遊びも、全力でこなしてきた私であったが、
2008年はそのすべての時間を治療にあて、それに専念してきた。
しかし、もう、治療といえば、毎日服用する薬と月に1度のホルモン治療の注射のみ。
通院はとたんに月イチに減ったのだ。
心にポッカリ穴が開いたようだった。
元々、私は結婚後も仕事を続けるつもりでいた。
29歳、ちょうど仕事が楽しくやりがいのあるステージにあって、夫にもそのように伝えていたが、
乳がんを患い休職し、そして休職期間が満了したため退職。
専業主婦になるつもりは全くなかった。
しかし、これまでと同じように働けるかと言われると、まったくその自信はなかった。
この頃、ホルモン治療の影響で体調のすぐれない日があり、
困ったことに、それは起きてみないと分からなかった。
今日はダメだな、あぁ今日は調子がいいな。
そんな状況がまた自分自身を不安にさせた。
夫は、普通の生活をしていくことがリハビリになるからと、仕事はしなくていいと言った。
けれど、その方がつらいのならば、アルバイトを探してみては、と提案してくれた。
私はやれと言われれば、どうにかこうにかこなす性格だ。
だったら、できるかできないか考えるのではなく、まずやってみよう。
人生を左右させるほどの決断でない限り、ダメならまたそこで考え直せばいい。
いつになったら普段通りの生活ができるのだろうか、なんて思って心配していても仕方がない。
私はアルバイトを探し始めた。
週2~3日、残業ナシ、満員電車には乗らなくてもいい時間、休んでも代わりはいくらでもいる。
そんな仕事を希望し、派遣会社にお願いしてまわった。
するとほどなくして数件紹介があり、面接へ出向くことになった。
久々にスーツを着てパンプスを履き、清々しい気持ちになった。
ウィッグもカラーは抑えめ、清楚っぽいものを選んで着用していった。
新しいチャレンジにワクワクしていた。
・・・次は、面接~その後をお伝えします・・・
2009年3月22日(日)
去年も一昨年も同じ大会に出場したが、今年はフルマラソンではなく、10キロ。
だけれども、胸がソワソワする感じは変わらない。
ドキドキするような、楽しみなような、でも不安もある、けれど、ワクワクする。
きっとマラソンを趣味とする人ならば、誰しも経験したことのある感覚だろう。
私はこの感覚、嫌いではない。
しかし、今年は一味違うソワソワ感。
もちろん、10キロ走れるのか、という体力的な不安もあったが、この日の天気は雨。
しかも強い風が吹いていた・・・。
ソワソワどころではない。
そう、このときの私はまだウィッグなのだ!!
これまで風が強い日や雨の日に、ウィッグ着用で練習したことはなかった。
考えてみたら、手術・放射線治療が終わったばかりでそんなにハードな練習は・・・と、
晴れて気分の優れる日にしか走ったことがなかったからだ。
しかし、一度やっておくべきだった。
何事も最悪の状況を想定しておかなくてはならない事を、病気から学んだはずなのに。。
キャップをかぶろうか。
いやキャップは意外に風を受けるから、キャップごと飛ばされたらシャレにならない。
しかもスタートの都庁付近はビル群でさらに強い風が吹く。
けれど、雨の中ウィッグでずぶぬれになったらどうなってしまうのか・・・。
かといって、ウィッグは着用せずバンダナを巻いて走る勇気もない。
(普通の人は雨の中バンダナ巻かないでしょう・・・)
悩みぬいた末、結局、ウィッグのみで走ることにした。
一応、長いものではなく、ショートカットのものを選んだ。
9時過ぎのスタートに向け、7時頃家を出た。
やはり風は強く、小雨も降っていた。
しかし、もうやるしかないと、心をきめ、東京都庁へと向かった。
誰に頼まれたわけでもなく、しかも5000円も払って、寒いのに早起きして、
もしかしたらウィッグ飛んじゃうかもしれないのに!
つくづく、無茶だなと自分でも思いながら。
しかし、スタートしてしまえば東京マラソンはもうお祭り。
沿道からたくさんの応援をもらいながら走ることができる。
ひとりで駒沢公園をぐるぐる走る練習とはまるで違う爽快感。
途中、母校が見えるのだが、入院中お見舞いに来てくれた同級生の顔が浮かんだりと、
いろんなことを思い起こしながら足を進めた。
と、ゴール間近で恐れていた事態がやってきた。
強い向かい風。
ウィッグは前髪を吹き上げられると、非常にキケンな事態に陥る。
風は容赦なく前から吹き付けてくる。
かなりヘンだけれど、飛んでしまわないか不安で横髪をちょっと引っ張りながら走った。
それでもおでこ全開、まったくダメなので、もう仕方がないと、下を向いて走った。
風の吹いてくる方向に脳天を向け、相当おかしな格好で走った。
今でも思い出すと涙が出るくらい笑ってしまう図だ。
東京マラソンは随所で写真をたくさん撮影している。
後からゼッケン番号で自分の写真を検索できるようになっているのだが、
この時の様子も、もれなく撮影されていた。
9キロ付近なのに、私だけ100メートル走のスタートダッシュみたいな格好。
すっごくゆっくり走ってるのに(笑)
そんなこんなでも、また走れることがどれほど幸せで、嬉しいことか。
ゴールには夫と友人が駆け付けてくれていたので、そこで泣いたらカッコ悪いと思い、
先に泣いておこうと思ったのか、走りながらちょっと涙がこぼれてしまった。
結局そのままゴールしてしまい雨のせいにしたが、最高の笑顔もそこにはあったと思う。
1時間10分、見事に私は完走することができた。
エントリーした前年8月は、抗がん剤治療の副作用に苦しみ、
フラフラで歩くことさえままならないこともあった私が、10キロを走り抜くことができた。
がんを乗り越え、大好きなマラソンがまたできるようになった。
既に感じていた筋肉痛すら、嬉しく思えた。
・・・次は、アルバイト探し~その後をお伝えします・・・
放射線治療も半分が過ぎた2月半ば、
毎日の治療にも慣れ、普段の生活にも慣れてきた頃。
身の回りのこともひととおりでき、以前のように友人とお酒を飲みに行かれるようにもなり、
そろそろジョギングを再開しようか、という気力がわいてきていた。
それは、3月22日(日)開催の第3回東京マラソンのための練習。
エントリーは前年の2008年8月で締切っていた大会である。
つまり、抗がん剤治療の真っただ中、私はエントリーしていた。
治療がうまくいき、手術も乗越え、放射線治療が2月いっぱいで終わることを見越し、
3月にはまた走れるようになっている自分でいたい、という強い希望を胸に、
42.195Kmは無理だとしても、と、10kmの部にエントリーしていたのだった。
抽選の結果、見事私は当選した。
この当選は、第1回、第2回と、2回のフルマラソンに次ぎ、3年連続の当選。
こんなところで運を使い果たしている場合ではないのだが、これには周りも驚いていた。
きっとまた走れるようになる!
そう言われているかのようだった。
奇しくも、私がガン宣告された2008年3月17日は、
第2回東京マラソンでフルマラソンを完走した、ちょうど1か月後。
第1回、第2回の間は、のほほんと1年を過ごした私であったが、
第2回、第3回のそこには、耐えがたい試練があった。
これまでに経験したことのない、ガンとの闘い。
また走れるということが、本当に嬉しかった。
指の先がしびれたままの足を靴下に通し、シューズを履いて、私は走り始めた。
天気のよい昼下がり。息が白く見えた。
冷たい風を感じつつも、カラッと晴れた青空のもと、私はのんびり走った。
しかし、なかなか思うように体が動かない。
丸々1年も走っていないうえ、抗がん剤と手術、また放射線治療中ということで
体力は以前とは比べられないほどにまで落ちていた。
少し走っては息が上がり、フラついてしまう。
当時、駒沢公園が私のジョギング場所だったのだが、
そこまで約2キロの道のりをアップのつもりで走って行くことすらままならなかった。
それでも、がんを乗り越え、たったの1年で復帰できたんだ!!
という気持ちが、1年ぶりに走る私の背中を後押しした。
・・・次は、東京マラソン10Km~その後をお伝えします・・・
それは治療が始まってから2週間くらい経った頃に現れ始めた。
「紅斑」といって、照射したところの肌が赤みを帯びてきた。
お風呂には入っても良いがゴシゴシこすらないように、と注意を受けていたのだが、
とてもタオルでこすれるような状況ではなくなってきていた。
ひどく日焼けをした時のような感じ、といったらわかりやすいだろうか。
次に「乾性落屑」というかゆみ。
特に冬だった事もあり、乾燥がひどくさらにつらかった。
温存できて大事にしていこうと思った右胸の見た目が、どんどん悪くなっていく。
それは、胸に手術の傷があることと同じくらい、私にはショックな事だった。
たとえ何年か経てば薄くなる、と言われても、
私が気にしているのは今、今の胸で、そして今、治療を続けなければならない。
先のことなんか聞いてないよ!と、心の中で思っていた。
※現在2011年7月、放射線治療が終わってから2年と4ヶ月程経過、
今でも照射したところは、日焼けしたように肌の色が黒くなっている。
もう本人が気にしているからわかる、くらいではあるが。
そんな私を見ていた夫が、沖縄へ行こう!と突然言い出した。
私は平日毎日治療があるので、土日の一泊二日でないと無理だし、
第一そんな体力はナイと言ったのだが、海を見るだけでもいいじゃないか、と言われた。
考えてみたら、術前の旅行は体調不良でキャンセルしたため、
夫婦での旅行は夏に伊豆へ行ったきりだったこともあり、向かうことにした。
1月の沖縄は寒かった。
当り前といえば当り前、海を見る気持ちにもなれなかったが、気分転換にはなった。
忙しい中、土日をあけてくれた夫の、頑張れよと応援してくれる気持ちが嬉しかった。
2月に入り、治療にもなれてきた頃、ひとつの別れがあった。
それは、放射線科でいつも同じくらいの時間に待合室にいた患者さん。
手術の前後、どちらも抗がん剤を投与しなくて良い早期発見の乳がん患者だった。
彼女の放射線治療期間は私よりも短かった。
うらやましく思ったが、彼女の話を聞いていると、抗がん剤をやるやらないに関わらず
ガンはガンなんだなと思った。
人生を左右させてしまう、大きな病気である事には変わりなかった。
・・・次は、治療をしながら普段の生活に慣れていくために~その後をお伝えします・・・
それは、少々体調が悪くても毎朝起きる、という
会社員であった私ならば当たり前の、規則正しい生活の始まりを意味した。
実家からだと通院に時間がかかりすぎるため、
家のことをすべてこなす自信はなかったが、已む無く都内の自宅へと戻った。
国立がんセンターでは乳がんの放射線治療に予約制を取り入れていない。
午前中までに受付を済ませ、ひたすら待つのだ。
当然、朝早く行けば比較的すいているのだが、電車はひどく混んでいる。
その頃の私は、駅の階段を上がるだけでも息が切れるほどで、
通勤ラッシュに耐えられるだけの体力はなかった。
10時過ぎに家を出て、病院へ向かった。
痛くもかゆくもない治療だが、ひとつ面倒なことがあった。
毎回毎回、上半身裸にならなければいけないこと。
普通の人だったら、さして面倒なこととは思わないだろうけれど、
ウィッグを着用している私にしてみると、着替えは実に面倒だった。
いちいちウィッグも外して、脱ぎ着しなければならなかったからだ。
おまけに真冬、たくさん着こんでいた私は、術後で右腕が上がりにくいこともあり、
たった3分間横になるだけのために、汗をかきながら着替えたものだった。
会計が多少混雑していても、だいたいお昼頃には病院を出ることができた。
その後にランチをして帰るのが唯一の楽しみだった。
毎日同じ時間帯の治療のため、待合室で仲良くなった方と食べに行ったり、
友人を築地や銀座に誘ったりもした。
こうして気分転換をしながら毎日の治療を続けていった。
・・・次は、放射線治療の副作用~その後をお伝えします・・・
都合により休載しておりましたが、このたび再開させていただくことになりました。
今後ともどうぞよろしくお願いいたします。
10/1、本日はピンクリボンデーです。
ピンクリボンとは・・・
乳がんの撲滅や、早期発見のための検診を啓蒙・推進する運動を象徴するシンボルマーク。
世界中で行われいるこの運動は、日本でも毎年、今月10月を「乳がん月間」とし、
各地でピンクリボンキャンペーンが多く行われており、それは年々拡大しています。
今年、シンボルカラーのピンクにライトアップされるのは
東京都庁、トウキョウタワー、レインボーブリッジや表参道ヒルズなどだそうです。
また、東京・神戸・仙台の3都市においてピンクリボンバナーを掲げるとのこと、
街なかにピンクのフラッグが目につくことと思います。
ネット上でも、各ポータルサイトで乳がんについて特集を組んでいます。
皆さん、このピンクを目にしたとき、乳がんについて考えてみていただけませんか。
一粒でも、悲しい涙が流れることのないよう、
大切な胸のこと、大切な胸に手をあてて。
〜次回は通常のコラムを更新いたします〜