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2011/03/25

 

諒です。今回もわっかり難い話になっていますがよろしくおねがいします。

萬葉集の巻十二にこんな歌があります。

真十鏡(まそかがみ)見ませ我が背子(せこ)吾が形見持てらむ辰(とき)に相はざらめやも(2976)

この歌は萬葉集の「寄物陳思」(物に寄せて思ひを陳ぶる)、つまり物を媒介として自らの恋心を詠んだ歌、という項目に分類されています。どの「物」に寄せているかは、歌を見ればわかる。ここでは、「真十鏡」です。内容は、離れてある「背子」(夫)に対して、「形見」の「鏡」を持っているのだから会えないということがあるでしょうか、と励ます歌です。

今回・次回は古代の「鏡」に注目したいと思います。古代の「鏡」ってどんなふうに扱われていたの?というのを文学の側から見てみたいと思います。古代の「鏡」とひとくちに言っても、「鏡」そのものを核として想像をよび、文学のうえで表されるにもひととおりではないと、自分が感じていることを書くつもりです。

ところで先日、万城目学の『鹿男あをによし』を読みました。ドラマは観ていたのですが、原作はまだ手にとっていなかったのです。(読了の一週間後くらいに今回の震災が起こったのには大変驚きました。)「奈良」で「平城京」で・・・と来ると時代的には飛鳥~奈良あたりを想像するのですが、実際は卑弥呼を祖としているのでそれよりも500年ほど古い3世紀頃に軸を据えた話だったですね。「人の信仰や想像には意味があるヨ」と鹿が言っているような、(分類はファンタジー?)こうした話は好きです。ちなみに、始め、主人公が大学の研究室で上手くいかなくて奈良へ・・・というところには、ちょっと うっ(色んな意味で)となりました。

さて、「なまず」を鎮めるための「鍵」となるのが「サンカク」―つまり「三角縁神獣鏡」だったことから今回の「鏡」の話を思いついたわけですが。

卑弥呼というと、子供のころに図書館で借りて読んだ、歴史上の人物を漫画にしたシリーズ(ネットで検索してみましたが、色んなシリーズがあってどれだったか判然としませんでした・・・)で、卑弥呼が鏡に光を反射させ、ペカーッ!と輝きを放つ様子に人々が魅入る場面がとても印象に残っています。

このペカーッ!に象徴されるように、「鏡」は神秘的な威力を物の内にもつ、呪具です。古代には、祭祀に用いられたり副葬品として墳墓に納められたりしました。その力をもって現代まで受け継がれるもっとも代表的な「鏡」は、所謂三種の神器の一つとして名高い「八咫鏡」でありましょう。卑弥呼がペカーッ!とする場面が現代において発想される背景には、有名な『魏志』倭人伝の景初二年十二月の詔書に、様々な物とともに「銅鏡百枚」を賜う、とあることや、そうした記事に基づいた考古学の成果から湧き上がるロマンがあると思われますが、加えて、記紀に描かれた神話の世界からの想像があると考えられます。それが「八咫鏡」の話です。この「鏡」は、記紀によると天照大神の「天の石屋戸」の話に由来します。

卑弥呼と天照大神は、同一人(?)物説など、その関係を語る論が多くありますが、白状するとそういった古代史の論争にはあまり詳しくないので避けさせて下さい。ただ、現代の卑弥呼像の根元に、文学として表された神話からのイメージの連鎖と広がりを認めてよいのでは?、ということです。

ここでは特に古事記を取り上げます。

大変有名な神話なので、今さら詳述することはしませんが、石屋に籠った天照大神が、神々の賑やかな様子を不思議と思って顔をだした時に差し出されたのが「鏡」でした。古事記には、「アメノコヤネノミコト(天児屋命)・フトダマノミコト(布刀玉命)、其の鏡を指し出で、天照大御神に示し奉る」とあり、その時に「鏡」に天照の姿を映したものと読むことが可能です。その「鏡」は後の天孫降臨の時に地上に降されます。古事記はそれを以下のように伝えます。

是に、(天照大神はニニギノミコトに対して)其の招きし八尺勾玉・鏡と草那藝剣、またトコヨノオモヒカネノカミ(常世思金神)・タヂカラヲノカミ(手力男神)を副へて詔らししく、「此の鏡は、もはら我が御魂として、吾が前を拝(い)はふが如く、斎き奉れ」(神代記)

 高天原を司る太陽神である天照大神は古来、「鏡」に象徴される神です。それは、「鏡」に姿を映したことで「御魂」を宿したためと古事記は言います。「鏡」の本来の役割は、表面に物を映し出すことにあって、そこに人々は神秘を想像します。それが日の光の印象と重なることから、天照大神のご神体として祀るようになったと推測されますが、信仰には由来、つまり神話が必要である。古事記は、それを「天の石屋戸」と積極的に結び付けて、「鏡」が天照の「魂」を映しとったものであると説明しているのです。

 ここに神話の自由な想像力と、記すことの決して自由とは言い切れない、緻密な構成力が見てとれます。古代には、「鏡」が天照の「魂」を宿すものとして想像され得た、「鏡」へのイメージがありました。では一方でそれは、人々の暮らしの中でどのように息づいているのでしょうか? ・・・次回のテーマです。始めに挙げた萬葉歌はそちらできちんと取り上げます。

 以上のような話、わかりにくいですか? わかりにくいですよね。 自分の伝え方のせいだと反省しております。精進するので見捨てないで。

それから、全然関係ないですが驚いた話をひとつ。yahooニュースで18日、こんな記事を発見。

スカイツリーの建設は14日から再開しており、18日に頂点(634m)の避雷針を取り付けた[yomiuri online]、とのこと。・・・驚きました。こんな状況の中ですごいです。作業員の方々。 普段から風でもかなり揺れると思うので、あまり大きくなければもしかしたら気にならないの?いやいや、そんなはずは・・・とか余計な事を考えてしまうのでした。コラムと全く関連性がありませんが、驚きを記憶しておきたかったので、そしてできれば誰かに共感してほしかったので書いてしまいました。

最後になりましたが、いつもお世話になっております 桃生さま、どうかご無事でお過ごしください。ブログ、がんばって更新してまいります。

2011/03/25 12:00 | rakko | No Comments