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2013/09/17

地球の舳先から vol.289
キューバ編 vol.5

早朝、呼んでおいたタクシーに乗り、そそくさとハバナをあとにした。
この旅では、東部の、キューバ第二の都市サンティアゴ・デ・クーバと
グアンタナモ刑務所で有名な米軍基地の近くまで行くことを目的としていた。

空港へ向かうタクシーは、空港から来るときにつかまえた近代的タクシーとは違い
ボロボロだけれども綺麗に磨かれたクラシカルなアメ車。
この国では、日本のように勢い良く車のドアを閉めようものなら怒られる。
もしくは、ドアやノブが取れる。この車も、ドアは外側からしか開けられなかった。

当然クーラーなどない。朝のぬるい風は、車のスピードと相まって
ちょうどよい風当たりになり、暑気を逃がしてゆく。
シンプルな空港の殺風景なカウンターでとった朝食は選択肢がひとつしかなく
表面しか温まっていないパニーニを、チーズの塩気で流し込む。
まずくもないが、さして美味いわけももちろんない。

十分だった。
上を見ればキリがないし、選択肢が増えれば人の幸福度は下がる。
わたしは逆に、スーパーに豆腐が何十種類と並べられている光景を見ると、
なんだかいつも、異常な印象を受ける。

国内線のセキュリティは厳しく、5分10分とかけて緻密に検査される。
「アセトン持ってるか」と聞かれ、ネイルカラーを出したら「それだ」と言う。
てっきり欲しいのだろうと思ったら、返された。キューバも変わった、かもしれない。
心配した機体は新しく、少しほっとする。
眼下に見える山脈が、フィデルたちが昔ゲリラ戦を繰り広げたシエラ・マエストラだろうか。

空港に着く。おんぼろの車をホテルまで飛ばしていくタンクトップの運転手。
ホテルの前で執拗に客引きを繰り返す個人事業主(←揶揄です)たち。
しかし一歩街へ出れば月曜日の通勤と生活に追われる人々で埋め尽くされ、
非観光地の空気のなか、かつてバカルディ一家が住んでいた豪邸などを眺める。
それでも歩いていれば、ペンキを塗っていたおっちゃんが梯子の上から手を止めて
熱い視線を寄越し、目を合わせればウィンクと投げキッスがWで降ってくる。

ハバナよりもキューバっぽかった。かつて見たハバナや地方都市の朴訥さ。
サンティアゴへ来たはずのないわたしがそう思う、ということは、
やっぱり10年の間にハバナも変わった、ということなのだろう。


(ラムで有名なバカルディは実はキューバ創業。こちらが一家のかつての豪邸)

そうそう観光するものがないことに気づき、タクシーを飛ばして、
ユネスコの世界遺産になっている山の上の要塞へ。ようやく海が見れた。
家々が密集した小さな島が見え、海を見ながらビールとモヒートで水分補給。



帰りは、ほかの観光客を運んできたタクシーを待たねばならないのだが
これがなかなか来ない。
来たときは7ペソだったのに、10ペソと譲らないクラシックカーの兄ちゃんと
意地の張り合いをした挙句、警備員…といってもドアも窓もない丸太の掘っ立て小屋の
日陰を借りて、しばし待つことに決めた。暑い。アリの数をかぞえて過ごす。

30分待つと、「おい、バイクはどうだ、5ペソだぞ」とおっちゃんが呼びに来る。
タクシーではなく、用事があって荷物を運びに来たらしいバイクが、街へ戻るという。
わたしが今回の旅で、トラベラーとしてやるべきでないことをやらかしたとすれば、この時だろう。
どこぞの国では男のバイクに女1人で乗って拉致られて刺された女性が
自業自得と轟々に非難されていたが、この場合どちらかといえば交通安全上の問題。
山の上からの下り坂一本、原付、大味に舗装された道路事情―
このシチュエーションで心配すべきは、刺殺よりも100倍の可能性で転倒である。
いや、日本でだって、わたしは決して素足にショートパンツで原付に乗ったりはしない。

…が、ギンギンに照り付ける太陽を仰いで、わたしは背に腹をかえた。
ヘルメットをかぶせられ、バイクにまたがると、「絶対安全運転で!ゆっくり!」
と、ぎゃんぎゃん注文をつける。
瞬間、警備のおっちゃんとタクシーの兄ちゃんがびっくりして振り返った。
ええ、さっきからアナタ方が盛り上がっていた、わたしの年齢当てクイズとか
(どうも日本人はだいたいマイナス10歳くらいに見えるらしい)
その他卑猥(といっても下ネタレベル)なスペイン語はほぼすべて理解してましたから…。

「ア~ディ~オ~~ス~~」
と彼らに別れを告げ、またうしろから文句をつけながら
自転車並みのスピードに下げさせて、それでもほとんど目をつぶって下界へ降りた。
ホテルへ帰ってから、一応、「たった5ドルと安全を天秤にかけてはいけない」と
あらためて一人反省会をした。

つづく

09:00 | yuu | ■サンティアゴ・デ・クーバへ はコメントを受け付けていません
2013/09/13

地球の舳先から vol.288
キューバ編 vol.4

30時間近い移動時間で疲れていたのにもかかわらず、
どうも東回りが合わない体質で2時間ほどしか眠れなかった。
この日は、観光。
東京タワーの近くに住んでいたら東京タワーに上ったりしようと
思わないのと同じか、10年前も観光はほとんどしなかった。

ハバナの市街中心部は、海岸線沿いにビエハ(旧市街)、セントロ(中央部)、ベダード(新市街)と中心部が大きく3つのブロックに分かれている。
ビエハには博物館や大型ホテルが立ち並び、コロニアルな
宮殿調の古い建物が続くいわゆる一大観光地。
ベダードは高級住宅街や高級ホテル、大使館、ハバナ大学などがあり、
その中間地点に、住宅街と生活の場であるセントロ地区がある。
だいたい、留学生はベダード地区のそれなり以上の家に下宿をとって、
ビエハへ行くことは(観光以外の用途がなく)あまりなかったりする。
しかし誰しもが一度は通る道。目印もわかりやすく、大通りも決まっていて歩きやすい。


名物の対岸の要塞を眺め…


釣りをしている人に戦利品の魚を自慢され…


政府系の施設の壁には、国民的人気のある革命家3名


ホワイトハウスを真似て作った(勿論国交断絶する前)というカピトリオは旧国会議事堂


(ある意味での)スーパーカーを眺めていたら「写真を撮れ」と何十ポーズも要求され


土産物屋の主役は、いまでもチェ・ゲバラ


昼時になれば広場には歌い手と楽器の演奏者たちが集いカーニバルが始まる


相変わらず、子どもの多い国で(80歳でも恋愛は現役)


50年代のポンコツのアメ車に溢れ


革命博物館にもはじめて行った(イラストの4人が、キューバの4大外敵らしい…苦笑)


フィデル・カストロらが上陸した船「グランマ号」が展示してあるが
(写真中央のガラスケースの中)、外気との温度差による大量の水滴でまるで見えない

…。

10年という歳月は、実はたいした時間ではないのかもしれない。
そう思うほどに、ぜんぜん変わっていなかった。
時間が止まっているようで、少し驚く。

変わったことといえば…


革命広場(社会主義らしく、大きな町には国民が集う大広場がかならずある。
この革命広場には何万人もが集まる)のオブジェが、チェ・ゲバラだけだったのが
国民に人気のカミーロ・シエンフエゴスのものも追加になっていたことと


実質、石油の優遇でキューバ国家を支えているベネズエラの国旗と
チャべス大統領の写真がそこかしこに溢れていたことだった
チャべスが死んだいま、キューバがどうなっていくのかわからないが
ソ連という後ろ盾を失ってベネズエラに頼ったキューバの逞しさは、そう簡単にかわらないだろう

「10年ひと昔」という言葉は、日本語なのかもしれない、と思った。
生きる国が違えば、体感のスピードも違う。

08:00 | yuu | ■ハバナ市街を観光にまわる はコメントを受け付けていません
2013/09/04

地球の舳先から vol.287
キューバ編 vol.3

せっかくなので、最初くらいはとミーハーなチョイスをした。
初日の宿泊は、かつてヘミングウェイが定宿にしていたホテル「アンボス・ムンドス」。
かつての彼の部屋は小さいながら展示スペースにもなっている。
が、なにせ古いので空気の循環が悪く、クーラーの効きも悪く湿度がやたら高い。
視界のなかに1匹の蚊を認めると、わたしはスーツケースから蚊取り線香を起動し
お札を何枚かポケットにねじ込んで、手ぶらで外へ出る。

別に、蚊の断末魔を待ちたいわけではない。
長時間の移動で疲れてはいたが、ライブハウスへ向かった。22時。
ハバナを代表する、「カサ・デ・ラ・ムシカ」。
キューバ人アーティストにとってここで演奏することは夢…なんだとか。
ここへ来たらキューバへ来たことを実感するだろう、と思ったのだが
雨のあとの水はけの悪いセントロ地域を歩いているとそれだけで昔にかえったよう。

とはいえ、10年前のわたしは、ここへ来たことは1度しかない。
当時のわたしは、キューバの音楽にほとんど興味がなかった。
今だって、片手で数えるくらいのアーティストしか知らないけれど。

そんなわたしでも知っているアーティスト
「Pupy y los que son, son」がこの日の出演だった。
意外なる大物にちょっと財布の中身を心配する。
…歩いて帰れば済むだけだ。
深夜に一人で歩いて?!と思われるかもしれないが、
土曜日の夜は、暑苦しいほどの人並みでごった返している。

エントランスで請求されたのはたった10CUC(約1000円)。
前座の演奏やダンスパフォーマンスが行われ、開場から2時間後に
主演が登場する頃にはみんな飲んで踊ってフロアはあったまっている。
わたしはサルサは踊れないし、音楽がきければそれでよいのだが
ひとりで静かに座るスペースなどあるわけもない。

小銭でモヒートを買うと、間髪いれずに近くで「こっちにどうぞ!」と囁かれた。
ハバナクラブのボトルを入れないと予約できない、テーブル席の椅子が引かれる。
(ボトルを入れるのは吝かではないがラム酒を一人でひと瓶飲む自信はない)

ここへ来たら、ひとりで気まずい思いをすることは100%ないが、
そのかわり、ひとりでいたいという無駄な願望も捨てることである。

男ばかり、4人。わたしは、ふむふむと人間観察をしながら、アタリをつける。
全員、キューバ人で間違いない。
キューバ人なのにしかもボトルまで入れてこんなところにいるってことは、
外貨を稼ぐ観光客相手の商売。
ルックスも悪くない。それに、身のこなし。
「みんな、サルサの先生?」
ビンゴ。なら安心。もっとも、日本人が転がしやすいタイプで…(以下自粛

それから2時間ばかり、彼らプロ集団のルエダ(団体で踊るもの)を見物したり、
彼らがそこかしこで外国人に「サルサダンスレッスン」の営業をかけるのを見物したり、
しかし営業目的ばかりではなくやたらと単純にはしゃいでいるのを見物しながら、
かわるがわる
「きみがこの中で一番きれいだよ」
「結婚しよう。一緒に日本に帰ろう」
「どこに泊まってるの」
「あした何してるの」
「日本で黒人は働けるか」
「きみの家族は外国人と結婚するのは嫌がるか」
というお決まりの質問にうんとかいいえとか知るかとか言いながら
踊るのと口説くのに精一杯な彼らのかわりに、ハバナクラブをほとんど飲んだ。

たまに「キューバリブレをおごってくれ」と、たかられたりするが
「おごる」の単語がわからないガイジンのふりをしてすっとぼける。
文字通り、わたしのキューバ語の辞書におごるなんて単語はない。

…危ない橋を渡っているように聞こえるかもしれないが、普通である。
追っかけられることもないし、あったとしてもライブハウスの外には警官が待ち構えている。
(警官もおもしろがって助けてくれないことは大いにありそうだが)
せいぜい、帰り道を併走しながら口説き続けるだけだろう。
何を保障するわけにもいかないので、あくまでわたしの個人的感想と前置くが、
わたしは凶悪なキューバ人というのに出会ったことがない。
たいがい、うざいし、しつこいし、おバカだが、小悪党にすら出会ったことがない。

じゅうぶん音楽を溜め込んで、「じゃーね」と手を振って、外に出て、歩いて帰った。
ハバナの夜は長い。
あの頃のわたしが、愛したり憎んだりした場所だった。

つづく

09:00 | yuu | ■キューバの長い夜。 はコメントを受け付けていません
2013/08/30

地球の舳先から vol.286
キューバ編 vol.2

12時間のトロントへの直行便は長かった。
そこから3時間半、地図上でほぼ垂直に南下すると、NYを飛び越えてキューバへ着く。
夜の9時前とはいえ、同日でここまで移動できるのだから、随分便利になったものだ。

相変わらずの殺風景な、目的が達成されることだけを目指したような空港の作り。
空港職員は女性が多く、制服はおしりの真下までスリットが入ったマイクロミニ。
胸元のボタンは全部あけ(というかそれで一番キレイに襟元が見えるデザインなのだ)、
谷間の下にサングラスを引っさげた管理官がパスポートをチェックする。
ピンヒールに、どこで買うの?というようなド派手な柄ストッキング。

この国の風紀を憂ういわれなどわたしにはないのだが、ため息くらいは出る。
自分が男性だったら、別の類のため息が出る場面なのだろうが。
とかく、「どうなってんだ!」と叫びたいくらい破廉恥なのである。
が、この国にいると、暑さと、女を意識させられすぎて、だんだん脱いでいくことになる。

日本円から両替した現金を後生大事に仕舞うと、また別の破廉恥な係官がこちらを向いた。
「オフィシャルタクシー、30で」
市内までの交通手段がタクシーしかないのが痛いところである。
相場を教えてくれて、ありがとね、と思いつつ、彼女を無視して空港から出た。

外へ出て、一番最初に目が合ったタクシーのおっちゃんに
「20で」と、わたしはこの日はじめて、にっこりと笑いかけた。
そりゃもう、世界はワタシを中心に回ってます、的な、ふぜいで。
結局この国へ来たらそうなるんだけれども、のっけから女を売った自覚がじわじわくる。
おっちゃんは大変不満そうな表情で肩をすくめ、わたしの手からスーツケースを受け取った。

いまだ毎日戦略的に計画停電を行う国に電力の余剰があるわけもなく、
暗くなって外灯もすくない道をタクシーは飛ばしていく。
なにが見えなくとも、窓の外を見たくなるのは習性。
「恋人は元気か」
そう問われて、一瞬、ぽかんとしてから、苦笑した。

そりゃそう見えもするものだろう。
キューバ人は日本人と見れば口説いて口説いて口説きまくるし
わたしも何度、名前も知らない相手から「結婚してくれ」といわれたかわからない。
多くの旅行者が、現地のキューバ人と、キューバ滞在中に、なんらかの関係に陥る。
「スペイン語の上達のため」と割り切る人も、ヒモのように連れ歩き国内をずっと案内してもらっていた人もいた。
その多くが「バカンス」なわけなのだが、結婚してしまう人もいる。
(もちろん、キューバ人男性と日本人女性で、誠実に暮らすカップルだっているんだけれど
 「だれでもいい、国外に出たい」というだけのは多いし、社会主義で育ったキューバ人が日本で
 生計を立てる…いや、「労働」をするという時点ですら、高すぎるハードルが存在する)

10年前キューバへ向かうときも、手配をしてくれたキューバ専門旅行店の社長さんは
パスポートのわたしの顔写真に向かってため息混じりに
「お願いだから男連れて帰ってこないでね…」と言ったものだ。
当時18歳だったわたしはその意味を何ヶ月かかけてよく知り
以来、10年かけて大陸をまたぎ続けても、ガイコクでなんらかの関係に陥ったことは一度もない。

ぴったり30分。
風景を懐かしむ明るさもないまま、ホテルへ直行した。


※うわさのツーリストカード。旅行者はこのカードに入国と出国のスタンプを
 押してもらい、パスポートには記録が残らない。

08:00 | yuu | ■もはや、破廉恥としか… はコメントを受け付けていません
2013/08/26

地球の舳先から vol.285
キューバ編 vol.1

 

約10年ぶりにキューバへ行ってきた。
わたしの記憶のなかにある国とはまるで別物で、
「住むのと観光じゃ180度違う国」という印象をまた新たにした。

わたしがかつて住んだ家には、当時のわたしと同じくらいの
年の女の子がいて、毎日踊り狂っており、
しかし「音楽にはぜんぜん興味がなくて、体制とか社会に興味があって来た」
という彼女は「住むキューバ」のいろんなものにやられて絶句絶望し、
中南米方面の国外へ逃亡してみたり、キューバやキューバ人や国家を憎んだりしていて
ほんとうに、まるであの頃の自分を見ているようだった。

「でも音楽だけはすばらしいですね」と、こちらへ来てから
音楽と踊りに目覚めたという彼女は、
「今日踊りに行けるかなあ…」と激しい夕立の戸外を眺め
わたしも、舞踊団の廊下で毎日クラシックバレエしながら
結局最後はサルサテカ(ディスコみたいなもん)へ行っていたことも思い出した。

なんかしか、やっぱりこの国には、人を惹きつけるものがあるんだと思う。
惹きつけられきらなかったわたしでさえ、こうして20時間もかけて
10年の旅の最後に、と海を越えていったのだから。

一方、たくさんのものが、変わっていなさすぎて拍子抜けした。
「変化」を見に来るのが目的であったならば、
この国は10年そこらじゃ変わらないのかもしれなかった。

初日から、夜の2時までひとり徒歩で出歩いても危険の香りもせず
軽犯罪の予兆すらない。
朝から夜中まで、公園の四隅には警官が立っている。
しかしわたしは彼らが活躍したところを見たことがない。
これを「中米」と思ったら、きっとどこかほかのところで痛い目に遭うのだろう。

すれ違いざまにしきりに「きれいだね」と挨拶のように囁く現地人は
「ハポン、ハポン(Japon=Japan)」とわたしの国籍を正しく認識し、
北野映画大流行の昔は町を歩けば「アニキ」「ヤクザ」と言われたが、
「おしん」が流行っているらしい最近は、より厄介な方向に「日本人女性」が
誤解されているような気がしてならない。

あの頃は、ハバナ大学と、目と鼻の先にある下宿と、
セントロ地区の舞踊団を毎日毎日往復していたので
あらためて一通りの観光もしてきたし、
第二の都市である「サンティアゴ・デ・クーバ」へも行ってきた。

なんの障害もトラブルもない国で、米軍基地のふもとへ見学へ行った以外は
いつものような事前手配もしていなかったけれど(できなかったとも言う)
ふらふらと歩く旅も、久しぶりで、旅っていいなあ、とさえ思った。
帰ってきても感じるのは、ああ、なんか楽しかったなあ、ということで
アレ、でも、こんな国だっけ? という違和感も少し、感じている。

これから、長丁場を覚悟で、この10年ぶりのシリーズを綴っていきたいと思う。

つづく

冒頭の写真は、ハバナ市街地の海を挟んで対岸、カバーニャ要塞から。
右手の国旗が立っているのが名物のモロ要塞、左手が市街地。

08:07 | yuu | ■いざ、キューバへ! はコメントを受け付けていません
2013/07/23

地球の舳先から vol.284
キューバ準備編

「お盆休み、里帰りしていいですか」

転職した初日、エラい人にそう聞いた。
笑顔でひらひらと手を振られ、わたしは仮予約の航空券にGOをかけた。
ゆき先は、トロント経由、ハバナ。
10年間付き合ったパスポートの最初と最後はこの国、と決めていた。

ほとんど10年前、わたしがはじめて暮らした外国。
キューバ、難儀な国。

いまだ社会主義で、マイアミまで頑張れば泳げる距離の米国とは絶縁状態。
しかし東部にはキューバ革命前に永久租借を認めた米軍基地が置かれ
いまも世界一危ない(と米国が考える)テロリストが収容されている。

軍服を着た最高指導者は医療と教育を完全無償化し、配給制度を整備したものの
自給率は低く、ベネズエラの石油支援に頼りっぱなしで国が成り立っている(のか?)。
当然、働かない若者は増え続け、昼間から遊んでいる姿は首都の風物詩にすらなりつつある。
一方、世界中に3万人以上の医師を派遣している医療大国でもある。

テレビ、国営2チャンネル。(北野武、英雄。)
インターネット禁止、ようやく今年になって多少緩和。
国民の「平均」結婚回数、3~4回。

ソ連が崩壊しても、この国は生き延びた。
それが延命でしかなかったとしても、だ。

だから、「フィデル後」のキューバを見てみたい、と思った。
当時、炎天下で7時間も8時間も演説するフィデルを見ながら
10年後、その光景を見に来よう、と思った。
10年経ったが、「フィデル後」はまだ来ていない。
一説に600回超ともいわれるCIAによる暗殺計画をかわし続けた
策士かつ強運の持ち主は、今年、御年87歳を迎える。

手配をすすめながら、この国の遠さを改めて思った。
アクセスそのものは、至極便利になっている。
10年前は、太平洋を渡っていくならアメリカのどこかで1泊し、
さらにメキシコ経由でハバナ入りと、2日間は移動にかかった。
いまやトロント便で同日到着が可能だという。

入国には、ビザというか、ツーリストカードというものが必要なのだが
「申請書はウェブサイトからダウンロードしろ」という割に
領事館のページはずっと死んでおり、仕方なく代理店に代行を頼む。
意外とグルなんじゃないかと、勘繰ったりする。

新たなルールとして、保険に加入することが入国の条件となっていた。
当然だが米国資本の会社はNG。おかげさまで
「御社はアメリカ系の会社ですか」
「お客さまご質問の意味がわかりかねます」
「わたしはキューバという国へ行くんですが保険の加入が入国条件で
 しかしキューバという国はアメリカと国交断絶しているので
 米国系の会社では駄目なのです」
と、さも危ない国に行くかのような説明を保険会社のお姉さんにする羽目になる。

…やっぱり、遠い。
しかしここがわたしの原点であることも事実だった。
このコラムのタイトルになっている「地球の舳先から」というのも、
もともとは留学時代にわたしが送った私信を受け取った友人が
自分のWebサイトにコンテンツとして公開してくれたのだが
そのシリーズのために命名したものだった。

10年、旅をして、舳先から、ものを書き続けてきた。
おそらくは多くの人が選ばないであろう、旅のTIPSとしてはまるで
役に立たないことを、たぶんただ自分の五感を整理し直すために。
あの頃、キューバへ持ち込んだカメラには、まだフィルムを詰めていた。

いつもの行き先とは違う。
事前にものを調べるにも、日本から段取りを予約しておく事もほとんど困難だった。
身ひとつで、「行ってみる」しかない。
あの頃、1年住むつもりでよくわからない国に「行ってみた」わたしの
軽やかさは、どんな信条がなせるわざだったのだろう。

きっと、漠然と、「何か」を信じていたのだ。

遠くへ来たのは、わたし自身のほうなのかもしれなかった。

08:00 | yuu | ■キューバ里帰り計画に思う はコメントを受け付けていません
2013/07/15

地球の舳先から vol.283
タイ編 vol.4(最終回)

たった2泊のバンコク旅。
最終日、炎天下に疲れきってパタヤ行きをキャンセルし
まだ猛暑になる前に、と早朝の散歩へ出かけた。

写真を撮るためだけの、散歩。
旅に出ると、ついカメラを構えつづけ、自分の目よりも
ファインダーを通してばかり景色を見てしまいがちで勿体無いので
わたしは、観光をする時間と、写真を撮るために歩く時間、というのを
あえて分けることにしている。

まずはホテルから出て、とりあえず賑わっていそうな方向へ。
お祈りの国であるので、道端にはこういうものがたくさんある。

車道が急に坂になったので、のぼることにした。これは下に何かある。
見れた!電車!!

そのまま近づいて、駅へ。モダン。
なんとなく、電車なイメージのないタイだけど、地元の人がたくさん電車待ちしていた。
地図を持っていると、案内してやるという人が寄ってくる。ヤダ。

道路沿いを歩き、川の方向へ向かうことにした。
「行き止まりだ、車に乗せてやる」という人を無視する。ヤダヤダ。

バナナの木!これぞ南国。
季節柄なのか、国柄なのか、緑が多い。

川沿いには、外資の高級ホテルがガンガン立ち並んでるんだけど、
わき道を一歩入るとだいたいこんな光景。

そのままホテルで休憩。川沿いのテラス席、シャンパンはすぐに汗をかく。
こんな南国なのに、ホテルはチョコレートバーがありお土産が有名。

チョコレートを買ってしまったので、駅直結の電車で移動することに。
大型ショッピングセンターで買い物。狙いは、バス&アロマのTHANN。
あと、スーパーでお菓子とかラーメンとか、ばらまき系のお土産を確保。

徒歩とモノレールで、ぐるっとだいたい一周した。
ホテルへ帰って、プールサイドで昼寝する。
おおむね、のどかで良かった。わたしのバンコクのイメージは回復し、
これからもお世話になるであろう巨大ハブ空港スワンナプームに立ち寄った際は
こんどは少し街に出てみよう、と思ったのだった。

おしまい。

08:00 | yuu | ■炎天下散歩 はコメントを受け付けていません
2013/07/02

地球の舳先から vol.282
タイ編 vol.3(全4回)

なにはともあれ折角町に降りたのだから、観光である。
朝7時に今回はぴったりホテルへ来た迎えの車に乗り、
メークロン市場、別名「線路市場」へ向かう。
なんでも、電車の線路の上に人々が市場を広げ、
列車が近づいてくると超特急で店をしまうのが名物になっているという。

わたしのイメージした「バンコクの市場」の印象とはほど遠く
地元の人が集うのどかで田舎で素朴なその光景に心を癒され、
マンゴーなどを買い出して列車の到着を待つ。

どこからか警官が数名出てくるもののいつもの行事なので物々しくもなく
低速に速度を落として徐行する列車が近づくと人々は市場のひさしを仕舞い
ものをどける、の、だが…ギリギリすぎて、結構モノが轢かれている…。
これでいいのか。いや、いいのだろうな。
列車が通り過ぎるとまたばさばさと店の面積を拡大して営業再開。

次にもうひとつの市場、水上マーケットに向かう。
もう、いろいろな国で水上マーケットに行ったし何の期待もしていなかった。
のだが、…これが一番、わたしの中ではすばらしい体験だった。
水上マーケットへたどりつくまで、海抜(川なので水抜?)0メーターすれすれをゆく
小さなボートは、本当にここで生活している人々の行路のあいだをぬって行く。

倒れた木で作られたボートの停泊所。洗濯をする住人。門番の犬。
そしてまわりの色彩までをも変えるような、抜けるようなグリーンに生い茂った
草花に、炎天下が照り付ける。眩しい光に満ちた自然。

極度に人工的で対極のはずのディズニーランドの「It’s a small world」を、
なぜか思い出した。
ここもきっと、これでも手付かずの自然というわけではないのだろう。
しかし自然に左右されながら生きる、
たくましさよりも受容性を感じた。美しかった。

ふとゆく手が騒がしくなり、マーケットに着いた。
突如現れる、衣類や雑貨(?)の店。
一番奥には、川の上に建てるには大きすぎる土産物屋…

それでも商売っ気はほとんど感じられなかった。
押し売りというか、あまりしつこい民族でないのだろう。
京都の保津川で川くだりを終えた瞬間に小船で接近し
焼きイカなどを売りつけた人たちのほうがよほど「アジア的」だった。

ここでマンゴー、ライチなどのフルーツを買い、切ってもらってその場で食べる。
季節もいいし本当に美味しかった!
驚いたのはボートのおじさんが、きちんと手にビニール袋をかぶせて切ること、
そのビニール袋を毎回取り替えることだった。
衛生意識からそうしているのかどうかは、知らない。

こうして午前中のツアーを終え、軽食ということでラーメン屋に寄って
昼過ぎにはまたホテルへ帰ったのだった。
短期旅行者にとって、半日ツアーが充実しているのは結構嬉しい。

穏やかな光景に、わたしの「バンコクのトラウマ」も癒えつつあった。。

つづく

08:00 | yuu | ■朝の市場めぐりへ はコメントを受け付けていません
2013/06/24

地球の舳先から vol.281
タイ編 vol.2(全4回)

さて、わたしと母のバンコク旅の共通の目的
(というよりそのためだけに行ったに近い)
浦和レッズのアジアチャンピオンズリーグ。
かつて、韓国にもシドニーへも行った。
韓国と中国は常連なので、バンコクというのは新鮮。
(しかし決勝トーナメントに進めたらモロッコに行けた訳で非常に残念である)

お相手の、バンコク ムアントン・ユナイテッドも、
お世辞にも強豪とは言えなさそうである。
そんなわけで、大してサッカーの流行っていない国なんだろうとたかをくくっていた。

空港を出たバスから、高層ビルにドーーーーンと設置された
マンチェスター・ユナイテッドの壁面広告に圧倒される。
チェックインの後、コンビニでビールを買ったらこのとおり。
3種類買ったのだが、すべてがサッカーチーム(ないしリーグ)とタイアップしている。
そしてなんと、マンチェスターの選手写真には、日本人の香川選手が。

これは予想外のサッカー大好き国民である。(実は有名な話だったらしい)
で、あるということは、われわれはある種の危険と隣り合わせなのでは、
とも思ったのだが、ホテルに着いて2度びっくりした。
このような横断幕に出迎えられたのである。

よく、巨人軍の宮崎キャンプなどで「大歓迎」の様子を目にするのだが、
ここはあくまで、選手たちではなくわれわれサポーター(やファン)の泊まるホテル。
すごい。

なんというホスピタリティ、と感動したのもつかの間、
ムアントン・ユナイテッドが印刷した試合のチケットは
「URAWA RED DAIMONS」になっていた。。
「大門なのか、デーモンなのか、それが問題だ」とひとしきり議論になる。
浦和レッズは通称「赤い悪魔」なので、デーモンであれば許される・・・のか?

かくして日本から殺到(Jリーグチームのたかが1次リーグの海外遠征である事を考えれば、この表現は大げさすぎないと思う)したサポーターたちを乗せたバスはバンコクの鬼渋滞を加味して随分早く会場に到着し、
この集団をカモろうと、そのそばには出店が立ち並んだ。
この日はさぞや異例の売り上げだったに違いない。

わたしはひとしきり飲んだ後、スタジアムの中のフードコートで「ガッパオ」
を注文し、その激辛っぷりに試合前からノックアウトされる羽目になった。
そしてこの日は、特例としてアルコール類のスタンドへの持ち込みが
一切禁止されたのである!

もちろん良い事ばかりでもなかった。
負けなかったのに決勝トーナメント進出を逃したのはホームで韓国に勝てる
チームではなかったという現状の事実にすぎないので、それは仕方ないこと。
わたしがどうにも怒りがおさまらなかったのは、現地の子どもたちをこの試合に招待し
ユニフォームやグッズをプレゼント(貸し出し?)したのはいいが
その、型落ちユニフォームの胸に踊るのは「かつて」のスポンサーのロゴ。
そのロゴは、ラミネート加工された台紙で安全ピンでくっつけられ、見えないようにされていた。
そんなユニフォームを子どもたちに着せたのである。
大人の事情で。
なんて醜悪なのだろう、と心から思った。

スポーツは、純粋なキレイなものだけではなくて、
でも利権ビジネスがあるからこそ成立している面も勿論ある。
しかしやはり、許せない行為だと思った。
そんなことをするんなら、「好意ですよ」という顔なんかしなきゃいいのである。

1対0で破れたムアントンの選手たちは、試合後にアウェーのわたしたちのいる席に来て
タイ式の挨拶、両手を合わせて揃ってお辞儀をした。
仏教文化の日本人のわたしには、どうにも「拝まれた」気がして恐縮してしまう。

7000人が入ったサンダードームスタジアムには、ムアントンのサポーターからの
「浦和レッズ」コールが響いた。勝ったのに、決勝トーナメントに行けなくて申し訳ない・・・。

そんなこんなで、主目的を達成し、すっかり暑期直前のバンコクにバテて、
翌日のビーチ行きのツアーはキャンセルしたのだった。。。

つづく



 
 
 
 
 
 
09:02 | yuu | ■サッカー三昧のバンコク はコメントを受け付けていません
2013/06/15

地球の舳先から vol.280
タイ編 vol.1(全4回)

わたしはバンコクが嫌いである。
というか、いわゆる、バックパッカーの多いところが嫌いである。
別に、彼らのたくましさを妬いているわけでもなければ、
「みんなが行くようなところには行かないわ」という選民思想でもない。

危ないから嫌なのである。
穏やかな後進国や、民度の高い孤国を訪れた身には、
バンコクや、デリー、ニューヨーク、フィレンツェなどは
犯罪のデパートすぎて、まったく旅を楽しむどころでない。

ぼったくり当たり前のタクシーと戦うのも疲れるし、
ホームレスの人にお金をせびられてあれこれ難しい問題を考えるのも疲れるし、
第一、気をつけていないとスリに遭うとか、いったいどうなってんだ。

わたしのことをよく「危ない国に行くのが好きだ」と称する人がいるが、
わたしに言わせれば北朝鮮よりバンコクの方がよほど危ない。
アメリカや六本木で道を歩いていて死ぬ確率を考えてみたらいいと思う。
まだそんなに回ってはいないが、地球上でスリに遭ったのはイタリアだけだ。

そんなわけでトランジットで降りても空港の外には一歩も出ないバンコクに
この春、行かなくてはならない事情ができた。
浦和レッズである。
わたしが昔割と真面目にサポーターをしていた話は何度か書いたが
それを卒業した今も、海外遠征は旅行がてらに行くと決めている。
たいした成績を収めていなかったはずの浦和レッズは、結果論的タナボタにより、ACLというアジアで一番のチーム(国ではなく、チーム)を決める大会に出場を果たしていた。
1次リーグの最終戦の相手が、タイの「ムアントン・ユナイテッド」だった。
こうしてバンコクへ行く事になったのである。
しかも、イタリアでスられた、母と一緒に。

わたしは盤石の体制を(主に金の力で)築こうと、
浦和レッズのオフィシャルツアーに申し込んで空港と市内の間の足を確保し、
外出はすべてオプショナルツアーのホテルまで送迎してくれるものを予約した。
ええい、あのふざけたチャリタクシーになんて、絶対に乗ってたまるか。

そして夕方に到着したその日、ディナークルーズに出かけた。
が、バンコクの道路はありえないくらい混雑している。
どのくらいかというと、市内の中心部から、そう何キロも離れていない
船着き場まで2時間半かかるレベル。
すこし市内のはずれにあったために、ピックアップの最後だった我々のホテルには
送迎のバスはついぞやって来ず、ガイドさんがタクシーで迎えに来た。

事なきを得た我々は、船が出るまでテラスでビールを飲んだり優雅に過ごしたが
バス組は、途中でバスを放棄し、爆速で車の間をぬって二輪車タクシーで来たらしい。
やっぱり危なすぎる国タイ。

そうこうするうちにグランドパール号というクルーズ船がやってくる。
水兵さんの制服のみなさんが敬礼で出迎える。さすが軍隊の国タイ。
クルーズは、暑かったがぎりぎり外で食事をできる気候だったのでそうした。
ライトアップされた寺院が次々と現れ、入場するまででもなくちょっと見られれば
寺院はいいや、という身にはちょうどいいくらい。
タイ料理は種類も多く、野菜もあっておいしい。無色なのに激辛のイカがあった。
ただし、日本人向けに用意されたらしい寿司は不評。

帰りは渋滞も落ち着いていたので、用意されたシャトルバスで帰る。
この国で観光業をやることの難しさをいきなり垣間見たのだった。。

つづく


08:00 | yuu | ■何度目ものタイ、2度目の上陸。 はコメントを受け付けていません

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