Home > 新着記事 > rakko

2011/05/07

 

 こんにちは。諒です。

 前回に引き続き、上代における「鏡」について。そのイメージの展開を文学に探ってみたいと思います。

 「鏡」は表面にものの かげ(姿)を映し出し、光を反射します。前回は神話において「鏡」に映し出された天照大神の「御魂」が宿ると語られていることを見ました。天照大神の属性は太陽ですので、「鏡」が光を反射する、まさにその瞬間に神の存在が実感されるものと考えられます。神話はその信仰を裏付けるためのひとつの解釈としての側面を持つでしょう。

 ところで、「鏡」の神秘性、呪具としての用途は天照大神の御神体として神社に祀られる以外にも色々あります。「鏡」は祭祀の場において、祭祀具のひとつとして用いられているものです。記紀や風土記の記述に樹木の枝などに勾玉や幣帛とともに懸けて祭祀を執り行う様子が書かれます。どうしてそれらを懸けるのか、ということについては必ずしも明らかにされていません。一方で『常陸国風土記』の久慈郡河内里という所の話で、石の「鏡」が「魑魅」(「鬼」)を退けたとされており、「鏡」に破邪の力を見ていたことがわかりますので、その両義的な側面として、神を迎える意味がとりあえずは考えられるかと思います。他にも、発掘品からは奉納品や副葬品として埋納されることがわかっています。

 そうした神秘的呪術的な側面はそれとして、「鏡」は日用品でもあります。ちなみに、ですが、『萬葉集』に、

   たらちねの 母が形見と 吾が持てる 真十見(まそみ)鏡に 蜻領巾(あきづひれ) 負い並め持ちて 馬替へ 吾が背(巻13・3314)

という歌があります。これによると、奈良時代当時の「鏡」や「領巾」(ひれ)には、合せて馬と交換しようという位の価値があったことになります。正倉院文書に残る馬の値段は、天平宝字4年(760)閏12月13日の記録で1050文、この頃の白米1升(=10合)が11文より多め位なので、単純に計算すると白米95‐6升の価値に相当するだろうと。だんだんよく分からなくなって来ましたが、当時は白米自体、高級であったことを考えると、まぁ、新車を買う位の事は考えてよいかと思います。(新車云々のあたりは計算に疲れてちょっと適当です。すみません…)とにかく、「鏡」も日常で使うとはいえ、高級品であったと言いたいのです。閑話休題。

 さて、先程の歌に「母が形見」とありますが、次の歌では自らの形見として夫に「鏡」を与えています。

  真十鏡(まそかがみ)見ませ我が背子(せこ)吾が形見持てらむ辰(とき)に相はざらめやも(巻12・2978)

前回の始めに出しました。(*歌番号を訂正いたしました。)形見とは、離れ離れになっている人を偲び追念するためのもので、恋人には衣を渡したり、植物を遺したりします。この歌、「持てらむとき」の解釈に二説あります。一つは「持っているときに会える」(1)、一つは「持っていれば再び会える」(2)。文法的には、ラ変動「持テリ」未然+推量助動「む」連体+「とき」、で、「とき」はその時点でも未来でも、「持っているとき」なら何時でもよいので、どちらも成立します。ただ、ここで考えたいのは、形見が「まそ鏡」(澄んだ鏡)であること。

 (2)の「再び」という解釈における「鏡」の意味は、待っている人が必ず居るのだ、と自覚させて励ます形見であり、「見」の枕詞としての「まそ鏡」の用法(「鏡」自体にはあまり意味が無い)に近いと思われます。もとより、形見は本人ではありませんので、渡したり持っていたりすることで安心感を得ると同時に、離れ離れであることを自覚させるものでもあります。つまり、形見として歌われていること自体が、「鏡」が人々の日常において、天照大神=鏡(「御魂」)として存在するような質を持ち得ないことを示します。「鏡」が人の魂をうつしとる、といった考え方があったという確かな例は、残念ながらありません。

 それでも、「まそ鏡見ませ」(まそ鏡をごらんなさい)と強い語気での訴えに、「鏡」を見る意味を考えるべきでは、と思うのです。なぜなら、上代の人々は神の魂が、その姿を映すことで「鏡」に込められるという発想を持っていたからです。その発想は、「鏡」の本来の機能を認識して始めて創造されるものです。「鏡」にものを映し出す経験から、神話の世界を理解しているのです。そのことは逆に、かつて映し出したものの魂が残る、という理解があったことを考えさせます。だからこそ、「鏡」を形見として贈る行為には、見ることで「会える」という期待を託していると考えられます。とすると、歌の解釈は、

  「まそ鏡をごらんなさい、あなた。あなたがそれを持っているでしょう時に、会えないということがあるでしょうか。」

となります。

 以上、上代の「鏡」の扱い、その発想と表現について考えました。「鏡」のような呪物は特に、その力をどこまで信じて扱われていたのか、といったことが文学という虚構の世界においても問題になります。でも、その連関するさまを見逃したくないと思っています。

 ではでは、なおさん にバトンしたいと思います。

09:41 | rakko | 古代の「鏡」について考える 2 はコメントを受け付けていません
2011/04/23

こんにちは。中世文学担当のタモンです。

今回は、能「弱法師(よろぼし)」と、能を翻案して書かれた三島由紀夫『近代能楽集』「弱法師」について、書こうと思います。

 本題に入る前に、弱法師を素材にしたストーリー群の整理をしようと思います。けっこう、こんがらがっているので、(自分のためにも)説明しておきたいと思いまして。。。

そもそも、弱法師(よろぼし)、という名前はインパクトがあります。

どうやら、元来は足の不自由な乞食という意味のようです。ただし、弱法師は目が不自由な場合が多いです。

前近代では差別される側である男が「救い」を得る、というのがストーリーの要のひとつ。

もう一つが、弱法師(素材によっては別名)と義母との恋。

なんでそれが結びつくの!?という素朴な疑問が浮かびます。

その疑問を解決するために、おおまかにストーリーパターンを追っていこうと思います。

能「弱法師」の元々の話型は、インドの説話までさかのぼることができます。

『法苑珠林』巻九十一や、『大唐西域記』巻三におさめられている「クナラ太子説話」が、能「弱法師」の原拠にあたります。

クナラ太子は、おおまかに言うと、

クナラ太子は目を抉られて王国を追放された。後に無実が判明した時,人々が経を聞いて流す涙を集めて太子の眼を浸し,眼窩に入れると太子の視力は回復した。

というお話です。

このお話が日本に輸入され、和訳版クナラ太子説話が流布します。

和訳版クナラ太子説話は、日本版クナラ太子説話へと変化します。それが、平安時代から鎌倉時代にかけて、『今昔物語集』巻四第四話、『宝物集』、『三国伝記』などの多くの説話集に収められました。

鎌倉時代になると、クナラ太子説話のストーリーに変化がおきます。

主人公の名が「しんとく丸」となるのです。さらに時代がくだると「俊徳丸」とも称されます。

ここで、説経節「しんとく丸」が生まれます。

説経節とは、説経、説経浄瑠璃、説教ともいう芸能です。もともとは、京都の三十三間堂・北野天満宮など、その他人の多く集まる所で演ずる街頭芸人が、物語を語るものでした。ござを敷き、長柄の唐笠を肩に寄せてかざし、両手でささらを擦りながら語るので、ささら乞食ともいわれました(『ロドリゲス大文典』『国史大辞典』)。

説教節「しんとく丸」のあらすじ

河内国(現大阪府)高安の長者夫婦が清水観音に祈願して生まれたしんとく丸。しんとく丸は四天王寺で稚児の舞を舞った時、和泉の国近木(こぎ)の庄陰山長者の乙(おと)姫を見、恋文を交換する。生母が急死した後、継母の激しい呪いで、癩病(らいびょう)にかかり、両眼がつぶれ、四天王寺南門に捨てられる。弱法師と呼ばれて乞食をしているうちに、乙姫の屋形で辱しめられ、四天王寺に逃げ帰る。乙姫は親の反対を押し切ってしんとく丸を追い、長い放浪の末ついに発見。ともに清水寺にもうでて、観音のご利生により、病は本復する。報恩のため大施行(せぎょう)を行い、落ちぶれて盲目となった父を救い、継母を殺す。(『国史大辞典』)

折口信夫は、「しんとく丸」は「身毒丸」と書くのだとしています。身毒河とは、インダス河をさすからです。

この説話をモチーフにして、寺山修司は「身毒丸」(岸田理生との共同台本)を書きました。

説経には、継母の継子への関係が描かれます。

この関係性を発展させ、近世では浄瑠璃『摂州合邦辻』で、継母と継子の恋物語が描かれます。

浄瑠璃『摂州合邦が辻』

河内国主・高安左衛門には先妻の子・俊徳丸と妾腹の子・次郎丸がいた。次郎丸は壺井平馬と共謀、俊徳丸を殺して家督を奪おうとたくらむ。合邦道心の娘・お辻は左衛門の後妻になり玉手御前とよばれていたが、俊徳に恋をしかけ毒酒を飲ませて病にする。

盲目となった俊徳は家を逃れて許嫁の浅香姫とともに、天王寺の西門にある合邦の庵室にかくまわれる。玉手御前は俊徳を追ってきて執拗に言い寄るので、怒った合邦は娘を刺す。玉手御前は、不倫の恋も毒酒を飲ませたのも、俊徳を次郎丸の手から守るための苦肉の手段だったと本心を明かし、寅の年月日刻そろった誕生の自分の生き血によって難病を治し、満足して死ぬ。(『大日本全書』)

説経のストーリーバージョン「しんとく丸」は、やがて中世では能「弱法師」を生み出します。

「弱法師」のあらすじ

河内国(現大阪府)高安の里に住む通俊は、ある人の中傷がもとで、息子の俊徳丸を追放する。それを後悔した通俊は、我が子の無事を祈るため、天王寺の僧に頼み、七日間の炊き出し(宗教的行為の一環で、施行(せぎょう)と言う)を行うことにした。

彼岸会に集まる群衆のにぎわいのなか、俊徳丸とその妻が現れる。彼は西方にあるという極楽浄土を拝み、難波浦の美しい景色の数々を心眼で「見つめて」いる。しかし盲目である悲しみが高ぶってくると狂乱し、行き交う人々に突き当たって転び伏してしまう。この弱法師こそ俊徳丸と気づいた通俊は、夜も更け人気がなくなった頃、父であると名乗り、俊徳丸とともに高安の里に帰ってゆく。

じつは、このあらすじは現在の能「弱法師」と異なります。

元来は↑のように演じられていたと思いますが、現在では、登場人物が変更され、天王寺の僧と俊徳丸の妻は登場しません。

より、弱法師の孤独や絶望に焦点が当てられています。

心の眼で難波浦の景色を見る弱法師の姿に、ひとつの救いと絶望が見られるのです。

この「弱法師」を翻案したのが三島由紀夫『近代能楽集』です。

『近代能楽集』「弱法師」あらすじ

時は晩夏、家庭裁判所の一室。
東京大空襲の時に、炎で目を焼かれ、光も両親も失った5歳の少年、俊徳。そんな彼を、川島夫妻は引き取り、蝶よ花よと育て上げた。
それから15年後、俊徳の実の両親の高安夫妻が現れ、家庭裁判所で調停委員の桜間級子を挟んで、彼の親権をめぐり、高安夫妻と川島夫妻とで話し合いが持たれていた。
高安夫妻は15年間、俊徳を思わない日はなかったと懇願する高安夫妻に対し、川島夫妻はそれを聞き入れず、話は平行線をたどる。
そこへ級子が俊徳を連れてくる。
俊徳は、人も世界も受け入れない固い殻に閉じこもり、二組の両親を嘲る。
俊徳は級子に言う。「養い親たちはもう奴隷ですよ。生みの親たちは救いがたい莫迦だ。」「みんな僕をどうしようというんだろう。僕には形なんかなにもないのに。」
級子が美しい夕映えに感嘆の声を上げると、俊徳は、炎に目を灼枯れたときに見た「この世のおわりの景色」の幻影に襲われる……。

(引用http://theaterbrava.com/public/modern/story.html

藤原竜也主演の舞台を観たことがあります。

クライマックスの彼の語りは圧巻でした。

狂気を孕んだ少年を演じることに天下一品の役者だと、心底思いました。

ちょっと長くなったので、次回に回したいと思います。

02:38 | rakko | 「弱法師」のストーリーパターン変遷 はコメントを受け付けていません
2011/04/08

お久しぶりです。なおです。
前回は、『源氏物語』の光源氏が、たくさんいる妻たちに正月の装束を贈る、いわゆる「衣配り」の場面をご紹介しました。

本当は、光源氏以外の登場人物たちの「贈り物上手」ぶりもご紹介したいところなのですが、贈り物の話ばかり延々と続けるのも、つまらないですし、今回で一度区切りをつけようと思います。

最後にご紹介したいのは、実在した歴史上の人物、藤原行成(ふじわらのこうぜい/ゆきなり)。

『源氏物語』の登場人物たちは、「つくりもの」の人物ですから、その贈り物上手ぶりも(末摘花のような贈り物下手も)、当然のことながら、誇張して描かれたところが多少なりともあります。特に光源氏は、理想化された主人公です。だから、平安貴族一般を語ろうとする際に、彼らを例とするのでは、平安貴族たちの実情を必ずしも反映していないのではないか、というおそれがあるのです(とは言っても、源氏作者の贈り物に対する優れた美意識には、この時代に実在した平安貴族たちの「贈り物文化」の成熟を感じないわけにはいかないのですが)。

藤原行成(972~1027)は、紫式部と同時代の男性貴族で、実務的な能力に長けた人だったと言われています。

あの藤原道長と、時の天皇一条帝に信頼され、天皇のいわば秘書官(蔵人頭という官職です)として活躍しました。(奇しくも、行成は道長と同年同日(万寿4年12月4日)に亡くなっています。)

書道ファンの方は、「世尊寺流」の祖として、行成をご記憶かもしれません。
行成は、当時から有名な能書家でした。
興味がある方は、こちらから、「白氏詩巻」を是非検索してみてください。平安の美の極致と言うべき、流麗さと端正さと力強さが同居したような(!?)、行成の見事な書を見ることが出来ます。

□幼帝に贈られた独楽

さて、その行成。

平安後期に成立した歴史物語、『大鏡』によれば、かなりの贈り物上手です。

後一条天皇(一条天皇と道長の娘彰子の間に生まれた皇子、数え9歳で即位した)が、まだ幼かった頃、「遊び物どもまゐらせよ」(おもちゃを持って参れ!)との仰せが、ありました。

周囲の者たちは、天皇のお気に召すようにと、必死になって金銀で飾り立てた、趣向を凝らしたおもちゃを用意しました。

しかし、行成は一人だけ、「こまつぶり」(独楽のこと)に「むらごの緒」(斑濃、濃淡にむらがあるように染めたひも)をつけて、差し上げました。

「あやしの物のさまや。こはなにぞ」(変なかっこうのものだね。これはなんだ?)
と、天皇が尋ねたので、行成はこまについて説明をし、
「まはして御覧じおはしませ。興ある物になむ」(回してご覧なさいませ。おもしろいものでございますよ)と答えます。

・・・南殿に出でさせおはしまして、まはせたまふに、いと広き殿のうちに、のこらずくるべき歩けば、いみじう興ぜさせたまひて、これをのみ、つねに御覧じあそばせたまへば、こと物どもは籠められにけり。
(南殿(紫宸殿に同じ。厳かな儀式が執り行われる場所)にお出ましになって、(独楽を)おまわしになると、とても広い御殿の中を、余すところなくくるくると回っていきますので、すっかりおもしろがられ、この独楽をのみ、常に御覧になっているので、他の玩具はしまい込まれてしまったことでした。)

行成は、風流人というよりは真面目な人だったようです。
(和歌が得意ではなかった、という話も伝えられています。『枕草子』・『大鏡』)

でも、少年天皇が一番喜ぶおもちゃはなにか、一番的確なものを選ぶ能力があったのでしょう。(彼の、実務能力の高さは、このエピソードからも伺えますね)

広い広い紫宸殿で、独楽を夢中で回す幼帝と、見守る賢臣。
ほのぼのとさせられる、やさしい逸話だな、と思います。

□ 一条帝に贈られた扇
『大鏡』は、独楽のエピソードに続いて、もう一つ行成の「贈り物上手」なエピソードを伝えています。
贈られる相手は、独楽の天皇・後一条帝の父帝、一条天皇。
殿上人(天皇の側近として、近侍する人々)たちが、一条帝に扇を差し上げようという話になりました。

殿上人たちは、贅をこらした扇をこしらえようと奮闘しました。
扇の骨に蒔絵模様を入れたり、金・銀・沈・紫檀など高価な素材で作られた扇の骨に、彫刻を入れたり、ものすごく立派で高価な紙に、人に普通には知られていない珍しい漢詩や和歌を書いたり、日本全国の歌枕(歌に詠まれる名所として名高い場所)の絵と、歌枕を詠み込んだ和歌を書いたり・・・

人とは違う珍しい物、贅沢な物を、差し上げようとしたわけです。
(もちろん、最高の腕をもった職人に命じて、あれこれやらせるわけです。絵心があったり、書の上手い人は、扇面を制作します)
 
一方の行成は、扇の骨だけ見事に漆で塗らせて、黄色の唐紙(絵や模様が摺り出されている紙)に、表には楽府をうつくしく楷書で書き、裏には筆に精魂を込めて、草仮名ですばらしく書いて献上しました。

「楽府」というのは、中国唐代白居易の詩集『白氏文集』(「はくしもんじゅう」、最近では「はくしぶんしゅう」と読むのが正しいと言われるようになりました。)の中の、楽府形式で詠まれた50首の詩を指します。
『白氏文集』は、平安貴族たちにとても愛された詩集です。『源氏物語』にも、白居易の詩度々引用されています。(紫式部は、白居易の詩に対する深い理解があったと言われています)

ですから、珍しい詩や和歌を扇に書いた他の人と異なって、行成は「王道」をいった、と言えます。自分の書に絶大な自信があったからこそ、なのでしょう。
行成の書は、当時から観賞用として、珍重されていました。

一条天皇が喜んだ扇が誰のものだったか、言うまでもありませんよね。

・・・うち返しうち返し御覧じて、御手箱に入れさせたまうて、いみじき御宝と思し召したりければ、こと扇どもは、ただ御覧じ興ずるばかりにてやみにけり。
((行成の扇を)繰り返し繰り返し御覧になり、手箱にお入れになって、大事なお宝とお思いになっていらっしゃったので、他の数々の扇は、ただおもしろく御覧になって、それきりになってしまいました)

行成の見事な書で、それも楷書と草書両方で、新楽府の詩句が書かれているなんて、本当に見応えがあったことでしょう。(先に挙げた東博のリンクから、見られる「白氏詩巻」も、『白氏文集』に収められている詩から、8篇を書写したものです。こちらは、扇ではなく巻物ですが)

後一条帝に贈られた独楽といい、一条帝に贈られた扇といい、贅沢なもの・珍しいものよりも、相手に合わせたもの、相手一番喜ぶであろうもの、を贈ることが、「贈り物上手」になる秘訣であることを教えてくれるエピソードであるように思います。

「真心を贈る」なんて、陳腐なお中元やお歳暮のキャッチコピーみたいですが、相手の欲しいものをつくづくと考えて贈ることが「真心」なのだとしたら、行成はまさしく「真心を贈る」名人だった、ということでしょう。

□ 最後にもう一人だけ
「相手の欲しいものを贈る」ということから、連想される「贈り物上手」な平安貴族をもう一人だけ、紹介させてください。

『更級日記』は、紫式部のもう一世代後の時代の作者、菅原孝標女(すがわらのたかすえのむすめ)によって書かれた日記です。

この作者は、地方官の父親に連れられて、東国で育ちましたが、都で評判の『源氏物語』を是非読んでみたい、といつも念じていました。紙が貴重で、印刷の技術もまだほとんど無かった当時、54帖もある長編物語である『源氏物語』を手に入れるのは、大変なことだったのです。

『源氏物語』の一部は手に入るのですが、全巻揃って手に入れるのは、とても難しい。でも、一部だけ読んでしまったら、ますます続きが気になってしょうがなくなる。

孝標女が、「この源氏の物語、一の巻よりみな見せたまへ」と、神仏に祈っていたところ、ついに作者のおばにあたる人が、

「何をか奉らむ。まめまめしき物は、まさかりなむ。ゆかしくしたまふなる物を奉らむ」
(何を差し上げましょうか。実用的なものでは、つまらないわね。欲しいとおもっていらっしゃるという物を差し上げましょう)

といって、『源氏物語』五十余巻、櫃に入れて、『伊勢物語』など他の物語も加えて、孝標女にくれたのです。(高校の授業で読んだ方も多い場面かもしれませんね)

孝標女は、一人部屋に籠もり、昼夜を問わず夢中になって物語を読みました。

「后の位も何にかはせむ」、当時、女性にとって最高の名誉である皇后の位を得ることだって、『源氏物語』を読む感動、興奮には代え難いと孝標女は記しています。

私は、はじめて読んだとき以来、この孝標女のおばさんの言葉「実用的なものはつまらないわね」がとても印象的で、人に贈り物をする時、この場面を思い出すことがあります。

その人が普段買うものとは、ちょっと違うもの、でも喜ばれるものは、「上手な贈り物」と言えるのではないでしょうか。

(もっとも、孝標女のおばさんほど喜ばれるものを贈れる機会は、(多分私だけでなく誰でも)なかなかなさそうですね。実用的なものの方が喜ばれることもままあって、やっぱり贈り物は難しい!!)

最後になりますが、地震で被災された皆さまに、心よりお見舞い申し上げます。
被災されていない方々も、連日伝えられる悲しく辛い現状に、とても心を痛めておられることと思います。
ドナルド・キーン氏というアメリカ人の日本文学研究者が、英訳『源氏物語』が第二次大戦中に、辛い現実から自分を守ってくれる「避難所」であった、という趣旨の発言を度々しておられます。
それどころではない方も大勢いらっしゃることは承知しておりますが、少し余裕のある方が、ひととき日本の古典に思いを馳せて、一瞬なりとも辛い現実から逃避できれば、と念じております。
「らっこの会」では、精一杯、通常通りの更新を続けて参ります。

次回は、タモンが登場です!!

*『大鏡』は、橘健二・加藤静子校注『新編日本古典文学全集』本(小学館、1996)から、『更級日記』は、秋山虔校注『新潮日本古典集成』本(新潮社、1980)から、それぞれ引用しました。

11:54 | rakko | 贈り物上手な平安貴族たち④ はコメントを受け付けていません
2011/03/25

 

諒です。今回もわっかり難い話になっていますがよろしくおねがいします。

萬葉集の巻十二にこんな歌があります。

真十鏡(まそかがみ)見ませ我が背子(せこ)吾が形見持てらむ辰(とき)に相はざらめやも(2976)

この歌は萬葉集の「寄物陳思」(物に寄せて思ひを陳ぶる)、つまり物を媒介として自らの恋心を詠んだ歌、という項目に分類されています。どの「物」に寄せているかは、歌を見ればわかる。ここでは、「真十鏡」です。内容は、離れてある「背子」(夫)に対して、「形見」の「鏡」を持っているのだから会えないということがあるでしょうか、と励ます歌です。

今回・次回は古代の「鏡」に注目したいと思います。古代の「鏡」ってどんなふうに扱われていたの?というのを文学の側から見てみたいと思います。古代の「鏡」とひとくちに言っても、「鏡」そのものを核として想像をよび、文学のうえで表されるにもひととおりではないと、自分が感じていることを書くつもりです。

ところで先日、万城目学の『鹿男あをによし』を読みました。ドラマは観ていたのですが、原作はまだ手にとっていなかったのです。(読了の一週間後くらいに今回の震災が起こったのには大変驚きました。)「奈良」で「平城京」で・・・と来ると時代的には飛鳥~奈良あたりを想像するのですが、実際は卑弥呼を祖としているのでそれよりも500年ほど古い3世紀頃に軸を据えた話だったですね。「人の信仰や想像には意味があるヨ」と鹿が言っているような、(分類はファンタジー?)こうした話は好きです。ちなみに、始め、主人公が大学の研究室で上手くいかなくて奈良へ・・・というところには、ちょっと うっ(色んな意味で)となりました。

さて、「なまず」を鎮めるための「鍵」となるのが「サンカク」―つまり「三角縁神獣鏡」だったことから今回の「鏡」の話を思いついたわけですが。

卑弥呼というと、子供のころに図書館で借りて読んだ、歴史上の人物を漫画にしたシリーズ(ネットで検索してみましたが、色んなシリーズがあってどれだったか判然としませんでした・・・)で、卑弥呼が鏡に光を反射させ、ペカーッ!と輝きを放つ様子に人々が魅入る場面がとても印象に残っています。

このペカーッ!に象徴されるように、「鏡」は神秘的な威力を物の内にもつ、呪具です。古代には、祭祀に用いられたり副葬品として墳墓に納められたりしました。その力をもって現代まで受け継がれるもっとも代表的な「鏡」は、所謂三種の神器の一つとして名高い「八咫鏡」でありましょう。卑弥呼がペカーッ!とする場面が現代において発想される背景には、有名な『魏志』倭人伝の景初二年十二月の詔書に、様々な物とともに「銅鏡百枚」を賜う、とあることや、そうした記事に基づいた考古学の成果から湧き上がるロマンがあると思われますが、加えて、記紀に描かれた神話の世界からの想像があると考えられます。それが「八咫鏡」の話です。この「鏡」は、記紀によると天照大神の「天の石屋戸」の話に由来します。

卑弥呼と天照大神は、同一人(?)物説など、その関係を語る論が多くありますが、白状するとそういった古代史の論争にはあまり詳しくないので避けさせて下さい。ただ、現代の卑弥呼像の根元に、文学として表された神話からのイメージの連鎖と広がりを認めてよいのでは?、ということです。

ここでは特に古事記を取り上げます。

大変有名な神話なので、今さら詳述することはしませんが、石屋に籠った天照大神が、神々の賑やかな様子を不思議と思って顔をだした時に差し出されたのが「鏡」でした。古事記には、「アメノコヤネノミコト(天児屋命)・フトダマノミコト(布刀玉命)、其の鏡を指し出で、天照大御神に示し奉る」とあり、その時に「鏡」に天照の姿を映したものと読むことが可能です。その「鏡」は後の天孫降臨の時に地上に降されます。古事記はそれを以下のように伝えます。

是に、(天照大神はニニギノミコトに対して)其の招きし八尺勾玉・鏡と草那藝剣、またトコヨノオモヒカネノカミ(常世思金神)・タヂカラヲノカミ(手力男神)を副へて詔らししく、「此の鏡は、もはら我が御魂として、吾が前を拝(い)はふが如く、斎き奉れ」(神代記)

 高天原を司る太陽神である天照大神は古来、「鏡」に象徴される神です。それは、「鏡」に姿を映したことで「御魂」を宿したためと古事記は言います。「鏡」の本来の役割は、表面に物を映し出すことにあって、そこに人々は神秘を想像します。それが日の光の印象と重なることから、天照大神のご神体として祀るようになったと推測されますが、信仰には由来、つまり神話が必要である。古事記は、それを「天の石屋戸」と積極的に結び付けて、「鏡」が天照の「魂」を映しとったものであると説明しているのです。

 ここに神話の自由な想像力と、記すことの決して自由とは言い切れない、緻密な構成力が見てとれます。古代には、「鏡」が天照の「魂」を宿すものとして想像され得た、「鏡」へのイメージがありました。では一方でそれは、人々の暮らしの中でどのように息づいているのでしょうか? ・・・次回のテーマです。始めに挙げた萬葉歌はそちらできちんと取り上げます。

 以上のような話、わかりにくいですか? わかりにくいですよね。 自分の伝え方のせいだと反省しております。精進するので見捨てないで。

それから、全然関係ないですが驚いた話をひとつ。yahooニュースで18日、こんな記事を発見。

スカイツリーの建設は14日から再開しており、18日に頂点(634m)の避雷針を取り付けた[yomiuri online]、とのこと。・・・驚きました。こんな状況の中ですごいです。作業員の方々。 普段から風でもかなり揺れると思うので、あまり大きくなければもしかしたら気にならないの?いやいや、そんなはずは・・・とか余計な事を考えてしまうのでした。コラムと全く関連性がありませんが、驚きを記憶しておきたかったので、そしてできれば誰かに共感してほしかったので書いてしまいました。

最後になりましたが、いつもお世話になっております 桃生さま、どうかご無事でお過ごしください。ブログ、がんばって更新してまいります。

12:00 | rakko | 古代の「鏡」について考える1 はコメントを受け付けていません
2011/03/11

こんにちは。中世文学担当のタモンです。

前回、「弱法師」についてお話すると言いましたが、

その前に、最近見た「サド侯爵夫人」の舞台について感想を書きたいと思います。 

なぜかというと、「サド侯爵夫人」を見たら、タモンの専攻についても考えさせられることが多くあったんですね(「弱法師」について書くのが大変だった…という話もありますが、それはおいといて)。

【あらすじ】

18世紀、ブルボン王朝末期爛熱のパリー。サド侯爵夫人・ルネ(東山紀之)は、残虐かつ淫靡な醜聞にまみれる夫を庇い、愛し続ける。“悪徳の怪物”に“貞淑の怪物”として身を捧げる彼女に対し、世間体を重んじる母・モントルイユ夫人(平幹二朗)は様々な手を尽くし別れを迫るが、夫が獄につながれてもなお彼女の決意を揺らがず、対立は続いた。やがてフランス革命が勃発。混乱の中、老境に差しかかったルネのもとに釈放されたサド侯爵が現れるのだが…。

参照:http://www.bunkamura.co.jp/cocoon/lineup/11_mishima/story.html

最初に役者のことについて、ちょこっとだけ。

圧巻はモントルイユ夫人。

本作の特徴に、洪水のような圧倒的なセリフ量がある。

セリフひとつをとってもレトリックの嵐と洪水のような長さで、観客にも集中力と忍耐が要求されてしまう、厄介な戯曲。

平幹二朗のモントルイユ夫人は、その超弩級のセリフを消化し、言葉で「表現」していたことに驚いた。間違いなく、本劇の心柱を担っていた。舌のうえで言葉を転がしているような、セリフ回しにただ酔いしれた。「世間」を代表する母親という人物が、貞淑や悪徳といった観念自体が社会通念と相対化させることによってしか存在しないことを、浮き彫りにさせていた。

また、サンフォン伯爵夫人役の木場勝巳の長広舌も見どころのひとつ。第一幕で鞭をしならせながらまくしたてる長広舌は、今まで見たサンフォン伯爵夫人役のなかで一番面白かった。

オールメールであることによって、全配役の「ありえなさ」が消え、かえって役柄が背負う理念が際立ち説得力が増す。本作のように、観念が結晶化したような役柄だと、役柄に安直な感情や表現を付け加えてしまうと、とたんに陳腐になってしまう。女性がルネを演じると、女のもつ「業」(言い換えれば、したたかさやふてぶてしさ)を排除しなければならず、リアリティを持たせるにはいささか難しい役柄であったことは間違いない。それを男がやることによって、硬質な美しさを魅せることに成功していた。演劇の世界では性を越境できるのだ。

ここからが本題。音楽と舞台美術について。

音楽には能の大鼓と笛が使われていた。

長いセリフにアクセントをつける効果をねらったのだろう。全編を通じて、役者のセリフのポイントに大鼓の音が入る。

能の囃子プラス、歌舞伎の拍子木も入る。

残念なのは、大鼓の音と拍子木の区別があまりつかなかったこと。鼓や笛の音を録音で流すと、どうしても割れた音になりがちで、本来狙っていただろう迫力や緊迫感が薄れてしまっていた。耳慣れない薄い音がどうしても快さよりも、観客に戸惑いを与えてしまっていたようにも思う。

実際、拍子木なのか大鼓なのか、わからない箇所もあった。周りの空気から感じられた困惑は、改めて、いわゆる日本の古典伝統芸能が一般の人々に浸透していないのかが実感した経験にもなった。

古典と現代の融合を狙ったというのは容易いが、その方法を達成するのはとても難しい。

開演前、舞台上には何もなく、駐車場に続く搬送扉が開放してあるだけ。開始とともに豪奢な舞台セットがセットされる。大鏡が四枚。観客席が映ることによって、観客もまた舞台を作る一員となる。

第一幕のクライマックスでは、能の謡(曲名わからず)が、クライマックスで流れる三島由紀夫の自決のテープは、背筋がゾクッとする。

最後、セットは解体され、舞台上には何も残らない。

全編、現代と過去の越境を感じさせる構成となっていた。

考えさせられたのは、知っている人間にしか、古典芸能と現代演劇の融合という理念はもう見慣れた方法だし、三島由紀夫のテープもまた有名すぎるほど有名でしかないということだ。

演劇には、舞台と観客、観客同士の一体感・臨場感を味わう楽しさもあると思う。

舞台を演じているなかから、新しさや未知の何かが再生産されることに立ち会える喜びみたいなものを感じさせてくれたなら…と、欲張りな願いを持つ。

それは、どんな古典芸能を見ていても、いつも思うことだ。

カーテンコールはヘンデルの歌劇Rinaldo 「 Lascia ch’io pianga (邦題は“私を泣かせてください”)」。個人的にとても思い入れのある曲。頭を振ったら言葉が溢れそうな感じで疲労困憊していたので、しっとりとした曲調に癒された。

11:44 | rakko | サド侯爵夫人@シアターコクーン はコメントを受け付けていません
2011/02/24

お久しぶりです。平安時代文学担当のなおです。
前回・前々回に続いて、平安貴族たちの贈り物事情について述べてみたいと思います。

□ 今回こそ本当に「贈り物上手」のお話を

前回のコラムは、末摘花の贈り物下手について、つい盛り上がってしまったために、タイトルと内容が一致しなくて、残念な結果に終わってしまいました(詳しくはこちらを御覧ください)。

もちろん、末摘花の例は、例外中の例外
みなさんが期待されるような、「はなやかでみやび」な、『源氏物語』のイメージ通りの贈り物の例が、作中にはたくさん描かれています。
□ 妻たちそれぞれに似合う装束を、妻たちの序列にも配慮しながら・・・(六条院の「衣配り」)

 まず、その代表的な例を、玉鬘十帖から見ることにしましょう。
「玉鬘十帖」は、玉鬘巻から真木柱巻までの十巻を指して一般にそう呼んでいます。太政大臣となり政治家としての位を極めた光源氏が、六条院という大邸宅に妻たちを住まわせ、趣向を凝らしに凝らしたみやびな生活を送る(優雅な行事もたくさん催されます)という、『源氏物語』中でももっともはなやかな巻々と言えるでしょう。(しばしば、「王朝絵巻」というキャッチフレーズで呼ばれる巻々でもあります)

 『源氏』の 贈り物上手を探すには、ぴったりな箇所なのです。
 

簡単に玉鬘十帖の物語も紹介しておきましょう。

玉鬘十帖は、「養女」として光源氏に引き取られた、玉鬘というヒロイン(光源氏のかつての恋人、夕顔の遺児で父はかつての頭中将)と、光源氏の間の恋を中心に物語が展開します。
男が、母とその娘両方と関係をもってしまうのは当時としても、かなりグロテスク・・・源氏が恋心を押さえて思いとどまれるのか。危ない恋の物語です。興味を持たれた方は、是非はらはらしながら読んでください。
さて、玉鬘十帖に先立つ「少女巻」で、光源氏は六条院という広大な屋敷を造営します。当時の大貴族の一般的な邸宅(それだって、ものすごく広い)の4倍の広さだといいますから、驚くべき広さです。

光源氏は、その六条院に妻たち(紫の上・花散里・明石御方)を住まわせます。玉鬘もこの六条院に引き取られます。(ちなみに、先日話題にした末摘花は、二条別院という別邸に居所を与えられています。空蝉という既に出家している源氏のかつての恋人も一緒です)。

玉鬘は、夕顔巻で母親が急死した後、現在の九州地方で育つという、数奇な生い立ちをした姫君でした。

ですから、聡明で美しいのですが、都に出てきたばかりで、ファッションは多少野暮ったいところがあったようです。

光源氏もそれを心配して、玉鬘の正月用の装束を用意しようとするのですが、なにせ天下の光源氏。職人たちが技の限りを尽くして織った織物を、こぞって持ち込むものですから、見事な装束が山のようにあります。

そこで光源氏は手元にあるものの他に、紫の上に依頼して、屋敷の御匣殿(みぐしげどの・ここでは有力貴族が自邸に設けていた、衣装を用意するための部屋)や紫の上自身が染めたもの、あちこちの工房から納入された砧で打って光沢を出した衣などを、集めさせました。

たくさんの見事な装束の中から、妻たちの正月の装束を選ぼうというのです
よく「衣配り(きぬくばり)」と呼ばれる、「玉鬘巻」巻末の有名な場面です。
妻である紫の上も同席の上で、光源氏が紫の上をはじめとする妻たちに似合う装束を見立てるのです。(妻たちの分だけでなく、娘たちや、かつての恋人たちの分も選んでますが)

紫の上というのは、なんでも飛び抜けてよく出来る、光源氏最愛の妻です。染め物もとても上手。

  かかる筋、はた、いとすぐれて、世になきいろ合ひ、にほひを染めつけたまへば、ありがたしと思ひきこえたまふ。(玉鬘巻)
 ((紫の上は)このような方面(染色)も、実に堪能で、世にも珍しい色合いやぼかしをお染め付けになるので、(光源氏は紫の上を)世にまたとない、得難い人だとお思い申し上げる)

と、光源氏も感嘆するできばえでした。

ちなみに、装束になる前の布は、用途によって織物であったり、砧で打たれたものであったり、色々であったようです。染めたり仕立てたりするのは、貴族女性が自分たちで行ったようで(もちろん、大勢の侍女たちに指図しながら、ですが)紫の上の他に、同じく光源氏の妻である、花散里も染め物上手として紹介されています(野分巻)。
 

夫が、目の前で自分と他の夫人のための服を選んでいる・・・
現代の価値観からすると、ちょっと、すごい光景ですよね。

紫の上は、性格も最高にすばらしい女性として物語に描かれているので、恨んだり怒ったりすることはありません(笑)。

紫:「いづれも、劣りまさるけぢめも見えぬ物どもなめるを、着たまはん人の御容貌に思ひよそへつつ奉れたまへかし。着たる物のさまに似ぬは、ひがひがしくもありかし」

 (どの装束も、劣り優りの差をつけられないもののようでございますから、お召しになる人のご器量に似合うように見立てて、差し上げてください。着ている物が人柄に合わないのは、みっともないことでございます。)

と、装束の価値はどれも同じなので、純粋に似合うか似合わないかで決めるように、光源氏に進言します。

  すると、光源氏は
       

光:「つれなくて、人の御容貌推しはからむの御心なめりな。さて、いづれをとか思す。」
 
(さりげなくしながら、他の女性たちの御器量を推し量ろうというおつもりのようですね。さて、ご自身はどれを、とお思いになりますか。)

 と紫の上が他の女性の容貌や雰囲気、人柄などを装束から推量しようとしているのではないか、と指摘します。(同じ六条院に同居しているとはいえ、広い邸内の奥深くに住んでいて物語のこの時点では、紫の上と他の女性たちはまだ対面を果たしていないのです。)

光源氏の指摘は、多分図星だったのでしょう。紫の上は、
       

 紫:「それも鏡にてはいかでか」
        (鏡でみただけで、(自分で)どうして決められるでしょう)

 と言って、「さすがに恥ぢらひておはす」(そうはいっても、やはり決まり悪い様子でいらっしゃる)。

紫の上は、あくまで可愛いのです!絶対に逆ギレしたりすることはありません。
 さて、光源氏が選んだ装束は以下の通りでした。

紫の上:「紅梅のいと紋浮きたる葡萄染めの御小袿、今様色のいとすぐれたる」
(紅梅のくっきりと模様が浮き出た薄紫色の小袿、濃い紅のとてもすばらしい(袿?))

明石の姫君(源氏の娘。紫の上養女、明石御方の実子):
「桜の細長に、艶やかなる掻練」
(桜襲(表、白/裏、紫か蘇芳)の細長。やわらかく練った絹(袿?))

花散里:「浅縹の海賦の織物、織りざまなまめきたれどにほひやかならぬに、いと濃き掻練」
(薄い縹色(藍色)の海賦(波・貝など海辺の風物を様式的な模様にしたもの)、織りが優美だけれども、派手ではないもの(小袿?)に、とても濃い色のやわらかく練った絹(袿?))

玉鬘:「曇りなく赤きに、山吹の花の細長」
(曇りなく赤い(袿?)に、山吹(表、朽葉/裏、紅梅か黄色)の細長)

末摘花:「柳の織物の、よしある唐草を乱れ織れる」
(柳織り(横糸白/縦糸萌黄)の、唐草模様を散らして織りだしてある袿)

明石の御方(源氏の妻、紫の上・花散里に比べて出自が劣る):
「梅の折枝、蝶、鳥飛びちがひ、唐めいたる白き小袿に濃きが艶やかなる重ねて」
(梅の折枝に、蝶や鳥が飛び交って、舶来風の白い小袿に、濃紫の艶のあるの(袿?)を重ねて)

空蝉(源氏のかつての恋人、出家している):
「青鈍の織物、いと心ばせあるを見つけたまひて、御料にある梔子の御衣、聴色なる添へたまひて」
 (青鈍(青みがかった縹色)の織物、とても趣味のよいものを見つけなさって、光源氏自身のお召料にあった梔子色(黄色)の(袿?)と、聴色(濃い紅)のものも添えなさって)

女性の装束について、立ち入ると大変なことになってしまうので、はいわゆる「十二単」の重ねの中側に何枚か重ねて着るもの小袿や細長はその上に着る上着で、貴人がちょっと改まった時に着るもの、ぐらいに理解していただければと思います。(普段着の時は、小袿や細長は着ず、袿が一番上になります。)

明石の姫君はまだ少女なので、子供が着るにふさわしいものを、空蝉は出家しているので尼衣として着られる青鈍・梔子の装束をそれぞれ贈られています。
また、花散里は、浅縹という地味な色の、「上品だけれどもはなやかでないもの」を、玉鬘には、若々しい黄色系のコーディネイトを選んでいます。

この玉鬘の装束を横目で見た紫の上は、

「内大臣のはなやかにあなきよげとは見えながら、なまめかしう見えたる方のまじらぬに似たるなめり・・・」
(実のお父さま内大臣の、はなやかで、なんとおきれいな方だと思われるものの、優美な感じがないのに似ているのだろう)

と、玉鬘の容貌を内心で推し量っています。なかなか手厳しいですね。

紫の上のその様子に気付いた源氏は、

「いで、この容貌のよそへは、人腹立ちぬべきことなり。よきとても物の色は限りあり、人の容貌は、後れたるも、また、なほ底ひあるものを」
(いや、人の器量を装束でなぞらえるのは、人の機嫌を損ねかねないことでしょう。よいといっても衣装の色はただそれだけのことなのだし、一方、人の容貌は劣っているといってもまた、深みがあるものなのだから

と、なかなか含蓄のあることを言います。

でも、彼だって本当は、やっぱり衣装は容貌に見合ったものを、と考えているのです。
光源氏がこんなことを言ったのは、末摘花用の衣装を選ばなくてはならないからです。
 
唯一綺麗だった髪はいまや、白髪になって、それを取り繕うこともしない、末摘花。
でも、だからといってそれに見合うみっともない衣装を贈るわけにはいきません。

源氏が選んだのは「いとなまめきた」る(とても上品な)織物の袿
思わず、苦笑せずにはいられない源氏。まあ、源氏じゃなくても、似合わないだろうな・・・と思わずにはいられないですよね。

さて、「衣配り」で最も注目されるのは紫の上と明石の御方に割り当てられた装束です
紫の上用のコーディネートは、あまり強い主張のない、大和風の上品なものといえそうです。
対して、明石の御方用に選んだものの中には、唐風の白い小袿があります。
最近の研究では、いわゆる「遣唐使廃止」以後でも、大陸や半島との交易は結構盛んに行われていたことが分かってきました。
『源氏物語』にも唐物(舶来品)は登場していること、明石の御方は唐風のイメージを与えられた女性の一人であること、が指摘されています。河添房江さんという研究者が、『光源氏が愛した王朝ブランド品』(角川選書、2008年)・『源氏物語と東アジア世界』(NHKブックス)という本の中で論じていらっしゃいますので、興味を持たれた方はそちらをご覧ください。専門的な新しい発見がたくさん書かれているのに、専門外の方にも読みやすい、という大変お得な2冊で、おすすめです。

さて、明石の御方の装束に戻りますと、「唐風」なのであって、本当に「唐」で作られたものではないところが、肝要だったのではないか、と河添さんが指摘しておられます(『光源氏が愛した王朝ブランド品』181p)。

というのも、(これも河添書の受け売りですが)外国製品は、国内製のものより格上だからです。
明石の御方は、紫の上よりも格下の妻(注*)なので、国産の衣装(最上級品ですが)をあてがわれた紫の上は、面白くない。実際、明石の御方へ贈られる装束を見て、紫の上は「めざまし」(無礼な)と思っています。(「めざまし」は目下のものに対する不快感を表す語です。)この時代の身分意識からすれば、当然の感情だとおもわれます。序列に見合った待遇を受けているかということは、この時代の妻たちにとって切実な問題だったのです。

明石の御方に実際に贈られた装束は、あくまで「唐風」であって、おそらく国内で唐綾を意識して作られた可能性が高いのだろうと、河添さんは説明してらっしゃいます。

紫の上には和風の装束が似合う。明石の御方には唐物の装束が似合う。物語は、そのようにキャラクターを作っています。二人ともはなやかな美女であることは変わりないのですが、誤解を恐れずに、おおざっぱに言ってしまえば、紫の上の方が親しみやすい「かわいい系」、明石の御方の方は高級感あふれるスタイリッシュなイメージ、といったところでしょうか。

確かに、紫の上が言うように、そして光源氏が内心賛同しているとおり、人は似合う物を着た方がいいし、光源氏が選んだそれぞれの衣装は、贈られる人の雰囲気を何らかの形で、反映していたのでしょう。

でも、ただ似合えばいい、というものではないのですね
似合うから、といって明石の御方に本物の唐綾の装束を贈ってしまったら、妻たちの秩序関係を混乱させ、紫の上のプライドや名誉を取り返しのつかないほど傷つけてしまうことを光源氏はちゃんと承知しているわけです。

実は、私は今までこの場面たいして考えず読み流していたので、河添説に出会って、目を見開かれる思いでした。
光源氏、すっごく考えて贈り物を選んでいるんじゃない!!
自分の選んだ装束が、妻たちに似合うことと、妻たちの序列に相応していること
、の両方を両立させているのですね。(それでも紫の上は、光源氏が明石の御方を「唐風が似合う雰囲気である」と判断したことにプライドを傷つけられた思いでいますが、さほど深刻ではないでしょう)

以前、ある会社の偉い方が、部下の女性たちにお土産を買う際に、例えば化粧ポーチなら化粧ポーチで、それぞれのイメージに合う柄を、女性の側の上下関係(役職とか勤務年数とか)に応じて少しずつ値段を変えながら選ぶ、と聞いたことがあります。

さすが千年前も今も、人の上に立つ人は、贈り物上手なのだな、と感嘆しました。

男性(特に偉い男性)が選ぶ贈り物が、女の側の秩序を乱すと、女性たちは本当に困るのです

□贈り物上手は贈りっぱなしではなくて・・・

さて、自分が選ぶ装束から女君たちの器量を想像しようとする紫の上を牽制しておきながら、実は内心女君たちにふさわしい装束を選んだと自負している光源氏は、「げに似ついたる見むの御心」(器量にふさわしい女性たちの晴れ姿を見ようという思惑)で、正月には贈った装束をお召しになるように、と女性たちに連絡をしていました。

元旦の日、光源氏は紫の上と一緒のいつもの居所を出発し、女君たちに会うべく六条院を巡回します。(初音巻冒頭)

まず、明石の姫君のもとに。
ここでは、幼い姫君よりも実母明石の御方からの和歌がクローズアップされています。
姫君は、将来のため実母と別れて紫の上に養われているのですが、娘に会えない明石の御方の嘆きに焦点があてられるのは、この後の場面のための伏線でしょう。

次に花散里のもとへ。
もう実質的な夫婦関係のない光源氏と花散里ですが(・・・って、物語にはそんなことまでちゃんと書かれているんです・汗)、二人の間を遮る几帳をちょっと押しのけて光源氏が見ると、想像したとおり、縹を地味に着た花散里がいました。
花散里は、年をとって髪も薄くなっているのに、それを鬘でひきつくろうこともしない様子です。
それでも源氏は、盛りを過ぎた女性を世話している自分の心長さと、光源氏をすっかり頼りにして従順な花散里に、それなりに嬉しく満足しているのでした。

その次には、花散里のもとに引き取られている玉鬘の居所へ。
こちらは、光源氏の期待以上に美しく部屋を整えて暮らしていました。
玉鬘本人も、
       

 あなをかしげとふと見えて、山吹にもてはやしたまへる御容貌など、いとはなやかに、ここぞ曇れると見ゆるところなく、隈なくにほひきらきらしく、見まほしきさまぞしたまへる。
 (まあ、なんて素敵なのだろうと、目を見張る美しさで、山吹襲の装束で、いっそうひきたつご容貌は、実にはなやかで、ここが瑕と思われるところは全くなく、隅々まで輝くような美しさで、いつまでも見ていたいご様子でいらっしゃる)

玉鬘は、義父源氏から言い寄られていることを、結構深刻に悩んではいるのですが、生来の明るさとはなかやかさの持ち主で、源氏が選んだ山吹襲の若々しく派手やかな装束は、彼女の美しさを実に良く引き立てました
「衣配り」の成功例ですね。

最後に明石の御方のもとへ。
夕方になって、源氏が最後に明石の御方のもとへ渡ると、室内からは上品なにおいが漂ってきます。
明石の御方自身の姿は見えず、「どこにいるのだろう」と見渡すと、草紙や琴が無造作に置かれているのが、また実に趣味がよく、さっきまで書いていたと思われる手習いの反故も無造作に置かれています。
光源氏がそれを手に取ってみると、見事な筆蹟で、彼女の歌や古歌が優美に書き散らされています。
   

 めづらしや花のねぐらに木つたひて谷の古巣をとへる鶯
    (珍しくうれしいことです、花の咲くすばらしいねぐらに住んでいながら、谷の古巣を訪れてくれた鶯よ)

光源氏は、最初に明石の姫君のもとに行った際、明石の御方からの文に返事を書かせていたのでした。娘からの返事が合った感激を、明石の御方和歌に詠んでいたのです。

それらの和歌が書かれた紙に、光源氏も歌を添えようとしていると、明石の御方本人が、いざりながら登場しました。
もちろん、源氏が贈った白い唐風の小袿は、明石の御方の気高い雰囲気をいやましにまして、見事な調和を見せていました。光源氏の思惑は、完璧な形で達成されたと言ってよいでしょう。光源氏は、この晩、新年早々明石の御方のもとに泊まってしまいます。

ここで一つ疑問
光源氏が入ってきたとき、明石の御方は何か用事でもあって席を外していたのでしょうか?

答えは、想像するしかありませんが、多分NOです。
光源氏が入ってきた時の、部屋の中に置かれた物の無造作さも、計算された無造作さ、演出された無造作さに思えてなりません。

洗練を極めた趣味の良い部屋だけれども、少しだけ生活感を出すことによって、わざとらしくなったり、居心地が悪くなったりするのを避けようとしたのではないかと思います。

そして、その部屋の趣味の良さを、光源氏が堪能するための、間をおいてから部屋の主が登場する・・・

この不完全な部分までを含めて計算され尽くした、完璧な演出、ちょっと怖いですよね

でも、明石の御方の側にも言い分はあるのです。

実の娘と引き離され、今で言うところの養育権や教育権も、完全に取りあげられた明石の御方は、珍しく貰えた娘からの返事が本当に嬉しかったのです。
そして、その返事が光源氏の指導によって、書かれたことももちろん承知していました。

だから、光源氏にその喜びを伝えてお礼を言いたい、でも直接伝えて物欲しげになったり、恨みがましくなったりすることは許されない。

だから、光源氏に直接お礼を言うのではなく、明石の御方自身の気持ちを書き留めた手習いを、(自分が不在の間に)光源氏に勝手に見てもらう、そうすれば失礼にならずに、自分の気持ちを伝えられると考えたのだと思われます。

明石の御方にとって、本当に嬉しかった贈り物は、唐風の小袿ではなくて、娘からの手紙だったのだろうと思います。
そして、この誇り高くて風流な女性は、“贈られる”のもとても上手だったのでした。

さて贈られる側の振る舞い、といえば、例の贈り下手のあの方は、贈られるのももちろん下手でした・・・
源氏は、正月行事が落ち着いたころに、二条東院(末摘花と空蝉の住む別邸)も訪問しています。皆さんの期待通り、すさまじい格好で光源氏を迎えた末摘花について、知りたいかたは是非「初音巻」をお読みください。ここで、紹介するとまた大変な蟻地獄に嵌ってしまうので・・・

以上が、贈り物上手の光源氏が、六条院や二条東院の女性たちに装束を贈った「衣配り」の概要です。

少し昔までは、光源氏のように出世をして大金持ちになって、複数の美しい女性たちを自邸に住ませ養うのは、世の男性の見果てぬロマンだったようです。
(あっ、でもこちらには、実現してしまっている方がいましたね!!
こちらのコラムを拝見するたびに「現在の六条院」!と思います。もちろん情況も条件も様々に異なって、簡単に重ね合わせることはできないのですが、でも「衣配り」的なことも行われているようですし)

でも、世の「草食男子」くんたちは、「六条院の衣配り」をどのように読むのでしょうか。

「一人でもめんどくさいのに・・・・・・」

という声が聞こえて来そうですね。

そうなのです!
複数の妻を持つのも、彼女たちに上手に贈り物をするのも、大変な費用と労力がかかることなのです。
でも、それをさらりと楽しんでやってしまうのが、光源氏なのです!!

だんだんと、光源氏の魅力が理解され難い世の中になっていって(それは、女性が自立できるようになった、ということで喜ばしいことでもあるのですが)、私たちはますます当時の感覚に立ち返って物語を読まないと、理解が及ばないようになってしまっているのだな、と実感します。

最後に、一つだけ強調しておきたいのは、複数の妻を持つことが認められていた当時においても、光源氏のように妻たち全員を、それぞれの分に応じて大切にし、かつての恋人の面倒まで見ることが出来る財力と才覚を持った男性なんて、実際にはほとんどいなかっただろう、ということです。

そのような時代背景の中で、複数の夫人をもつ夫として、面倒見良く、女性たちへの細やかな配慮を忘れない光源氏の様は、当時の女性が願う、男性のあるべき理想を具現化したものとして描かれているのだと思います。

にもかかわらず、光源氏の妻として生きた紫の上や明石の御方、花散里たちが、そんなに幸せそうではない・・・という皮肉を、物語は描いていく訳ですが・・・まあ、この話はいずれ。

長々と続けてきたこの「贈り物シリーズ」、最後にもう一回だけ書こうと思っています。

それでは、今週はここら辺で。
________________________________________
『源氏物語』本文の引用は、阿部秋生ほか『新編日本古典文学全集』本(全6冊)によっています。
 
注:この時代の、結婚をいわゆる「一夫多妻制」と呼べるのかどうか、議論が分かれるところです。立場によっては、花散里や明石御方を「妻」と呼ぶべきでない、とする研究者もいますが、私は「妻」の語をそんなに厳密に用いなくてもいいのではないかな、と思っています。ただし、妻たちが皆同等に扱われたのではなく、身分等によってある程度の序列があったことは重要なポイントだと思います。

11:21 | rakko | 贈り物上手な平安貴族たち③ はコメントを受け付けていません
2011/02/10

〔春か…〕

こんにちは。諒です。相変わらず寒い日が続いています。冬は半冬眠(?)するほど寒いのが苦手な私は、つい家に籠りがちになります。でも、澄み渡る青空の下で咲く梅には、寒さに打ち震えながらも春を感じさせられます。こんな季節なので、今回は、上代文学と梅について、少しばかり書きたいと思います。まだ雪の残るうちから他の木々に先駆けて咲く梅は、春の到来を告げる風物として、文人に愛されてきました。現代では季節になると各地で「梅まつり」が開催されますが、これが現代の楽しみ方で、そこにはある文化(例えば屋台が出たりお茶会を開いたり)が生じるように、観賞方法(場や感覚)は時代によって変遷するものです。上代にも、上代の梅があったはず!、ということで、奈良時代の、ある一場面からそれを探ってみたいと思います。 

天平二年〔720〕の春正月十三日〔グレゴリオ暦の28日〕、大宰帥(そち)大伴旅人(たびと)の役邸に人々が集まり、歌を披講する宴が催されました。これが、『萬葉集』巻五(815846)に見える、「梅花の歌三十二首」です。主人 旅人の「我が園に梅の花散るひさかたの天より雪の流れ来るかも(わが園に梅の花が散っている。〈ひさかたの〉天から雪が流れ来るのだろうか)」(822 ←歌番号です。以下同じ)をはじめとして、山上憶良の歌(818なども見え、いわゆる「筑紫歌壇」の盛んな様子を伝える歌群でもあります。旅人が「我が園」の梅と歌っていることからも、集まった人々は旅人邸の梅を取り上げて歌を詠んだと考えられます。

この宴席、上代の文化的な背景を見ると、ただ庭園の梅を観に集まったと理解されるばかりではなく、とても興味深い雰囲気を持っていたことがわかります。一言であらわすと、実に「大陸的」であった、ということです。…どのあたりが、でしょうか。

〔梅ね…〕

梅が日本古来のものではない、と私が知った時、「あ、そうなんだ。妙に納得」という気分と「ほんとかよー(間違えた。「ほんとうですか?」)。どこにでもあるのに!」という違和感が混在した感想をもったかと想像します(記憶は有りません)。だって、あまりに日本の風土に馴染み過ぎているのですもの。和歌に牡丹や獅子(!?)が出てくるとむずむずしますが、梅が出てきても変な感じはしません。「伝統的」とすら思います(主観です)。でも、梅は渡来植物です。

弥生時代の遺跡(山口県熊毛町の岡山遺跡など)から梅の実核が出土しており、その頃までに梅が大陸からもたらされたことが明らかです。この時期は漢や朝鮮半島との交流によって穀類、果樹が導入された第一期にあたります。さらに下って飛鳥、奈良時代、隋や唐との交流へと展開します。国立歴史民俗博物館編『海をわたった華花』(東京印書館、2004)にこの辺りのことがわかりやすく解説されていますが、その中で、「中国の政治や生活文化といっしょになって導入されたものが圧倒的に多」く、梅も第一期導入のものと「決して同じ系統ではなかった」とあるように、「梅花の歌」の背景には大陸文化の導入を抜きに考えられません。

〔詩から歌へ〕

『萬葉集』も旅人や憶良の時代(第三期…平城遷都〔710〕~天平五年〔733〕頃) になると、歌に漢詩の影響が色濃く見られるようになります。もとより、当時の官僚の素養として漢籍の知識は必須以上に必須(?)で、文芸においても漢詩・歌のどちらも嗜むという文人貴族がいて(旅人もその一人)、そのような人々にとって、漢詩漢文の表現を歌の表現に応用する試みは意識的であったにせよ、大陸風の文化の波が押し寄せる中で、極めて自然な発想であったと想像されます。

梅は古代日本にあって代表的な渡来植物のひとつですが、その梅を宅の庭園に植えて、さらに観賞し、歌を詠むに至るまでにはいくつかの段階があります。

〈中国で〉 六朝(呉・東晋・宋・斉・梁・陳/〔222589年〕)時代、山水の風景を人工的に摸造した庭園を鑑賞するという趣向が流行します。こうした庭園造りは、おりしも詩や画といった文芸の世界での、山水から個々の景物(月、雪、植物、鳥獣など)へと鑑賞の対象が細分化されて行った傾向と連動するようです。「山水詩」は「詠物詩(文会の場において、あらかじめ設定された題に従って詩を作る)」へ、「山水画」は「花鳥画」へという展開を見せるのです。そうした中で邸宅や庭園での詩宴が盛んに行われるようになり、苑内におかれた「物」は嘱目の対象として定着していきます。言うまでもなく梅も含まれるのです。このような六朝~初唐にかけての趣向は、日本に伝えられ、好まれました。

〈日本で〉 さて、日本で庭園が本格的に造られるようになったのは、平城京遷都以後と見られます。例えば、平城宮内には現在苑池が復元されていますし、また、かの長屋王の邸宅跡からはウメ、アンズ、モモ、メロン(!)、ナツメ、トウガンなど大変様々な花果の遺物が発見されているそうで、風流な王家や上流貴族の宅にはこぞって大陸の趣向が導入されました。『続日本紀』神亀三年〔726九月十五日に発された内裏の玉棗(ナツメ)の詩賦を作るように、という聖武天皇の勅命に応じて、二十七日、「文人一百十二人(!)」が詩賦を奉ります。『新日本古典文学大系 続日本紀』(岩波書店)は、この記事について「長屋王の詩壇の隆盛を示す」かと推測しています。その長屋王の詩も載録されている、日本で編纂された現存最古の漢詩文集『懐風藻』には葛野王(かどののおおきみ)天智八〔669頃~慶雲二〔706〕)の「春日鶯梅を翫ぶ」(10などの詠物詩が見えています。 

このように詩文においてまず導入された「詠物」の影響は、歌にも現れてきます。『萬葉集』巻三の第三期歌人たちの歌の間に並ぶ間人大浦(はしひとのおおうら)(伝未詳)の歌(289290には「初月歌」という題が附されていますが、この「初月」は中国の詠物詩の代表的な題のひとつであります。旅人や憶良が活躍した『萬葉集』第三期には六朝・初唐時代の漢詩漢文に学び、詩と歌の両方で表現を模索する試みが精力的になされているのです。ちなみに、この第三期のはじめ頃には712年『古事記』撰進、713年『風土記』撰進の詔、720年『日本書紀』成立、と上代文学の代表的な書物が編まれていて、漢籍的な素養を基礎としつつ、日本の文化をより高めていくという機運が文芸においてもいよいよ高まりを見せたであろうことを考えさせます。

〔やっと…〕

そして、「梅花の歌」。邸内の苑池に嘱目を求める詠物詩の日本における定着を経て、詠物の歌へと展開して行き、大宰府での梅花の宴はそれを背景として開催されるに至ったのです。庭園の梅を観賞するために設けられた宴の席は謂わば大陸趣味のインテリゲンチャの集まりであることがわかるかと思います。それはただの模倣では無くて、最高の教育を受けた官人たちによる、新しい試みであったことは強調しておきたいところです。

この歌群は知られる限り、庭園の梅を題とした最も早い例です。ちなみに、当時の梅はほとんどが白梅であったそうです。はじめに挙げました、旅人の歌に「天から雪が流れて来るのでしょうか」とあるのは、白い梅を雪に見立てた、という趣向です。この後、梅花詠は大伴家持を中心とする『萬葉集』第四期歌人たちに引き継がれ、その数は実に120首にも及びます。萩に次いで二番目の量ですから、大陸からもたらされたこの植物が、いかに日本人に興味を持たれ、好まれたかが伺えるかと思います。バラ園に立って、行ったこともないのにベルサイユに思いを馳せたり、時にミス・マープルな英国気分に浸ってみたり(ちょっと少女趣味?気持ち悪いとかゆわないでね…)、そんな憧れを、上代の人々は庭園の梅に見たのだろうなーと勝手に想像するのでした。

大宰府の梅と言えば、今では菅原道真にその地位(?) を奪われていますが、上代文学を勉強する者、「あれ?太宰具天満宮の梅って、大伴旅人邸から持ってきたんじゃないの?」くらいの勘違いはしたいものです。…実際したら、ドン引きされること間違いなしですが。

そんな私は、梅と言えば水戸黄門(ん?聞いてない?)偕楽園に行ってみたいな。ということで、皆さま、梅を楽しみましょう。中国原産でも日本で愛でる梅にはやっぱり日本酒(個人的な意見です)。

では、次回 なお に引き継ぎたいと思います。私 諒 の次のテーマは…すみません、まだ考えてません…(無計画で人生を損してます)。 うぅ…、でも、何かマニアックなものを考えます。

10:41 | rakko | そして、梅花の宴 はコメントを受け付けていません
2011/01/27

こんにちは。中世文学担当・タモンです。

 前回に引き続き、「獅子と牡丹」についてのお話です。 最初にズバッと結論から言います。今回は、能「石橋(しゃっきょう)」の舞台上に出される牡丹の作リ物(セットを意味する能の専門用語)の演出が完成したのは、江戸時代の可能性があるのではないか、という趣旨のコラムです。 

はじめに、能「石橋」のあらすじをご紹介します。 

 修行のため寂昭法師は中国に渡り、清涼山にはいります。石橋を渡ろうとすると、通りがかった木こりに止められます。石橋は、幅一尺(約三十㎝)にも足らず、その長さは三丈(約九m)あまり、苔で覆われ滑りやすく、谷底までは千丈(約三千m)もあるといい、とても人間の渡れる橋ではありません。上空を見れば滝が飛沫を降り注ぎ、下を見れば谷底で白波が立ち上がり、夕陽に照らされた石橋は、まるで雲中にかかっているようです。木樵は法師に、ここでしばらく奇瑞を待つのが良いと教えて、立ち去ります。 やがて、文殊菩薩に仕える霊獣の獅子が現れ、山一面真っ盛りの紅白の牡丹に戯れつつ、豪壮な舞を舞い、千秋万歳を言祝ぎます。

 見せ場はなんといっても、後場の獅子の舞です!

石橋を表す一畳台が二つと、紅白の牡丹を立てた作リ物が舞台上に出されて、華やかさを増します。一流の能役者の舞台を観ると「この獅子の舞がずっと続いてほしい」、そんな風にすら感じます。 

「石橋」は、室町時代後期には成立していたと考えられます。『親元日記』(公家の日記です)寛正6年(1465)3月9日の記事に、室町将軍足利義政の前で音阿弥(世阿弥の甥・名能役者として有名)が演じた「しゝ(獅子)」の記録があるからです。このことから、「石橋」は別名「獅子」と称されていたと考えられます(「獅子舞」を意味する可能性も指摘されています)。

室町末期に本曲は一度断絶し、復興したのは江戸時代に入ってからでした。

二代将軍徳川秀忠の意向により、初代喜多七大夫(能の喜多流を興した人物)によって復興されたのです。このとき、喜多七大夫は、太鼓観世流をはじめとする囃子方の伝承を参考にします。さらに、上演直前になって間狂言のやり方をめぐって対立が起きるなど、さまざまな困難を乗り越えたうえでの復興でした。

このようにして、喜多流は江戸時代前期に「石橋」を演じるようになったのですが、他の四つの流儀はさらに後にならないと復興しませんでした。復興の初演は、観世流・宝生流は寛文初年(1661)以前、金剛流は文化十年(1813)、金春流は弘化三年(1846)といわれています。このことから、現在演じられている諸流の「石橋」は、江戸時代に演出し直した新作というべき作品であるといえるでしょう。 

ちょっと脱線すると、能「石橋」は、近世になると歌舞伎舞踊「連獅子(れんじし)」や「鏡獅子(かがみじし)」といった「石橋物」と呼ばれる一群の作品を生みました。見せ場は、獅子が頭の毛を豪快に振る「毛振り」です。最近、「連獅子」を中村勘三郎・勘太郎・七之助親子が演じて話題になりましたね。舞台を観ましたが、ピッタリ息が合っていて「これこそ親子ならでは!」と思いました。 

「石橋」が断絶する前の資料が残っていないので、室町後期の「石橋」がどのような作品であったかわかりません。ただ、獅子の舞を一曲の見せ場にしたものであったであろうことは、現行と変わらないと思います。 

ここで注目したいのが、獅子舞です。 

獅子舞は、8世紀頃、中国から日本に伝来した芸能です。はじめは伎楽・舞楽、散楽で演奏され、やがて厄災退散を祈って寺院や祭礼の場で舞われるようになりました。獅子の舞の特徴として、獅子頭に布を垂らすなどして中に人が入って舞を舞う形態であることが挙げられます。獅子頭とは、お笑い芸人のたむけんが持っているアレです。また、獅子の動きを模した激しい動きがあることです。獅子舞の魅力は、ダイナミックで躍動感溢れる舞にあるといえます。 

獅子舞は室町時代の芸能者にとっても関係性の深い芸能だったことが、世阿弥の芸談書『申楽談儀』(さるがくだんぎ)からうかがえます。 

一、獅子舞は、河内の榎並に、徳寿とてあり。神変獅子也。増阿、児(ちご)にて、鹿苑院(ろくおんいん・三代将軍足利義満)の御前にて舞いし、面白かりし也。 

↑には、榎並座の徳寿という能役者が神業のごとき獅子舞を舞ったこと、田楽の名手・増阿弥が少年の頃に、足利義満の御前で同じく獅子舞を舞ったのが面白かったことが、世阿弥によって語られています。「獅子舞」と記してあることから、現行「石橋」のような一曲の作品ではなく、独立した芸能としての「獅子舞」を舞ったのでしょう。 

もともと独立した芸能であった獅子舞が能役者によって舞われていたことを考えると、「石橋」は、獅子舞を能に摂取したことで成立した作品であるといえます。 次に、結末場面の詞章(台本の言葉)を挙げました。 

獅子団乱旋(ししとらでん)の、舞楽の砌(みぎり)、獅子団乱旋の、舞楽の砌、牡丹の花房、匂ひ満ち満ち、大筋力の、獅子頭、打てや囃せや、牡丹芳、牡丹芳、黄金の蘂(ずい)、あらはれて、花に戯れ、枝に付し転び(まろび)、げにも上なき、獅子王の勢ひ、靡かぬ草木も、なき時なれや、千秋万歳と、舞ひ納めて、千秋万歳と、舞ひ納めて、獅子の座にこそ、直りけれ(『新編日本古典文学全集 謡曲集』に拠る) 

この詞章の成立には二つの説があります。

ひとつは、もともと獅子舞の囃し謡で、後から「石橋」の詞章に組み込まれたという説、もうひとつは「石橋」独自の詞章とする説です。なお、「石橋」独自の詞章とする場合、原「石橋」を二場物とするか一場物とするかで説が分かれます。

この点に関して、私は結末の詞章は獅子舞の囃し謡であったのではないかという気がしています。この場面は物語を見せることよりも、祝言(祝意を表すことを第一とするもの)を見せることが第一だと思うからです。 

後場の獅子舞に紅白の牡丹の作リ物が出されます。舞台は勇猛な獅子の扮装をしたシテと牡丹の作リ物が一緒に見られると、とても華やかな印象を観客に与えます。

では、この作リ物はいつから舞台にだされるようになったのでしょうか。室町時代の型付(演出記録)や、江戸時代初期の型付(演出記録)である『岡家本江戸初期能型付』には、牡丹の作リ物に関するはありません。つまり、断絶する以前である室町末期に「石橋」の舞台に牡丹の作リ物が出されていたか否かは、不明なのです。

「石橋」の元ネタのひとつと指摘される和漢朗詠集古注釈には、「天台山の仙境の情景に獣が桃花のなかで戯れる」という記述があります。ここでは、「桃花」であり「牡丹」ではありません。

ここからは推論(思いつきともいう)なのですが、前場で牡丹について一言も触れずに仙境の描写をしているため、結末場面に牡丹の名称が用いられているのは、獅子と牡丹という吉祥の取り合わせ以上の意味はないように思います。独立した獅子舞の詞章を「石橋」に取り入れたならば、もともとの構成上、↑あらすじで説明したほど牡丹の存在は大きくなかったと考えられるわけです。そのため、少なくとも断絶する前の「石橋」には、牡丹の作リ物はなかった可能性のほうが高いのではないでしょうか。あるいは、独自の詞章であっても、獅子舞イコール祝言であったならば、やはり詞章における牡丹の存在は大きくなく、清涼山とも関係ないわけです。 

そこで、前回取り上げた獅子牡丹文様が思い浮かびます。 

鎌倉時代には存在していた獅子牡丹文様ですが、江戸時代にすっかり定着し、装束・絵画・工芸品・刺青など、実に多種多様な物にこの文様が用いられるようになりました。お姫さまの婚礼調度品にもあるんですよ(吉祥の意味があったと推定されますね)。

また、歌舞伎の「石橋物」で現存する最古の曲は、享保十九年(1734)、初代瀬川菊之丞が踊った『相生獅子(あいおいじし)』です。これは傾城が手獅子を持って踊る趣向で、扇笠(獅子頭を象徴)をかぶり牡丹の枝を持って狂うものでした。歌舞伎には、当初から獅子と牡丹の趣向が明示されています。江戸時代中期には、芸能で獅子と牡丹が組み合わさっています。 

つまり、「石橋」という作品が現在の演出になったのは、江戸時代に定着した獅子牡丹文様という風俗の反映もあったのではないか、という結論です。別の芸能を能の作品に取り入れた面白さだけでなく、二次元の文様を三次元の作リ物にした面白さも、この作品にはあったんじゃないかぁと思うのです。おめでたい時によく見る模様を舞台上に現して、観客を弾んだ気持ちにさせようとしたのかな、なんて想像してしまいます。 

ただ、室町期の記録に牡丹の作リ物に関する記述を見付けたら一発アウト(泣)。あるいは初代喜多七大夫が始めた…なんていう記録が出てきたら(面白いのになぁ)と一人ゴチてしまいます。

  ちなみに、「石橋」の小書(特殊演出)は多いことで知られています。これは、再興後に各流儀が独自色を出そうとした結果です。小書の内容は、獅子が二人以上登場する演出と、一畳台の並べ方を工夫する演出の二つに大別することができます。「石橋」の小書の内容を片っ端から調べたら、一畳台の並べ方などから何かわかるかも…と想像しています。

 次回は、諒(奈良時代までの上代文学担当)です。今度、タモンは、「弱法師(よろぼし)」について書こうと思っています。来月、ミシマダブル「サド侯爵夫人」「わが友ヒットラー」を見に行くことだし。能「弱法師」を基にして創った三島由紀夫の戯曲「弱法師」についてが題材です。盲目の美少年・弱法師が「見た」絶望と狂気、そして救いとは…?。それでは。 

06:38 | rakko | 獅子と牡丹~その2~(中世文学担当・タモン) はコメントを受け付けていません
2011/01/22

こんにちは。中世文学担当のタモンです。 

今回は、「獅子と牡丹」がテーマです。 

「獅子に牡丹」といえば、堂々とした獅子と華麗な牡丹をあしらった図柄を指します。 また、「取り合わせの良いこと」の例えとしても用いられています。あるいは縁起の良さを表します。同様の慣用句として、他に「梅に鶯」「紅葉に鹿」「竹に虎」といったものがあります。これらの図柄は花札などに見られますので、映画「サマーウォーズ」を見られた方なら、クライマックスの「コイコイ」(花札)対決!を思い出されるかもしれません(笑) 

花札だけではなく、「獅子に牡丹」の図柄は、Tシャツやバッグ、バンダナといった身近なものに用いられているのを見かけます。刺青にも用いますので、ヤクザ映画で見られることも。 

ぶっちゃけて言いますと、今回、図柄をテーマに話すので、絵などをアップさせたいと思いましたが、上手くいかず(泣)(×_× ;) 。っていうかやり方がわからない。できたら改めてアップしようと思います。…なおや諒に聞いてみよう(__;)(¨ ;)  

獅子、といってもライオンではありません。霊獣、つまり想像上の動物です。獅子は、文殊菩薩(知恵を司る仏さま)の乗る動物としてイメージされていたんです。古代ペルシャでは、太陽や王の力を象徴しました。魔除けの動物としても知られています。日本では、渦巻き模様の毛で覆われた唐獅子の姿が浸透しました。神社の社前に、一対の狛犬(こまいぬ)が置かれていることがよくあります。獅子と狛犬はまま混同されましたので、アニメ「おじゃる丸」のオコリン坊・ニコリン坊は獅子の一種といえます。 

牡丹は、「百花の王」とも称されている華やかな花です。その絢爛さから、中国では富貴の象徴とされ愛されてきました。『枕草子』に、「台の前に植ゑられたりける牡丹(ぼうた)などのをかしきこと」とあることから、平安時代には栽培されていたと考えられます。 

獅子牡丹の文様は奈良時代から見られます。正倉院(しょうそういん・奈良時代の文化財を保管する宝庫)蔵の「柄香炉」には、牡丹唐草と獅子が結びついた文様が見られます。 

ただし、現代に連なる「獅子牡丹文様」というと、日本独自におこったようです。 

日本の場合、調べた限りで一番古そうな記録は、鎌倉時代前期です。このあたりで獅子牡丹文様が定着した(生まれた?)と考えられます。たとえば、春日大社四社神殿間板壁には、嘉禎2年(1236年)には、獅子牡丹図が描かれていたという記録が残っています(『中臣祐定記』)。ちょっと後になると、延慶2年(1309年)。高階隆兼筆『春日権現記絵』(宮内庁三の丸尚蔵館蔵)巻三第八紙の画中画です。知足院関白邸内に「牡丹に獅子図」が襖絵として描かれています。……もっとちゃんと調べれば、さらに古い記録がでてくるかも。。。という一抹の不安がありますが、とりあえずということで。(注・「鳥獣戯画絵巻」(12世紀半ば完成?)や興福寺東金堂の維摩居士像台座の装飾(1196年、定慶作)は、獅子と牡丹(?)が描かれていますが、一体となった文様ではないのでカウントしていません) 

鎌倉時代には、獅子に牡丹の図柄は、武具にもよく用いられるようになりました。甲冑、馬具、弦などです。勇猛なイメージの獅子は武将にウケましたし、華やかな牡丹は甲冑を彩るのに適した柄だったのでしょう。正平4年(1351年)の年記が入った「正平革」(別名・藻獅子韋)には、獅子牡丹文様が施されています。 

獅子に牡丹の取り合わせは、「獅子身中の虫を喰らう」のことわざから来ているという説明がなされることがあります。意味は、「獅子の体内にいる虫が、その寄っている獅子の肉を食って、ついには倒してしまうの意。仏徒でありながら仏教に害をなすことのたとえ。転じて、恩を受けた者に仇(あだ)で報いることのたとえ」です(『日本国語大辞典』)。この虫を抑えるには、牡丹の夜露を飲むしかないそうですが、典拠はなんだろう……?。調査不足かもしれません。わかったらご報告したいです。この慣用句自体は『吾妻鏡』にみられますが、牡丹に関する記述はないですね。 

見通しだけ述べておくと、↑のようなことわざが発生源と考えるよりも、奈良時代から人々に親しまれてきた獅子・牡丹文様が鎌倉時代前後で一体の文様となったと考えるほうが妥当かと思います。その際、なぜ2つが結びついたかという理由は、百獣の王・獅子と百花の王・牡丹が結びつけて吉祥の象徴を表そうとしたから、というのがオーソドックスな説明になりますが、ほんとうのところは今も謎のままです。 

むしろ、私が着目したいのは『碧巌録』(へきがんろく・鎌倉時代前期には日本に伝わった禅の仏書)第四第三十九則にある、「金毛獅子」「花薬欄」といった言葉です。長くなったので、これはこのぐらいで。 

なぜ、今回、獅子に牡丹のお話をしたかというと、能「石橋(しゃっきょう)」についてお話したかったからです。「石橋」は、牡丹咲き乱れるなかで獅子が舞うという作品です。今回の切り口は、図柄としての獅子と牡丹でしたが、次回、いよいよ本題。芸能としての獅子と牡丹です。獅子を語るうえで重要なのは、獅子舞という芸能がキーポイントになります。それでは。

09:02 | rakko | 獅子と牡丹~その1~(中世文学担当・タモン) はコメントを受け付けていません
2011/01/19

前回(贈り物上手な平安貴族たち①)に続いて、なおの更新です。よろしければお付き合い下さい。予定より更新が遅くなってしまいました。万が一待ってくださっていた方がいらっしゃいましたら、申し訳ありません。

  

前回のコラムでは、なぜ平安貴族たちに贈り物上手が多いのか、その理由を探ってみました。そして、狭い貴族コミュニティーにおけるセンスの競い合いが、贈り物文化の成熟をもたらした要因の一つなのではないか、ということを述べました。

今回は、前回の予告通り、贈り物上手な平安貴族たちを、具体的にご紹介したいと思うのですが・・・

  でも、まずは「残念」な例から・・・  

末摘花をご存じの方は多いと思います。

そう、『源氏物語』随一の不美人として有名な女性です。

『源氏』作者は、ものすごく気合の入った筆で、末摘花の不美人さを描写しています。有名な箇所ですし、少々長くなりますが、引用してみましょう。

まづ、居丈の高く、を背長に見えたまふに、さればよと、胸つぶれぬ。うちつぎて、あなかたはと見ゆるものは鼻なりけり。ふと目ぞとまる。普賢菩薩の乗物とおぼゆ。あさましう高うのびらかに、先の方すこし垂りて色づきたること、ことのほかにうたてあり。色は雪はづかしく白うて、さ青に、額つきこよなうはれたるに、なほ下がちなる面やうは、おほかたおどろおどろしう長きなるべし。痩せたまへること、いとほしげにさらぼひて、肩のほどなど、痛げなるまで衣の上まで見ゆ。(「末摘花」巻)

(まず、居丈がたかく、背中が曲がったご様子であるのに、ああ、やはり、と光源氏は胸が潰れる思いである。続いて、なんてみっともないのだろう、と思われるのは鼻であった。真っ先に目にとまる。普賢菩薩(伝説上の白象に似た生き物。鼻はよく赤い花などで装飾されている)の乗り物かと思われる。(末摘花の鼻は)あやしいほど高く長くて、先の方が少し垂れて色づいていることが、ことのほか、見苦しい。(顔の)色は雪も恥じ入るほど白くて、青みがかっていて、額はとても広くて、それでもまだ下の方が長く見える顔立ちは、たぶんおそろしく長顔なのだろう。痩せなさっていることは、気の毒なほど骨張っていて、肩の辺りなどは衣の上からでも、痛々しげにとがって見える。)

この記述に続いて、髪だけは綺麗であること、着ているものがとんでもなく時代遅れで、しかも女性の着るにふさわしいものではないことが書かれます(黒貂の皮のベストを着ていました)。

克明に描かれた末摘花の不美人ぶり、平安貴族たちも笑いながら読んだことでしょう。「美しいものこそ正義」な時代、王朝的な美意識の規範から外れたものへの彼らの眼差しは、大変厳しく残酷なものでした。

  不美人なだけじゃなかったのです・・・(でも何故か光源氏と関係を持てました)

末摘花の不幸なところは、彼女が単なる不美人ではすまなかったことです。

宮家の生まれで(父は常陸宮・天皇の息子)血筋こそやんごとないものの、父宮亡き後、家は零落してしまい、大変な貧乏暮らしでした。服装その他のセンスも流行遅れで(これは貧乏で新しいものが買えないせいもありますが)、今で言うところのKY、極度の内気、コミュニケーション不全でもありました。

そんな末摘花ですが、なんと光源氏に興味を持たれ、関係を持つに至ります。なぜ、光源氏が末摘花などに惹かれたか。それは末摘花邸に出入りしていた女房、大輔命婦の活躍のおかげでした。彼女は、末摘花がさも魅力的な姫君であるように、異常な容姿と性格を隠して光源氏に話をし、訪れるようしむけたのです。姫君たちが屋敷の奥深くに暮らしていた時代です。このような女房による「情報操作」はよく行われたようです。光源氏は、あばら屋に住む高貴な、薄幸の姫君を想像して、期待一杯で末摘花にアプローチをするのです。

先に引用したのは、光源氏が、末摘花の様子はどうも尋常ではない、話しかけても歌を詠かけても反応がなく、たまに返ってきた手紙の和歌はひどく流行遅れな書体で書かれていて、これは奥ゆかしいとか内気とかいうレベルではないのではないか、と思い始めたころ、雪の朝についに末摘花の姿を見てしまった、という末摘花巻のクライマックスというべき場面です。

末摘花の醜い姿を見てしまった光源氏。

2人の関係はその後どうなるのでしょう?

 ヒーロー光源氏、末摘花を救済する

実は、光源氏は末摘花を見捨てず、貧しい彼女を援助することを決めます。自分が援助しなければ、他の男が末摘花のような魅力に欠ける(というよりは異常ですらある)女を世話する奇特な男は現れないだろう、と考えたからです。末摘花のあまりの不器量にかえっていじらしく感じる気持ちが募った、とも書かれています。

平安時代は男が女に飽きて、訪れが間遠になり、やがて結婚生活が終焉を迎える、ということも少なくはありませんでした。特に、末摘花のように父親が亡くなって後ろ盾のない娘は(不美人ではなくても)軽く扱われがちでした。そもそも、結婚後であっても原則、妻は実家の財産によって生活しましたし、むしろ経済的なことも含めて婿の世話をすることが妻の実家に期待されていました。経済的な支援を期待して金持ちの娘と結婚しようとする男も多かった時代に、光源氏の行為がいかに理想的なものとして描かれていたか、理解していただけると思います。

末摘花巻では、光源氏は末摘花にまともな着物を作るための布を贈る他、老いた末摘花邸の女房・門番にまで衣料を贈ります。既に述べました通り、女性は原則、実家の財産で生活しましたから、女主人に直接、生活実用品を贈るのは失礼な行為とされたのですが、無神経な末摘花にならかまわないだろう、と光源氏は判断したのでしょう。物語も「黒貂の皮ならぬ絹、綾、綿など」が末摘花に贈られた・・・と皮肉たっぷりに語っています。せっかくの源氏の好意にもかかわらず、末摘花がお気に入りの皮衣をなかなか手放さなかった・・・というのは後日談として「初音」巻に語られます。

  末摘花の贈り物

このように末摘花をめぐるエピソードには、光源氏の人間としての大きさが描かれていくのですが、一方でとんちんかんな末摘花に光源氏が辟易し、いらだちを隠せない場面もあります。

特に、末摘花の贈り物下手は、光源氏を悩ませます。

最初の贈り物が送られたのは、末摘花と関係が始まった年の暮れのことでした(末摘花巻)。2人の仲を取り持った大輔命婦が言い出しにくそうに、姫君からの手紙を預かっていることを切り出します。そこには、「陸奥国紙の厚肥えたる」紙に、

からころも君が心のつらければたもとはかくぞそぼちつつのみ

((唐衣・「君」の枕詞)あなたのお心がつらいので、このように袖のたもとが濡れてばかりおります。)

と和歌がしたためられていました。

恋歌を贈る際には、色のついた薄い洒落た紙を使うものとされていました。ですから、まず紙に問題があるのですが、書かれた和歌の内容も不審でした。「唐衣」「袖」「たもと」と衣服に関する縁語が用いられています。また、「かく(このように)」と詠まれても、どのようになのだか、分かりません。

不審がっている源氏に対して、実は・・・・・・と大輔命婦が差し出したのが、「つつみに衣箱の重りかに古代なる」(包み布の上に衣装箱の重々しく古風なもの)でした。開けてみると中には「今様色のえゆるすまじく艶なう古めきたる直衣の、裏表ひとしうこまやかなる」濃い紅梅色の、許せないくらい艶がなく古びた、直衣(男性の日常着)の表も裏も同じくらい色が濃いもの)が入っていました。光源氏が正月に着る装束として、末摘花が用意したものですが、ひどく古びていた上に、この時代は表と裏を別の色で染めてその重り方を重視していましたから、表裏同色というのはかなり流行遅れの印象を免れません。

そもそも、元日のための装束はたいてい正妻が用意するもの、光源氏には身分高く裕福な正妻・葵の上がいますから、末摘花の出る幕ではないのです。

また、歌もまずく、あまりにも工夫がなく、直接的すぎます。

この末摘花の贈り物に絶句した源氏は、思わず

なつかしき色ともなしに何にこのすゑつむ花を袖にふれけむ

(心ひかれる色ではないのにどうしてこの末摘花に触れてしまったんだろう―どうしてこのような女と契りを結んでしまったのだろう)

と詠みます。

同席していた大輔命婦は、

紅のひとはな衣薄くともひたすらくたす名をしたてずは

(紅の一度染めの衣の色のように、姫君へのお気持が薄くていらしてもどうか姫君の名誉をお守り下さればよろしいのですが)

と応え、2人はこのみっともない贈り物が他の女房たちの目に触れないよう、あわてて片付けるのでした。

光源氏は大晦日に、

逢はぬ夜をへだつる中の衣手にかさねていとど見もし見よとや

(あなたにお会いしない夜が重なっているのに、共寝の二人を隔てるといわれる衣を私に贈って、二人の間を隔てる袖をさらに重ねてみよというのですか)

という歌とともに、末摘花がよこした衣箱を美しい衣装でいっぱいにして返します。

まともなセンスを持っている大輔命婦などは、先日の末摘花の贈り物を思って、いたたまれない気持ちでいるのですが、末摘花邸の老いた女房たちは、大昔のセンスをそのまま引きずっている人たちですから、自信満々。

「光源氏様にお送りした直衣は重厚な紅なのですから、見劣りはしますまい」

「和歌だって、姫君様のは筋が通ったしっかりしたものでした。あちらさまのは気が利いているだけですね」

などと、言いたい放題。末摘花当人も、和歌は必死に考えて作った自信作だったようで、手控えに書き付ける始末。

末摘花の「贈る技術」はあがりそうにもありません

 贈り物下手の贈り物好き

贈り物下手ならば、かえって贈らない方が良いというもの。

なのに、下手の横好きというか、律儀というか・・・

昔気質で頑固な末摘花は、この後にも贈り物をして光源氏を困らせます。

「末摘花」巻の、暮れの贈り物は、光源氏個人に宛てたものだからまだ良かったのです。

「行幸」巻では、光源氏の養女分である玉鬘の裳着(成女式)という、大事な儀式に際してとんでもないものを贈ってしまい、光源氏の面目をつぶしてしまいます。

晴れの日の当日、源氏と一緒にいた玉鬘のもとに贈られてきたのは、なんと、喪服でした。

添えられた和歌は

わが身こそうらみられけれ唐衣君がたもとになれずと思へば

(わが身が恨めしくてなりません。(唐衣)あなたの側にいつもいることが出来ないと思いますと)

お気づきの通り、「唐衣」は以前の歌にも詠まれた題材です(実は、末摘花は「玉鬘」巻でも「唐衣」を用いた歌を源氏に贈っていますから、3度目です)。まさしく馬鹿の一つ覚え晴れの日を迎えた玉鬘に贈られた衣装は喪の色である「青鈍」(濃いはなだ色・喪中や仏事の際などに多く用いられた)その他黒っぽいものばかりでした。男の薄情さを恨む歌の内容も、玉鬘の大人の女性としての船出を祝う裳着に贈る歌としてはふさわしくありません。

贈り物と歌のあまりの無神経さに、今度ばかりはさすがの光源氏もキレてしまいます

こういう贈り物はすべきではない、と強く意見した上で、

 唐衣またからころもからころもかへすがへすもからころもなる

(唐衣またからころも、唐衣とばかり返す返すおっしゃるのですね)

と末摘花を、かなりあからさまにからかった歌を返します。

和歌を受け取った末摘花の反応は、残念ながら描かれていませんが、光源氏の皮肉は、果たして通じたのでしょうか?

気がついたら、「残念な例」を書くだけで、紙幅が尽きてしまいました。

タイトル「贈り物上手~」と中身が一致していなくて、すみません・・・

実は今回はじめて末摘花について書いたのですが、欠点のある人について書くのってすっごく楽しいのですね(苦笑)つい長くなってしまいました。

源氏作者もさぞ楽しんで末摘花のエピソードを執筆したのだろうと思います。

でも、ここが『源氏物語』の深いところなのでしょうが、末摘花は単に笑いものにされるばかりでもないのです。末摘花の「ちょっと良い面」が書かれるのが「蓬生」巻です。いつかそちらもご紹介出来れば、と思います。

次に書くコラムでは、今度こそ本当に「贈り物上手な平安貴族たち」について書きます。が、連載はタモンと諒にリレーしたいと思いますので、私なおの再登場は一月後になります。

読んでくださった方、ありがとうございます。一月後にまた、よろしくお願いいたします。

___________________________________

『源氏物語』本文の引用は、阿部秋生ほか『新編日本古典文学全集』本(全6冊)によっていますが、一部私に句読点を打ち直した箇所があります。

02:31 | rakko | 贈り物上手な平安貴族たち② はコメントを受け付けていません

« Previous | Next »