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こんにちは。中世文学担当・タモンです。
前回に引き続き、「獅子と牡丹」についてのお話です。 最初にズバッと結論から言います。今回は、能「石橋(しゃっきょう)」の舞台上に出される牡丹の作リ物(セットを意味する能の専門用語)の演出が完成したのは、江戸時代の可能性があるのではないか、という趣旨のコラムです。
はじめに、能「石橋」のあらすじをご紹介します。
修行のため寂昭法師は中国に渡り、清涼山にはいります。石橋を渡ろうとすると、通りがかった木こりに止められます。石橋は、幅一尺(約三十㎝)にも足らず、その長さは三丈(約九m)あまり、苔で覆われ滑りやすく、谷底までは千丈(約三千m)もあるといい、とても人間の渡れる橋ではありません。上空を見れば滝が飛沫を降り注ぎ、下を見れば谷底で白波が立ち上がり、夕陽に照らされた石橋は、まるで雲中にかかっているようです。木樵は法師に、ここでしばらく奇瑞を待つのが良いと教えて、立ち去ります。 やがて、文殊菩薩に仕える霊獣の獅子が現れ、山一面真っ盛りの紅白の牡丹に戯れつつ、豪壮な舞を舞い、千秋万歳を言祝ぎます。
見せ場はなんといっても、後場の獅子の舞です!
石橋を表す一畳台が二つと、紅白の牡丹を立てた作リ物が舞台上に出されて、華やかさを増します。一流の能役者の舞台を観ると「この獅子の舞がずっと続いてほしい」、そんな風にすら感じます。
「石橋」は、室町時代後期には成立していたと考えられます。『親元日記』(公家の日記です)寛正6年(1465)3月9日の記事に、室町将軍足利義政の前で音阿弥(世阿弥の甥・名能役者として有名)が演じた「しゝ(獅子)」の記録があるからです。このことから、「石橋」は別名「獅子」と称されていたと考えられます(「獅子舞」を意味する可能性も指摘されています)。
室町末期に本曲は一度断絶し、復興したのは江戸時代に入ってからでした。
二代将軍徳川秀忠の意向により、初代喜多七大夫(能の喜多流を興した人物)によって復興されたのです。このとき、喜多七大夫は、太鼓観世流をはじめとする囃子方の伝承を参考にします。さらに、上演直前になって間狂言のやり方をめぐって対立が起きるなど、さまざまな困難を乗り越えたうえでの復興でした。
このようにして、喜多流は江戸時代前期に「石橋」を演じるようになったのですが、他の四つの流儀はさらに後にならないと復興しませんでした。復興の初演は、観世流・宝生流は寛文初年(1661)以前、金剛流は文化十年(1813)、金春流は弘化三年(1846)といわれています。このことから、現在演じられている諸流の「石橋」は、江戸時代に演出し直した新作というべき作品であるといえるでしょう。
ちょっと脱線すると、能「石橋」は、近世になると歌舞伎舞踊「連獅子(れんじし)」や「鏡獅子(かがみじし)」といった「石橋物」と呼ばれる一群の作品を生みました。見せ場は、獅子が頭の毛を豪快に振る「毛振り」です。最近、「連獅子」を中村勘三郎・勘太郎・七之助親子が演じて話題になりましたね。舞台を観ましたが、ピッタリ息が合っていて「これこそ親子ならでは!」と思いました。
「石橋」が断絶する前の資料が残っていないので、室町後期の「石橋」がどのような作品であったかわかりません。ただ、獅子の舞を一曲の見せ場にしたものであったであろうことは、現行と変わらないと思います。
ここで注目したいのが、獅子舞です。
獅子舞は、8世紀頃、中国から日本に伝来した芸能です。はじめは伎楽・舞楽、散楽で演奏され、やがて厄災退散を祈って寺院や祭礼の場で舞われるようになりました。獅子の舞の特徴として、獅子頭に布を垂らすなどして中に人が入って舞を舞う形態であることが挙げられます。獅子頭とは、お笑い芸人のたむけんが持っているアレです。また、獅子の動きを模した激しい動きがあることです。獅子舞の魅力は、ダイナミックで躍動感溢れる舞にあるといえます。
獅子舞は室町時代の芸能者にとっても関係性の深い芸能だったことが、世阿弥の芸談書『申楽談儀』(さるがくだんぎ)からうかがえます。
一、獅子舞は、河内の榎並に、徳寿とてあり。神変獅子也。増阿、児(ちご)にて、鹿苑院(ろくおんいん・三代将軍足利義満)の御前にて舞いし、面白かりし也。
↑には、榎並座の徳寿という能役者が神業のごとき獅子舞を舞ったこと、田楽の名手・増阿弥が少年の頃に、足利義満の御前で同じく獅子舞を舞ったのが面白かったことが、世阿弥によって語られています。「獅子舞」と記してあることから、現行「石橋」のような一曲の作品ではなく、独立した芸能としての「獅子舞」を舞ったのでしょう。
もともと独立した芸能であった獅子舞が能役者によって舞われていたことを考えると、「石橋」は、獅子舞を能に摂取したことで成立した作品であるといえます。 次に、結末場面の詞章(台本の言葉)を挙げました。
獅子団乱旋(ししとらでん)の、舞楽の砌(みぎり)、獅子団乱旋の、舞楽の砌、牡丹の花房、匂ひ満ち満ち、大筋力の、獅子頭、打てや囃せや、牡丹芳、牡丹芳、黄金の蘂(ずい)、あらはれて、花に戯れ、枝に付し転び(まろび)、げにも上なき、獅子王の勢ひ、靡かぬ草木も、なき時なれや、千秋万歳と、舞ひ納めて、千秋万歳と、舞ひ納めて、獅子の座にこそ、直りけれ(『新編日本古典文学全集 謡曲集』に拠る)
この詞章の成立には二つの説があります。
ひとつは、もともと獅子舞の囃し謡で、後から「石橋」の詞章に組み込まれたという説、もうひとつは「石橋」独自の詞章とする説です。なお、「石橋」独自の詞章とする場合、原「石橋」を二場物とするか一場物とするかで説が分かれます。
この点に関して、私は結末の詞章は獅子舞の囃し謡であったのではないかという気がしています。この場面は物語を見せることよりも、祝言(祝意を表すことを第一とするもの)を見せることが第一だと思うからです。
後場の獅子舞に紅白の牡丹の作リ物が出されます。舞台は勇猛な獅子の扮装をしたシテと牡丹の作リ物が一緒に見られると、とても華やかな印象を観客に与えます。
では、この作リ物はいつから舞台にだされるようになったのでしょうか。室町時代の型付(演出記録)や、江戸時代初期の型付(演出記録)である『岡家本江戸初期能型付』には、牡丹の作リ物に関するはありません。つまり、断絶する以前である室町末期に「石橋」の舞台に牡丹の作リ物が出されていたか否かは、不明なのです。
「石橋」の元ネタのひとつと指摘される和漢朗詠集古注釈には、「天台山の仙境の情景に獣が桃花のなかで戯れる」という記述があります。ここでは、「桃花」であり「牡丹」ではありません。
ここからは推論(思いつきともいう)なのですが、前場で牡丹について一言も触れずに仙境の描写をしているため、結末場面に牡丹の名称が用いられているのは、獅子と牡丹という吉祥の取り合わせ以上の意味はないように思います。独立した獅子舞の詞章を「石橋」に取り入れたならば、もともとの構成上、↑あらすじで説明したほど牡丹の存在は大きくなかったと考えられるわけです。そのため、少なくとも断絶する前の「石橋」には、牡丹の作リ物はなかった可能性のほうが高いのではないでしょうか。あるいは、独自の詞章であっても、獅子舞イコール祝言であったならば、やはり詞章における牡丹の存在は大きくなく、清涼山とも関係ないわけです。
そこで、前回取り上げた獅子牡丹文様が思い浮かびます。
鎌倉時代には存在していた獅子牡丹文様ですが、江戸時代にすっかり定着し、装束・絵画・工芸品・刺青など、実に多種多様な物にこの文様が用いられるようになりました。お姫さまの婚礼調度品にもあるんですよ(吉祥の意味があったと推定されますね)。
また、歌舞伎の「石橋物」で現存する最古の曲は、享保十九年(1734)、初代瀬川菊之丞が踊った『相生獅子(あいおいじし)』です。これは傾城が手獅子を持って踊る趣向で、扇笠(獅子頭を象徴)をかぶり牡丹の枝を持って狂うものでした。歌舞伎には、当初から獅子と牡丹の趣向が明示されています。江戸時代中期には、芸能で獅子と牡丹が組み合わさっています。
つまり、「石橋」という作品が現在の演出になったのは、江戸時代に定着した獅子牡丹文様という風俗の反映もあったのではないか、という結論です。別の芸能を能の作品に取り入れた面白さだけでなく、二次元の文様を三次元の作リ物にした面白さも、この作品にはあったんじゃないかぁと思うのです。おめでたい時によく見る模様を舞台上に現して、観客を弾んだ気持ちにさせようとしたのかな、なんて想像してしまいます。
ただ、室町期の記録に牡丹の作リ物に関する記述を見付けたら一発アウト(泣)。あるいは初代喜多七大夫が始めた…なんていう記録が出てきたら(面白いのになぁ)と一人ゴチてしまいます。
ちなみに、「石橋」の小書(特殊演出)は多いことで知られています。これは、再興後に各流儀が独自色を出そうとした結果です。小書の内容は、獅子が二人以上登場する演出と、一畳台の並べ方を工夫する演出の二つに大別することができます。「石橋」の小書の内容を片っ端から調べたら、一畳台の並べ方などから何かわかるかも…と想像しています。
次回は、諒(奈良時代までの上代文学担当)です。今度、タモンは、「弱法師(よろぼし)」について書こうと思っています。来月、ミシマダブル「サド侯爵夫人」「わが友ヒットラー」を見に行くことだし。能「弱法師」を基にして創った三島由紀夫の戯曲「弱法師」についてが題材です。盲目の美少年・弱法師が「見た」絶望と狂気、そして救いとは…?。それでは。