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2013/07/31

こんにちは。諒です。

そういえば、「あぐら」の話、完結していませんでした。引き延ばすほどの結論ではないのですけれどね。

タケミカヅチが天孫降臨の先遣隊として地上につかわされ、地上の神大国主神の前に現れ時の様子は、剣を浪の穂の間に逆さまに立て、刃先に「あぐら」をかいて坐した、とされます。この現れ方について、面白い説があります。

『信西古楽図』(成立は平安時代中~後期とされる)という、舞楽を図で説明した作品があるのですが、その中に「臥劔上舞」という図がありまして、これは剣の先端で何やら人が舞っている様子を描いたものなのです。近藤善博氏は、「劒尖に坐す神」(国学院雑誌、昭和35年5月)で、「雷を劒尖上にて制禦する」姿が、こうした様子と重ねられることを説いておられます。「臥劔上舞」、確かに面白い図です。東京藝術大学の収蔵品データベースで模本の画像が見られます。↓

[http://db.am.geidai.ac.jp/object.cgi?id=19759;image_file=EH0211821.jpg#imagetop]

でも、本当にこのような軽業と、降臨して剣の先端に坐す神が重ね合わされるでしょうか。

 

実は、剣の刃の先端に現れる神、というモチーフは、ひとり日本神話に見られるだけではありません。『剣の神・剣の英雄 タケミカヅチ神話の比較研究』(法政大学出版局、昭和56年)という本で、吉田敦彦氏は西欧にも、神が剣の先端に降臨するとされる話があることを論じておられます。その姿の発想は軽業に求められるものではなく、神話的な発想として剣の先端に神が宿ると考えられたことを受け入れるべきだと思われます。

ただ、世界的に見ても、タケミカヅチに特徴的なのは、「あぐら」をかいていることです。この姿というのは、どのようなイメージをもてばよいのでしょうか。

ところで、上代に「アグラ」というと、足を組んで坐ることではなく、貴人の坐す椅子のことを指します。「胡床・呉床」と書きます。上代では神や天皇が坐るものとして出てきます。現在の「あぐら」をかくこととは違う意味ですが、その椅子に坐るときには、足を組んで坐るので、この際、参考になると思います。その姿を想像するために、人物埴輪を見てみます。…著作権が気になるので、手書きです。若狭徹氏の『もっと知りたい はにわの世界 古代社会からのメッセージ』(東京美術、平成21年)を参考にしています。

 

群馬県の綿貫観音山古墳(6世紀後半)の王の埴輪を模したつもりです。実際の埴輪は、もうちょっと面立ちのよい人です。儀礼の場面であると考えられています。

この埴輪は、がっつりと足を組んだ、「あぐら」をかいた状態ですが、これよりも足を緩めた状態の埴輪(「胡坐」と言います)も別の古墳で出土しています。埴輪の坐る台を「胡床」と言ってよいのかわかりませんが、貴人が「胡床」に坐る姿とは、このような感じであったと考えられます。そして、この台を剣に替えれば、まさしくタケミカヅチの姿になると思うのです。

神話や伝説で、神や天皇が「胡床」に坐る場面は、戦や狩であることが多いです。また、『日本書紀』に、即位前の継体天皇(元年正月六日)が、「晏然(あんぜん)自若(じじゃく)にして、胡床に踞坐(ましま)す。陪臣を斉(ととの)へ列ね、既に帝の如く坐します」(悠然として、胡床に坐っておられる。諸侯を列し侍らせ、その姿はいかにも帝王のようであられた)とあることからも、「胡床」に坐すことが権威を示すと理解されていたことは、疑いありません。

これに鑑みると、国譲りの場面において、タケミカヅチが剣の先端に「あぐら」をかくのは、国つ神の大国主神よりも、上位にあるべき存在としての権威を知らしめる、そのことをあらわす姿なのであると、考えられるのではないでしょうか。

これは、現在考え中の問題なのでもしかするとそうではないかも知れませんし、タケミカヅチが「あぐら」をかいている意味はそればかりではないかも知れません。その検討は今後の課題です。

というわけで、この話はこのへんで。

埴輪、よく見ると、かなり精緻でリアルにできています。なかなか興味深いので、機会があればぜひ観察してみてください。

11:39 | rakko | 「あぐら」について(3) はコメントを受け付けていません
2013/07/31

こんばんは。なおです。 毎度の月末更新になってしまった上に、心苦しいのですが・・・今回は予告編とさせてください。

先日、①文学研究者(見習い中も含む)が提供したい/提供できる話題と、文学の愛好家(一般の読者の方達)が求めている事柄は噛み合わない!

②しかしながら、研究者が愛好家側に歩み寄ろうとしすぎると、ろくなことにならない(たとえ、どんなに有能な研究者であっても。なおのようなへっぽこ「見習い」であれば、なおさら)

ということを思い知らされる出来事がありまして・・・

なおのような、へっぽこな『源氏』研究者「見習い」が、『源氏』愛好家の皆さんに発信出来る、Junk Stageというありがたい場で、改めてなにが出来るのだろう・・・

とぐるぐる考えていたら、発熱しました

今は、頭が朦朧として、上手く考えがまとまらないのですが、『源氏』研究者(見習い中)が悩んでることについて、私たちが作家の方達とどのように異なる立場にいるのか、何故しばしば、愛好家の方達が求めている「情報」を提供出来ないのか、ということを一度、正面から取り上げてみたいと思っています。

来月もよろしくお願いいたします。

07:08 | rakko | 『源氏』研究者(見習い中)が悩んでること~予告編 はコメントを受け付けていません
2013/06/30

こんにちは、諒です。

前回、タケミカヅチの「あぐら」の話を書いて、もう少し詳しく続きを…と思っているのですが、例によって余裕のない(自滅)毎日を送っているために、なかなか調査が進みません。

そこで、今回は「あぐら」の項を書くために参考にした本から、面白いなーと思ったことを、ひとつ。

日本人の坐り方を、通史的に取り扱った著作のひとつに、矢田部英正『日本人の坐り方』(2011.2)という集英社新書があります。坐り方やそれに対する認識は、時代によって異なりますが(例えば、現在の正座が公において「正しい」坐り方だと認められるようになったのは、江戸時代以降のことと言われています)、著者は、昔の日本人のそれを、絵巻や図像、仏像、写真などから収集し、身体技法の問題として捉えつつ、考察しています。本書に特徴的だと思われるのは、坐り方における関節の使い方が諸所に示されていることです。絵巻などを観ていると時々、こんな曲がり方無理でしょう!と思われるような格好をしている人物や、こんな恰好で坐っているのに笑っていられないよ!と突っ込みたくなるような人物が描かれていたりします。足を広げ足裏を向かい合わせにしている坐像とか、中腰で主人を待って談笑している男たちの画とかです。

これを、現代人の感覚だと、ただ画家の技量の問題と考えがちなところですが、著者は古い写真から、同じような格好の人物を探してきて、習慣による身体技能の問題、即ち股や足首の関節が習慣によって非常に柔軟になり、我々からすると無理のような姿勢も可能であったことを証拠付けるのです。身体技能が坐り方とどう関わるのか、写真の坐り方のどこがポイントか、わかりやすく説明されていて、面白いです。新書で読みやすいので、読書にもおススメの一冊です。

10:16 | rakko | 「あぐら」について(一服) はコメントを受け付けていません
2013/06/29

こんにちは、タモンです。

 

最近、北欧のミステリーにはまっています。

現在は『特捜部Q』シリーズに激ハマリです。思えば『ミレニアム』も面白くて映画も観に息ました。

今度、『湿地』や『背後の足音』なども買おうと思います。

 

ミステリーの手法を論文に活かせないかなあ…、というのが最近の課題です(*^。^*)

今書いている論文に『特捜部Q』から影響を受けた部分がでてくるかもです。

 

今日は、北欧のミステリーの傾向と分析……、ではなく「袴」について書こうと思います(^ヘ^)v

 

能には、仕舞(しまい)や舞囃子(まいばやし)などの作品の一部を舞う形式があります。

その際、「装束(衣裳)」ではなく「袴」を着用します。

「装束」よりも「袴」のほうが、身体の動きがはっきりするので、能楽師の実力があらわれるとも云われます。

袴の立ち姿が美しいと、惚れ惚れしてしまいます(*^_^*)

 

今年、タモンは「袴」を買いました!!!!

仕舞の発表会のためです。

鬼女が激しい動きをするので、袴を買う必要に迫られました(>_<)

来年も袴を着てカッコよく舞いたいと思います!

 

平安時代の貴族は、男性・女性ともに「袴」を着ていました。

もともと、「裳(も)」と呼ばれる腰にまきつけた布が発達して、「袴」になったと考えられているようです。「袴」の語源が「はく裳」が訛ったものである、という説があるようです。

 

夏目漱石『坊ちゃん』の主人公・坊ちゃんが袴を着ているイメージがあります。

現在の男性が袴を着用することは……、伝統芸能、弓道、武道、神主といった神社関係者でないとなかなかないかもしれません。

 

女性だと、神社で巫女さんのアルバイトをするか、大学の卒業式で袴を着る機会があるのかな、と思います。

 

大学の卒業式で袴を着る慣習って、明治時代にできたようです。女学生が自転車で通勤するため、着流しでは無理なので袴を着るようになったといいます……。俗説なのですが、たしかにマンガ『はいからさんが通る』(大和和紀)で主人公の女学生が袴姿で自転車に乗っていたような…(ドラマ版だったかも)。

 

武家政権、つまり鎌倉時代以降、より身近なものとして袴が着られるようになりました。公家の袴と武家の袴では仕立てが異なっていて、武家用のほうがより活動的につくられています。絵巻などで描かれているズボン・モンペのようなものが「小袴」とよばれる武家用の袴です。

 

室町時代になると、武家の正装として、袴と裃の組み合わせが登場します。

 

江戸時代になると、袴が長袴になります。裾を引きずるタイプのものです。

両肩を強調するような裃、よく時代劇で大名役が着用している裃は、江戸時代になってから普及しました。室町時代は、まだ肩パットのような裃が浸透していなかったみたいです。

 

能楽師が仕舞で袴を着用し始めたのはいつからなのか……。

江戸時代からだろうな……、と予測はしています。

室町時代末期に、富裕層(大名や貴族など)に仕舞の稽古をすることが広まりはじめたし、

江戸幕府の式楽と公認されてから、武家の正装に倣って(?)袴を着るようになったと、

推理しています。

 

推理……!!

どうでもいいけど、

今度wowowでニューヨークを舞台にホームズ(男)とワトソン(女)が活躍するドラマが始まるそうですね!wowowに加入していないので、レンタルを待つしかないが……!!観たい!!

 

えーっと、ここでまとめると

男性の場合、貴族・武家ともに袴を着用していた。

現在の袴は武家の袴の流れをくむ。

武家も袴を正装とした。

 

女性の袴は、貴族が着用していた。

明治時代以降、女学生が袴を着るようになって一般に(?)普及した。

(本当に普及したのは第二次世界大戦後かも)

 

本当にかんたんにまとめてみました。

備忘録には……なるかも。

それでは、また。

 

 

 

 

05:13 | rakko | 北欧のミステリーに心奪われているタモンが、「袴」について簡単にまとめました。 はコメントを受け付けていません
2013/05/31

こんにちは、タモンです。

今回は「足袋」について、少しまとめて見ようと思います。備忘録的な感じです。

私たちの日常生活で足袋を履く機会がたくさんある人は、現代では少なくなっているかもしれません。ただ、職業でいえば鳶職や大工さんなら地下足袋を履くし、古典芸能に関わる芸能人(能楽師・歌舞伎役者・噺家など)も足袋を履きますね。茶道や日本舞踊などの和物のお稽古事をやられている方は、足袋が身近かもしれません。

タモンも仕舞の稽古や発表会の時くらいだもんなぁ……。

 

平安時代の貴族たちが履いていたのが「襪(しとうず)」です。

デザイン的に、韓国ドラマの王朝物「トンイ」の女官や王族たちが履いているものに似ています(白足袋がゆったりな感じ)。

語源はおそらく「したぐつ」の訛りだろう、と考えられています。束帯(宮中における男性の装束)の時などに、沓(くつ)の下に用いる布製のはきもので、足袋のような指股は「ありません」(←これが特徴)。見た目は靴下ですが、足首の部分は紐で結びます。平安時代に礼服に錦製の襪、朝服に白襪を用いると定められました。基本は貴族階級のみに許された履物で、身分を超えて広がることはなかったようです。ただし、室町時代、江戸時代の貴族たちは足袋を履くようになったそうです。この頃になると、大多数の貴族の生活は苦しいものでしたから、正装とされていた錦の襪が実際のところどの程度用いられていたのかははっきりわかりません。

 

「足袋」は「単皮」とも書きました。

これは元来足袋は皮(革)でつくられたところから、「単皮」の字をあてたと推測されています(『和名抄』に「単皮」の字が見られる)。そのほかの語源説に、「旅沓」(たびぐつ)の略で「たび」になったという説、足袋の形を鼻に見立て、両足そろうと4つの鼻に見えるために“多鼻(たび)”と呼ばれるようになったという説や、鹿皮の袋を履いて旅に出たので、その履物を“たび”という言葉が生まれたという説などです。

 

革の足袋は、はじめは戦場や旅など野外で武家を中心として用いられました。ただし、足袋は非日常の履き物でありましたので、武家の正装・日常の格好も「素足」にすべきだ、という考えは室町時代中期まであったようです。足利将軍義教の肖像画も素足の姿で描かれています。もう一歩踏み込んでいえば、この頃の武士は素足文化で、足袋を履いて人前に出るのは無礼と思う感覚があったのかも……。

 

この皮足袋の名残が狂言の足袋にあると云われています。

狂言師の足袋は、ひよこ色みたいな淡い黄色、もしくは薄茶色の縞が入った縞模様の足袋です。能楽師は白です。

色の染められていない皮足袋を狂言師は長く用いていたので、木綿になってからも色付きの足袋を履いていたそうです。

 

応仁の乱がおこると、武準戦闘服である足袋つきの姿が次第に武士の正装として登場するようになります。戦国時代になると、南蛮産の鹿皮が盛んに輸入されて武具に用いられるかたわらで、鹿皮の足袋が用いられます。これは防寒用にも大変役立ったようで、江戸時代初期にはホッカイロのような扱われ方で、庶民に愛好されました。

 

ちなみに、現在、足袋の原材料としてポピュラーな木綿(ポリエステルとか化学繊維の方が有名かも)ですが、これ平安時代末期~鎌倉時代初期に輸入品として伝来しとても貴重で、鎌倉時代中期~室町時代に大量に輸入されるようになりました。戦国時代になると、南蛮貿易が行われるようになって、人々に木綿が普及しましたが、木綿製の足袋は江戸時代まで登場しなかったようです。

鹿皮に代わって木綿製の足袋が登場するのは、鎖国がきっかけでした。輸入に頼っていた鹿皮が鎖国によって入ってこなくなったのです。その代替案として、木綿製の足袋(安上がりでもあったみたいです)が製造されるようになりました。あと、太平の世で皮足袋は人々の目には無骨なものと映ったのかもしれません。

 

あ、江戸初期には女性も足袋を履くようになります。

 

当時の武家には江戸時代以前と同じく足袋の使用に関する厳しい規定があったようで、足袋を用いることができるのは50歳以上の高齢者(←江戸時代では、です)で、10月1日から2月20日の間とされ、病気等で足袋を用いるとしても「足袋御免」と呼ばれる主君の許可を得なければならないという決まりが『宗五大雙紙』に記されています。この決まりは1862年(文久2)という明治維新直前まであったそうですが、実態は有名無実化していたのではないか(庶民は防寒用で足袋を履いていたので)と勘ぐってしまうところです。武士の精神として、素足が基本だ、という考えはこの頃まであったのでしょうね。

 

江戸時代の芸能といえば歌舞伎。現在だと足袋は白が一般的です。歌舞伎はさまざまな色・形の足袋が用いられます。江戸のイケメン「助六」は、黒紋付に真っ赤な襦袢、黄色の足袋を履いている姿の絵があります。

 

明治維新以後は西洋の文化が輸入されたこともあって、靴の下に靴下がはかれることが一般的になりました。それとともに、皮足袋よりも木綿足袋のほうが靴に履きやすいこともあって、木綿足袋が大多数を占めるようになります。

 

以上、簡単に足袋の歴史をまとめてみました。

今度、歌舞伎を見に行ったとき、足元を見てみようと思います。どんな江戸の粋が表現されているのかな。

 

06:45 | rakko | 足袋の歴史をかんたんに振りかえってみました はコメントを受け付けていません
2013/05/31

毎度月末更新になってしまい申し訳ありません。なおです。

突然ですが、皆さんは地図に強いですか?

なおは・・・、ものすごく弱いです。新しい場所に一発で行けることは、ほぼ皆無。方向音痴でもあるので、デパ地下などでは自分がどこにいるのか、すぐ分からなくなります。

大きな建物など、目印を頼って歩くので、夜になると目印が見えなくなってテンパります。

文学は、舞台となる土地と切り離せないもの。ですから、日本文学研究をするのであれば、地図を読みこなし、登場人物たちがどのように移動したのか、正確に把握したいところです。

『源氏物語』の舞台となる京都は、ご存じの通り、碁盤の目のように通が整備されていますから、まだ何とかなるのですが・・・(とはいえ、なおは、清水寺は右、嵯峨野は左、みたいなかなり駄目な感覚で読んでいます・汗)

特にきちんと地理を把握すべきなのに、なおが苦手とするのが、登場人物たちの旅の行程です。女性たちが観音に願いを託した、石山詣・初瀬詣。光源氏が何度か参詣している住吉大社への道。物語続篇の舞台となる宇治と京都を徃復する道・・・・・・
「○○から、今はJR△線になっているのとほぼ重なる道を南下して・・・」などと、すらすら言える人を見ると、本当にすごいな、と思います。

なおの場合、どうしても必要な時は、現在の地図と歴史地図を並べて大混乱です。そうして、必死になって読み解いたルートも、またすぐ忘れてしまうという、救いようのない地図オンチ・・・

実際に歩いてみれば、少しは道を感覚的に理解出来るようになるかと思い、初瀬詣に行った玉鬘も歩いたと思われる(牛車を使わず歩いたのは異例のこと。より苦しい思いをすることで、大きな利益を得ようとしたのです)「山の辺の道」という奈良県の天理駅から桜井駅に至るまでの古道を歩いたこともあるのです。

が、真夏の奈良は暑すぎました。風景を楽しむどころではなく、ましてや道の両側になにがあるかを確認しながら歩くなどという余裕は全くなく、ただひたすらゴールを目指して体を引きずる・・・

作中人物たちの徒歩詣(かちもうで・徒歩での参拝)のつらさだけは、理解できた気もしますが・・・

そんなわけで、今日もなおは、平安文学を読みながら、地図が必要になるのではないかとどきどきしてます。輪読演習では、地図が必要な箇所の担当にならないように、ひたすら願っています。登場人物には、なるたけ京都の屋敷に留まっていて欲しいものです・・・(それじゃあ、物語にならないか・・・)

もっとも地図は苦手だけれども、旅行は好きなのです。特に地図に強い人に付いていけばよい旅行は。(これだから地図が読めるようにならない・・・)熊野詣とか行ってみたいな。諒&タモンが付き合ってくれると良いのですが。

11:13 | rakko | 日本文学研究者(見習い中)は地図に強くなければいけない はコメントを受け付けていません
2013/04/30

こんにちは。諒です。

数週間前に、なお と話していたら、古代の日本人の坐り方の話が出てきました。平安時代の貴族の女性たちは、あの素敵な装束の下でどんな風に足を崩していたか、謎ですね。真剣な友人に対して、諒はてきとうに、「まあ、上代は普通、たて膝だから」と言ったら、「それは何を根拠にしているのか」と詰め寄られたのでした。詰問されたときはどきどきしましたが、まあ、それもそうだと思って、何か関連のあることを調べてみようと思ったのでした。

さて、これを書こうと思ったきっかけは、なお の話だったのですが、坐り方については私自身も気になっていたことがあります。記紀神話に、天孫降臨の先駆けとして、タケミカヅチという神が葦原中国(地上)を平定する話がありますが、この神が地上に降り立つ時の描写が『古事記』に以下のように見えます。

是を以て、此の二神、出雲国伊耶佐の小浜に降り到りて、十掬剣(とつかのつるぎ)を抜き、逆まに浪の穂に刺し立て、其の剣の前(さき)に趺み坐て(あぐみゐて)、其の大国主神を問ひて言ひしく、「天照大御神・高木神の命以て、問ひに使はせり。汝がうしはける葦原中国は、我が御子の知らさむ国と言依(ことよ)し賜ひき。故、汝が心は、奈可(いか)に」といひき

タケミカヅチは、天照大神をはじめとする、高天原の神々の要請を受けて、天鳥船神(あめのとりふねのかみ)と共に、出雲国伊耶佐(現在の島根県稲佐浜。出雲大社の西に位置する海岸)に降り立ちます。そうして葦原中国の神、大国主神に、国を天孫に譲り渡すよう申し渡します。この時、タケミカヅチは剣の先端に「趺坐」していました。

これと同様の内容は『日本書紀』にも見え、「其の鋒端に踞みて」(神代紀第九段正文)と、より具体的に描写されています。『古事記』の「趺」も『日本書紀』の「踞」も、一般的にこの場面では「あぐむ」と訓じられています。つまり、「あぐら」です。タケミカヅチは、剣の先端に「あぐら」を組んで坐ったというのですね。

この神が剣の神であることは、以前鍛冶屋の話で触れたかと思います。剣の神なので、刃の先端に顕れたのです。それはそれとして、何故「あぐら」なのか、気になるところです。

…それで、「あぐら」について書こうとしていたのですが、現在思いのほか忙しく、肝心な部分は次回にさせて下さい。尻切れトンボでごめんなさい。

11:10 | rakko | 「あぐら」について はコメントを受け付けていません
2013/04/30

新学期の忙しさに追い立てられていたら、また月末になってしまいました。なおです。

先月、タモンが文系院生の整理術を話題にしていたので、なおも「整理術」について書いてみたいと思います。

タイトルは、あくまで日本文学研究者(見習い中)「と」整理術で、日本文学研究者(見習い中)「の」整理術、ではありません・・・

つまり、なおには、紹介できるほどの「整理術」がないばかりか、日々、部屋に埋もれた本と資料を探しています(そうして、貴重な勉強時間が削られる・・・涙)。良い方法があれば、是非教えていただきたいです。

とはいえ、「整理術」を色々試してはみているのです。 試してはいるのですが、片付かない。片付かないどころか、日々、本と資料は増え続け、部屋を埋め尽くしてゆく・・・ひどいと雪崩が起こる(汗)

なおが片付けが下手なせい、というのはもちろんなのですが、大きな理由として、「捨てられない」という事情があります。

私たちの仕事上、「断捨離」とか、 「ときめかない」本は捨てるとか、そういうわけにはいかないのです。

論文や発表では、「研究史のまとめ」を求められることもしばしばあるので、自分が関わっている分野の先行研究は出来るだけ手許に置いておきたいところです。

なおは、自分の論旨を考えている時に、「ときめかない」先行研究論文をついうっちゃってしまい、いざ先行研究に言及する際に、探しまくる、最悪もう一度図書館にコピーしに行く、などという目によく遭っています(自業自得)。

「ときめかない」文献を二度目にコピーする時の敗北感といったら!(自業自得ですが・・・)

本当に、「ときめかない」文献を片っ端から「断捨離」出来たら、部屋も心もすっきりするでしょうね(遠い目)。

自室で、文献を探すという非効率を改善しようと、もう何年もトライ&エラーを繰り返しています。「整理術」の本も買ってしまったり(そしてまた本が増える・・・) だいたい「整理術」の本には、先ず真っ先に、読まなくなった本や書類は処分すべし、と書いてあります。それだけ、スペースを取り、しかも部屋にごちゃごちゃした印象を与えるのが、本と書類なんでしょうね。嗚呼。

しかし、本と資料をたくさん手許に置いておかなければならない文系の院生でも美しく効率的に暮らしている人はもちろんいます。そういう方々に共通しているのは、

①デジタル化を上手に行っている

資料をスキャナに取り込んでPDFで管理したり、自作の蔵書目録を作って、どこに何があるか分かるようにしたり。小さな自分専用の図書館を作る感覚。

②家での勉強に固執しない(図書館や研究室の活用)

書籍の購入は、基本的な文献に留めて、毎日図書館で勉強するという方も。

ということでしょうか。

なおは、ネット上で公開されている論文を読む時には、プリントアウトしないと読みにくい!!という、キンドルとか絶対に使えない人種なので、①はなかなか難しいのです。でも、部屋の中で資料を探し回る手間を考えたら、PDFファイルを読むときにプリントアウトした方が手間は少ないかも・・・という気も。 ②は妙案なのですが(生活のリズムも整うしね)、急に「あの資料が見たい!」という衝動にかられた時(たいてい夜中の0時を廻っている)に不便です。学問は夜に深まるので(正確には「深まる場合もあるので」)、これはちょっと困ったことです。

結局、研究上に必要な本や資料以外を処分するしかなさそうです。残りのゴールデンウィークで多少改善出来ると良いのですが・・・

文系研究者で、片付けられない人、という極めて限られた人にしか興味ない話題で(しかも全く役に立たない)失礼しました。万が一読んでくださった方が、万々が一文系研究者とお付き合いすることになって、その人のお部屋が・・・・・・という状態でしたら、「文系研究者に断捨離はムリだもんね」と、あたたかい目で見守ってあげてください。

ちなみに、タモンも諒も、特別に片付けが得意なタイプ、ではないように見受けられますが、「なおが断然ひどい」という点では、3人の意見が一致するのではないかと思っています。

もう一つ、どうでも良い情報ですが、「らっこの会」のバーナーは、なおの本棚の一部です。もちろん、実物より美しく見えるよう、かなりの演出が施されています。

07:42 | rakko | 日本文学研究者(見習い中)と整理術 はコメントを受け付けていません
2013/03/31

桜の樹の下には屍体が埋まっている!

これは信じていいことなんだよ。何故って、桜の花があんなにも見事に咲くなんて信じられないことじゃないか。俺はあの美しさが信じられないので、この二三日不安だった。しかしいま、やっとわかるときが来た。桜の樹の下には屍体が埋まっている。これは信じていいことだ。

(梶井基次郎『桜の樹の下には』冒頭より)

 

こんにちは、タモンです。

初めてこの作品を読んだのは中学生だったと思います。授業で取りあげられたような、違うような……。そのあたりの記憶が曖昧です。桜の花が薄紅色なのは人間の血を吸っているからなんだ!と知った瞬間は強烈だったなぁ。桜と死が結びついた体験でした。

坂口安吾『桜の森の満開の下』を読んだのは高校生の時だったような気がします。「桜の花の下から人間を取り去ると怖ろしい景色になります」という冒頭から、全体を漠然とした不安が彩っていました。初めて読んだ時は、安吾が基次郎のオマージュとしてこの文章を書いたことに気がつかなかったです。

 

現在だと桜はソメイヨシノがポピュラーになりましたが、この品種は明治時代に品種改良されたものです。和歌・物語などの「古典」で描かれる桜はソメイヨシノではなかったのですね。古典の桜は山桜とする説があります。「山桜」が具体的にどのようなものだったのか検証の余地があると思われます。

 

今回、在原業平の和歌をご紹介したいと思います。

詞書「堀河大臣の四十の賀、九条の家にてしける時によめる」(【訳】堀河の太政大臣(藤原基経)の四十の賀が、その九条の邸で催された時に詠んだ歌)。

石川啄木風に改行してみます。

 

桜花

散りかひくもれ

老いらくの

来むと言ふなる

道まがふがに

(『古今和歌集』賀歌・349番歌)

 

【訳】

桜の花よ、散り乱れて空を曇らせよ。老齢がやってくると人々がいう道が、花で隠されてわからなくなるように。(新全集に拠る)

 

業平の桜の歌といえば、

 

世の中に

絶えて桜の

なかりせば

春の心はのどけからまし

(『古今和歌集』春上・53番歌)

 

が知られています。

桜の花をみれば嬉しくなり、散るさまを見るともの悲しい気持ちになるので、春に桜さえなければ私の心をざわつかせることはないのに……。という思いを詠んだ歌です。

 

桜の存在が人の心を波立たせるのだ、とこの歌を詠んで思いました。

初めて詠んだとき、私の想像はもちろんソメイヨシノでした。この歌のイメージとソメイヨシノはピッタリなのですが、平安時代の人々はどんな「桜」を見つめていたんでしょうね。気になるところです。

 

さて、「桜花…」の歌ですが、この歌は賀歌です。つまりお祝いの歌。

めでたい歌なわけで、本来ならば、最初に言った基次郎や安吾のイメージとリンクすることがないです。

が、タモンは、初めてこの歌を詠んだとき挽歌だと思い込んでしまったんです。

高校の便覧だったと思います。

桜の花片が目の前を「散りかひくも」るほど埋め尽くしていて、死出の道行を阻んでいる画が浮かびました。あの時は「老いらく」の意味がよくわからなかったからでしょう。

それにしても「散りかひくもれ」というたたみかける表現が好きです。

大切な人の死を受け止めきれない者が、桜を見ながら、その人の魂が冥界へ行ってしまうのを桜よ止めておくれと願っているような感じだったのだと想像していました。

 

「老い」が向こうの道からやってくるという考えは面白いと思います。老年というものが人を老いさせるという俗信があったようです。

季節の「秋」が空か山の中の道を通って訪れるという歌もあります。

この歌は、「老い」が訪れる道を桜の花で覆い尽くしてくれという願い、つまり年を取らずいつまでも元気でいてくださいという願いを詠ったものです。

 

老いと死は近しいものといえばいえるのですが、歌の意図は私が想像した内容と真逆でした……。

今から思えば、基次郎や安吾を読んでたり、桜は儚いもの、という先入観からだったんだなぁ、と分析します。「サクラチル」っていう言葉は知っていましたしね。

オチというオチがあるわけではないのですが、

タモンのなかで桜は滅びの感覚と結びついているのだなあと改めて思った次第です。

 

牡丹や桃の花が好きというのと、桜が好きというのはちょっと違う気がします。

桜は花そのものを愛でるというより、

その背後にある世界が愛されているような気がするんです。

10:08 | rakko | 桜の樹の下には屍体が埋まっている!by梶井基次郎 はコメントを受け付けていません
2013/03/26

こんにちは。タモンです。

花粉症がつらいです。薬を飲んでもなかなか治らないです……。

最近、夜寝るときと毎朝目覚めるときが大変です。寝るときは鼻とせきがつらくて、目覚めるときは目が開けられません。花粉症がひどいと、咳が止まらなくなります。最寄りの耳鼻咽喉科から薬をもらっても、全然良くならないし!せめて咳だけでも止めたいって言ってんのに、もらった薬は効果なしです。鼻炎の方も、鼻水は止まるけど鼻呼吸ができるほどではない。もう一回別の病院に行こうかな。

さらに薬を飲み続けているせいか、全然ダルさがとれません。だからといって、体調不良の原因が花粉症と周りに触れ回るのは、なんか締まりがないわけです。

このまま花粉症について書きたいくらいなのですが、これくらいにして、

今回と次回は、ピンチヒッターのため二回連続でタモンです。

今回は、本と書類の整理についてお話したいです。

私は整理が大の苦手です。

不器用な私の整理方法なんて、誰が知りたいんだ!?とも思います。

整理方法を紹介するのではなく、あくまでも自分の整理のための記事ですね。

 

ある時、尊敬する先生が「私は研究者に向いていない」とタモンに言ったことがありました。理由は「整理ができないから」だそうです。研究者に必要な資質のひとつとして、大量の情報をいかに整理するかが挙げられると先生は言っていました。その先生はすごい人なのに、まったく整理ができないって言ってたから、自戒を込めたものだったんでしょうけど。その時から、整理の方法はタモンにとって永遠の課題となっています。

 

で、現在の私の部屋ですが、紙と本であふれかえっています。冬以降、忙しくて部屋が片付けられない。そしてゴチャゴチャした部屋を見ていると、片付ける意欲も失せるんですよね……。

 

整理が必要なものとして大きなものは、本棚と書類です!

本棚の整理については、

① 著者名順に並べる

② ジャンル別に並べる。

 

今②で落ち着いています。

最近、決断しました。

本の箱は捨てることにします。

専門書とか装幀がしっかりした本は、箱に収まっているのが多いです。それが捨てられなくて……。でも、基本的に整理が下手な人間はとって捨てないのは駄目ですね!本箱に本を毎回入れていれば良いのですが、それができない。結果、一冊の本に倍のスペースをとることになってしまうわけです。そこが駄目ポイント。

 

書類、論文の整理は、

① ファイルに入れる

A 金具で紙を押さえるタイプのファイルに入れる

B 袋が20枚のファイルに入れる

② ファイルボックスにジャンルごとに入れる。

③ 机の上に整理する小さな棚をつくる

 

今は②が多いです。

ジャンルごとに論文のコピーなどをファイルボックスじゃんじゃん入れます。

なおや諒はどうやってるんだろう。

諒は整理上手なので知りたいですね。なおは人が真似できないような整理術を編み出してそう。

 

論文で困ることは、大事なものをうっかり捨ててしまうことです。

捨てる技術や断捨離といった整理術(?)が流行していますけれど。論文やメモを、「もう使わない」と思って捨てて、あとで「必要だった!」と思うことがあります。その時の自己嫌悪たるや……すごいものがあります。その自己嫌悪を味わいたくなくて、捨てることが少なくなっていくわけですが…………、三月そろそろ限界です。

 

 

11:11 | rakko | 花粉と本と整理術…… はコメントを受け付けていません

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