地球の舳先から vol.259
岡山・山里 編 vol.2(全4回)
旅の準備で脱線し過ぎた。改めて岡山編を振り返りたいと思う。
JunkStageの面々で、百姓見習いの川口さんのお宅にお邪魔したのは先月頭。
岡山、倉敷を観光し(といってもスーパー銭湯と地ビール飲み比べ)、
山間の谷に入ったのはちょうどおやつの時間頃だった。
最寄りの駅(かつては歓楽街だったらしく、有人改札を期待していた
わたしはそのモダンな駅舎に若干の失望を覚えた)から約30分、
タクシーに揺られて、山を越え、谷間の集落へ着く。
川口さんと、奥さまが迎えてくれた。大勢で押し掛けてしまったゆえ、畳の客間だけでなく
急遽ご夫婦のお部屋をアレンジしてスペースを作ってくださったお部屋に通される。
なんだか、小さい時によく訪れた田舎のおばあちゃんの家のような雰囲気。
ここから、「食べるための壮絶な戦い」が始まった。
なにも、女7人+αで、食べ物を取り合った、という話ではない。
「畑から食卓まで」の、普段我々がスキップしているプロセスを体験するのだ。
まずは、「籾摺り」。くわしくは こちらの川口さんの記事をご参照願いたいが、乱暴に要約すると
「刈ったままの稲」を籾殻して、あのお馴染のむき身の姿にする作業である。
すりばちですって、もみがらを吹き飛ばす。
これを延々繰り返し、片手にほんのひと盛りの米がようやく出来上がる。
吹きすぎて飛んで行った米を拾う者、すりばちを押さえる役など、自然に自助精神が働く(笑)。
そのうち、某お嬢が「わたし、これ、ハマった」と言い始め、夜が更け真っ暗になってもまだ、外で籾摺りをしていた。
川口さんから、今夜の夕食のメニューが発表される。
・前菜:瀬戸内の海の幸のカルパッチョ/カボチャのマリネ ミント風味
・サラダ:小エビとカボチャ、サツマイモのマスタード和え/豆のサラダ、小麦入り
・茹で渡りガニ
・小エビとネブト唐揚げ(ネブトはこのあたりが産地の小さい魚)
・パスタ:アンチョビと間引き人参、大根のカペリーニ/渡りガニのトマトソースリングイネ
・セコンド:丸鶏の生姜煮、間引き菜と大根添え
・ドルチェ:カボチャと小豆のタルト
この、どこの格式高いイタリアンレストランか、と思うようなメニューを、
肉・魚類以外はすべて、川口さんの畑のものから頂いて作るのである。もちろん、収穫から。
それぞれ、「野菜班」「魚班」「火起こし班」に分かれ、野菜班は籠と鎌を手に畑へ。
実に色々なものが植えられている。稲から、豆類、野菜、ハーブ、枝豆や生姜まで。
そして、「間引き菜」といって、人参や大根を育てる間、間引きを兼ねてその若い菜っ葉を
食べるというのには驚いた。これがまたサイズ的にも、サラダにうってつけなのだ。
こうして収穫してきた野菜がこちら。
サラダのドレッシングは、自家製マスタードとヨーグルトを和える。
この発想もなかったのだが、オイリーになりがちなドレッシングを非常にヘルシーに
押さえられるし、酸味がパリっと効いて美味しいので、帰ってからも私の十八番となった。
台所では川口さんが黙々と魚をさばき、魚班がそれを刺身用に切ったり
揚げ物の下準備をしたりする。
とことんまでオーガニックな川口家は、揚げものもエキストラバージンオリーブオイル!
なんとも豪勢な話だが、洗い物をして思ったのだが、この油はほんとうにべたつかない。
川口家では、洗い物は基本的にお湯で、ときにミカン水を使うくらいのものなのだという。
外にはかまども設置されており、火起こし部隊が時間をかけてようやく火を起こした。
大きな寸胴で、鶏まるごとに豆やもち米、ぎんなんなどを詰めた蔘鷄湯を蒸す。
普通の家庭用オーブントースターの中ではパンが焼かれている。
この記事の冒頭写真のパンは、川口家でふつうのトースターで焼いたもの。驚き!
料理が好きという川口さんに「民宿でもやったらどうか」と提案してみたのだが、
「自分たちが生きてくのと、商売にするのじゃ全然違ってね~」との事。
そういえば川口さんは、「(プロの)農家」ではなくあくまで「百姓」という点にもこだわっていた。
ようやく、なにもないところから原材料(というか「畑」)が「料理」の形になって
見えてきた頃は、結構に疲れ切っていた(笑)。
しかし手をかけてみんなで作った料理の味は抜群である。
川口さんが贔屓にしているという芦屋のお店から取り寄せたワインも大変美味しく、
産地もあまりお目にかからないものも多く、どんどんワインが空いて行く(笑)。
また、日本酒も1升空けたのだが、どれも品質がいいのか、ちゃんぽんの割に悪酔いしない。
黙々と作業を続けていたので、「いまさら」ながら自己紹介が始まり、
川口さんの奥さまが、今回参加した女子3名の大学の先輩ということも判明し
また、以前は相当な僻地トラベラーだったということで大いに盛り上がった夜は更けていった。
お風呂を交代で使うのも、林間学校的。
こうして、「食べること」に時間のほぼすべてを使い、良い疲労で床についたのは
いつもよりずっと早い0時とすこし過ぎのことだった。
つづく
地球の舳先から vol.258
イスラエル(旅の準備)編
常に不安定で、今回大規模空爆が行われたガザ地区だけでなく
そこから離れた、首都機能を置くテルアビブで爆弾テロと思しき事件が起きたのが、
わたしのイスラエル行きが黄色信号から赤信号へと変わった瞬間だった。
自爆テロは止められないし、停戦を迎えたとしても政局と関係なく起こる。
代わりの行き先も、そう頭を働かせずに、短時間で決めた。
しかし、出発1ヶ月前の11月30日を、リミットと決めて
わたしはイスラエル行きのチケットをホールドした。
どうせ、ここまで来てしまったら、72時間前までキャンセルフィーは変わらない。
9割方、心の中でキャンセルを決めていたものの、
現地の旅行会社に連絡をしたのは、ずいぶん経ってからだった。
Shalomというヘブライ語にすら抵抗を持っていたのに、あたりまえにメールの冒頭に
状況と彼らの身の安全を案じる文章を連ねている自分に驚いた。
向こう側の対応は誠実極まりないものだった。
わたしが行こうとしている場所は「基本的に」、治安に問題はない。
しかし不安はもっともだし、こういう状況なので全額返金で対応する。
が、あと48時間以内に状況が落ち着くという説もあるので、もう少し待ってはどうか―
単純に、心が痛んだ。
彼だって、ひとりの人間として、イスラエル・パレスチナ関係に思うところだってあるだろう。
大口顧客でもないのに何度となく面倒なやりとりを重ねた日本人に「危ないから行きたくないっ!」とある日突然いわれても、「あなたがどんな決断をしてもそれを尊重します」と言う、いや、言わざるを得ない、現代イスラエルという場所で観光業を生業にする人間の立場。
意地や情で、判断能力を失ってはいけないのはわかっている。
しかし、彼のオフィスとこの手配に関わってくれた5人ものスタッフ。
会った事もない人から、「彼らの国」へ行きたい、という気持ちが生まれていた。
ただ、たとえ今行っても、巻き込まれ事故を起こさないために、
公共交通機関の利用はかならず避けなければならないし、
カフェやレストランなどの現地の人が多く集まる場所も避けねばならないかもしれない。
どこへ行くにも「セキュリティ」の名のもとに尋問されたりして、嫌な思いも沢山するだろう。
しかし、それが今のイスラエルであることに変わりはないし
多少、情勢が変われど、短期間でかの地が根本的な問題の前進や解決を遂げるとは思えない。
つまり、わたしは、「最初から、そういう国へ行こうとしていたのだ」。
右手には、キャンセルすべき手配内容のリスト。
(航空券、トランジットのパリのホテル、イスラエル滞在中のホテル、送迎、現地ツアー…)
左手には、それはそれで十分に魅力的なプランBの行き先と、
「年にせいぜい2度しかない長い休みを棒に振るのか」という勿体ない気持ち。
この頃、すでに、イスラエル・パレスチナ間では、停戦の合意がなされていた。
そして、自身で一線を引いたリミットである11月末日のその日。
外務省は、騒動前のレベルまで、イスラエルの危険情報を引き下げた。
なんというタイミングだろうか。
旅行会社だけでなく、知人の伝手も辿って、現地から情勢に関する情報の裏取りをした。
ひとしきり世話になっている旅行会社に、ティベリアスという北部の町から
バスで帰ることをやめてエルサレムまで専用車を手配したらいくらかかるか聞いた。
路線バスが自爆テロ標的の筆頭、というのは、イスラエル人には常識である。
「テロ」という単語を出さずとも、わたしのそのリクエストの意図は正しく理解された。
「マネージャーと相談しましたが、エルサレムまでの車を追加料金なしでお付けします。
これは我々の会社のサービスで、喜んですることなので気にしないでください。
我々は、あなたのイスラエル滞在が素晴らしい体験になるよう、責任をもってコミットします。」
・・・えっ。
運と、縁と、タイミング。
一時、そのすべてに見放されたかに思えた「旅の三種の神器」は、手の中に揃った。
結論。
・・・行こう。イスラエルへ!
地球の舳先から vol.257
イスラエル(旅の準備)編
思えば、イスラエルは本当に遠かった。
何はなくとも、出国審査に5時間かかることもザラというイスラエル。
日本人(連合赤軍)が過去にベングリオン空港で銃乱射テロをやらかしたりしていて、
日本に対する関係もすこし特殊。
真っ先に心配したのは、今年の5月に行ったイランの出入国スタンプだ。
イランのアフマディネジャド大統領(←早口言葉ではない)が「イスラエルを地図から抹殺する」
とか言ったというのはアメリカの記者の誤訳だというが、敵対国の筆頭株には変わりない。
「えー、えー、わたしは今年イランに行きましたがイスラエルに入れますか。
えー、それはですね、アブソルートリー・ノー・ポリティカル・リーズン(ズ)でして、
えー、…」と、たどたどしい英語で、在日イスラエル大使館にメールを書いた。
わずか2時間後、美しい日本語でメールが返ってきた。
「お問い合わせの件ですが、基本的にアラブ諸国を旅行された方々の、
イスラエルへの入国を拒否することはございません。」
・・・あ、そーですか。
それから先が、大変だった。
とかく、「地上手配」と呼ばれる、現地の移動やガイドの手配が高額すぎる。
車と、ドライバー兼ガイドを借りて「1日」10~15万円などという法外な見積り。
ボッタクリだろう、とタカをくくって複数社を当たったが、ほぼ横並びでその料金。
それでなくとも航空券だって高いのに、3日もいたら破産する。
その「相場感」にしびれつつ、ようやく良心的な旅行会社と、行程の工夫を発見するが
ここまでに1カ月以上を要し、十何社もと、疲れきるほどメールのやりとりを行った。
航空券を押さえていたので後には引けないし、かといってわたしが行きたいと思っていた場所は
どこも、個人旅行で公共交通機関でふらりと訪れるようなところではなかったからだ。
正直な話、わたしはイスラエル「という国」が好きではない。
今だって、それは変わっていない。
様々な事情や理由があるにしたって、イスラエルのやる「殺し方」はちょっと異常の様相を感じるし、その原動力が過去の追憶とトラウマ(ホロコースト)であるにしたって、同情は禁じえないけれども、国民総集団神経症のような暴力には、どうしたって共感しない。
だから最初、現地の旅行会社からの「Shalom」(ヘブライ語でHello)という書き出しのメールに
同じように返すことができなかった。
「アッサラーム」(アラビア語)とは抵抗なく言えても、「シャローム」という響きは、全身が断固拒否した。
なんでそんな拒否反応を起こすような国に行こうとしているのだ、と、当然ながら自問自答した。
しかしメールの相手はいつも明晰にして臨機応変。かつ涙ぐましい調整努力。
いつしか、ディスプレイ1枚だけを通した「向こう側」を、実感を持って「同じ人間」と思うようになっていた。
「人」と「国家」は別物。そんな原点にも、あらためて立ち返った。
いよいよほぐれてきて、初めてディスプレイの向こう側に「Shalom」と返したのは、何度目のメールだっただろう。
向こう側からの返事は、「Dear Ms.XX」から、「Hi Dear Yuu-san!!」に変わった。
…そんなもんだ。人間なんて。
なんとか希望通りの、国境沿いをゆく行程が組めそうな算段がつき
ほっとひと安心してツアーの海外送金も済ませたところに、この空爆騒ぎである。
日増しに更新される外務省安全情報のホームページからは、希望など見出せない。
ここまでやりとりを重ねた徒労感に、もはや別の「プランB」の計画を練る気力もなく
わたしは、久しぶりにフルアテンド、もしくは団体ツアーの別案を当たり始めた。
執念深くまだつづく
地球の舳先から vol.256
番外編
イスラエルが、結構とんでもないことになっている。
イスラエル西岸、パレスチナ自治区ガザへの大規模空爆が始まった。
これの政治的バックグラウンドがどうなっているか、ということに関しては
色々な人が色々な事を言うのが常なので、ここで政治を云々しようとは思わない。
ガザは、元々が危険地帯なのだが、今回は、各国の大使館があるテルアビブ
(イスラエルはひとりで首都はエルサレムだと言っているが、国際的に認められて
おらず、首都機能はテルアビブに置かれている。が、つまりテルアビブが首都とも
明言できないわけで…、とにかく詳しくは「イスラエル首都問題」で検索。)
や、エルサレムでも連日空爆やミサイル攻撃の警報が鳴っているという。
戦局は長引かない、というのがおおかたの予想であるようだが、
イスラエルに限らず中東まわりで一番怖いのは自爆テロ。
いつどこであるかわからないし、現場には人が一人いればできてしまう。
しかもパレスチナ側には武装勢力がたくさんあって、足並みもそろっていないので
政局に関わらず暴走する、という状態(らしい)。
空爆で、パレスチナは怒っているだろう。当然だ。
暴力に対する怒りや意思表示は、素直に考えるとどういうアウトプットになるだろうか?
…そんなわけで、わたしのイスラエル旅行はとうとう
限りなく赤信号に近い黄色信号、でも信号壊れててイマイチ何色かわからないので
渡るも渡らないも自己責任、という立ち位置になった、ということだ。
外務省の安全情報のページとにらめっこをし、
瞬く間に更新情報が上がっていくのを眺めるしかない。
行くはずだった場所が、どんどん、危険を示す濃い色に塗りつぶされていく。
トップページまで、イスラエル祭りだ。
しかたないのだ。
わたしは戦場に飛び込むのが仕事のジャーナリストではない。
旅行者であり、「観光旅行」をするために渡航する身なのだ。
言葉も通じない国へ行くのに、自分の立場を買いかぶってはならない。
それが、トラベラーの自覚と宿命。
旅を続けたかったら、その責任を決して放り出さないことだ。
しかたないのだ。
北朝鮮に行けたのも、イエメンに行けたのも、ただの運だ。
情勢がたまたま良かったのだ。運と、縁だ。そんなもんだ。
しかし、ここまでに要した労力を考えると、ため息は免れない。
今回のイスラエルの手配は、物理的にも精神的にも、わたしにとっては
ほんとうに長い長い長い長い道のりだったのだ。(その話は、来週書こうと思う)
エールフランスに電話をして、キャンセルポリシーを確認する。
フランス語しか喋らないパリのホテルに、「私の行き先はイスラエルでパリは
トランジットでこの状況で行けないかも」と、フクザツな上級フランス語作文をする。
せっかくの年末年始の長い9連休に、どこへも行かないなんて有り得ない。
プランBをあたるため、インドやミャンマーやケニア行きの航空券を調べる。
しかし、代わりの渡航先を複数見ても、どこの国も、霞んで見える。
ショックで仕事が手につかない。
イスラエルにそんなに入れ込んでいるわけでも、はずでもない。
むしろ、嫌いだ。イスラエルなんて嫌いだ。あー!!!!!!!!
「イスラエル ニュース検索結果」をリロードし続けながら、
わたしは、難航をきわめた地上手配をお願いした現地の旅行会社にコンタクトを取った。
まじめなメールが返ってきたが、この騒動があと48時間で落ち着くという説を得る。
これが、相手が相手ならまず信用しないが、返金対応を含め非常に誠意のこもったメールに
わたしはまた、当面10日間、決定を保留することにした。
今、一番欲しいものは、何事にも一喜一憂しない、動じない心である。
地球の舳先から vol.255
岡山・山里 編 vol.1(全4回)
そろそろ年末なので、旅の総括をしようとか思ったりして、
これまでの行き先に想いを馳せる。
1月 マダガスカルへ。
大自然に圧倒され地球に恐れをなす。巨大な虫にも、恐れをなす。
4月 再びの気仙沼へ。
変わらないものなど無く、とにもかくにも前へ向かう生命力に圧倒される。
7月 台湾へ。
巨大渓谷でリゾート気分を満喫し、再訪の台北にほっとする。
9月 シンガポールへ。
かのマリーナベイサンズに泊まり、ハイカラな街を歩いて過ごす。
…こんな旅生活をしていたら、JunkStageの幹部が
「僻地トラベラーの肩書きを返上しろ」と言い出すのも時間の問題だ。
わたしが無くしたものは、体力でも冒険心でも若さでもない。
最初から、僻地が好きなわけではないし、僻地ばかり行っていたわけでもない。
しかし、ここに連載するコラムがリゾートであればあるほど罪悪感にとらわれる。
わたしのほうが、JunkStageに縛られているのだ。多分。
そんな折、ようやく僻地に行くきっかけができた。
僻地僻地と言ったら怒られそうだが、JunkStageで「百姓見習い」として
コラムの連載をしている川口さんの家である。
川口さんは、脱サラして、岡山県の山里にこもり、
今は、できるだけ自給自足に近い状態での暮らしをしている。
作物を作り、それを他人に売ることによって生計を立てる「農家」ではない。
あくまで、自分と、家族が生きられるだけのものを、自然からいただく。
そして、こちらも「商売として」ではなく、ごく近しい友人知人に
家に滞在してもらい、一緒に山里体験を楽しむこともあるそうだ。
かくして手が早く、足が軽いと評判のJunkStageのライター・スタッフは、
全8人というさながら団体ツアーの様相で、川口さん宅へお邪魔したのだった。
たった1日の暮らしではあったわけだけれども、
わたしには非常に、考えるところの多い体験になったのだが、
まだ、この自分のぼんやりした「カルチャーショック」の正体をつかみきれていないので
こうして、体験を振り返るためにコラムに書くことにした。
旅に出たときは、いつもそう。
自分が、なにを見たのか。なにを感じたのか。
それは、体のなかにたしかに吸収したものであるはずなのに、
それがなんだったのかよく理解していない、ということが、多々ある。
形をつかみ、把握するために、多分わたしは“旅行記”を書くのだと思う。
…ムズカシイ(=ツマンナイ)話は、ここまで。
列車をこよなく愛するわたしは、とにかく「サンライズ瀬戸という夜行列車で
岡山まで行く」という時点でテンションはダダ上がり。
非常に綺麗で、広く、布団や浴衣まで支給される寝台個室で
夜の都会、横浜、熱海あたりを眺めながら、静岡あたりで意識を失い
早朝の岡山に到着したのだった。
これから前後編にわたって、岡山の山里でわたしが触れたものを
すこしずつ、ご紹介していこうと思う。
つづく
地球の舳先から vol.254
イスラエル(旅の準備)編
pen online より
イスラエルへ行く、行く、と、ずっと言っている。
なぜなら、パスポートの有効期限切れが近いからだ。
このコラムで何度も書いている事ではあるが、
わたしはキューバの入国スタンプがあるばかりに
アメリカに入れないという、いわくつきのパスポートを持っている。
(普通、観光客は「ツーリストカード」というものに入国スタンプを押してもらうのだが、
留学ビザを申請していたわたしはパスポートにべったりとキューバ国家の名が
刻まれた。しかも、何ページも。)
こうした、国交断絶や外交上の問題から、
その国のスタンプがあるとその後の旅に支障をきたすということが
非常に少ない例ではあるが、世界には、いくつか、ある。
その代表例が、イスラエルだ。
もしかしたら、アメリカ以上に世界の嫌われ者かもしれないイスラエル。
占領地の実効支配を繰り返し、国連からも非難される
(が、決定的なダメージはアメリカの拒否権発動で回避してきた)
イスラエルのスタンプがあると、敵対国であるアラブ諸国から
入国を拒否される、という仕組み。
しかしいまのわたしに、怖いものはほとんどない。
パスポートはあと1年で切れる。
多くの国が、3~6か月の残存有効期間を求めるので、
実質的に「使える」のはあと半年といったところだろう。
それに、対立国である「アラブ諸国」のうち、
絶対に行きたかったイランとイエメンにはすでに行った。
狙っていたイラクとシリアには、情勢的にまだ当分行けそうもない。
リビアもとりあえず自粛だろう。
そんなわけで、
よし! 今だ!
となり、ダライラマ法王に会いに行くはずだった夏休みを仕事で返上した反省を
生かして、いち早く航空券を押さえた。先出しジャンケンというやつである。
それでも、年末年始のフライトの予約にしては、決して早い行動ではない。
すでに一番安いフライトはエールフランスという(わたしにとっては)最高級ブランド。
すぐさま目が眩み、パリで1泊ドロップして大晦日を過ごすことにしてしまった。
そして、わたしはイスラエルという国についてほとんど知らない事に気付く。
無宗教なので、聖地巡礼をしても感激もないだろう。
というか、わたしは異教徒(正確にはわたしは無宗教なので異教徒とはいわないが)
にとっての聖地に足を踏み入れること自体があまり好きではなく
ひとの土地を土足で踏み荒らしているような、不快な気分に囚われるのだ。
さて、どこへ行って、何をしようか?
いつものごとく図書館で大量に本を借りて、旅の準備を始めた。
世界的にも観光立国だというのに、意外と遠かったイスラエル。
難航した現地の手配も含めて、今回は「旅立つまで」も含めて
記していきたいと思う。
地球の舳先から vol.253
台湾編 vol.4(最終回)
…いわゆる、「馬鹿のひとつ覚え」というやつ。
太魯閣渓谷へ行っていた以外は、3食、小籠包を食べていた。
台湾料理で一番好きだし、数百円でおなかもいっぱい。
せっかくハシゴをしたので、今回のベスト3をご紹介したいと思う。
★明月湯包
台北市基隆路二段162-4號(本店)
MRT六張犁駅より徒歩約10分
8個/130元
餡は台湾産の黒豚肉に、豚皮・鶏の煮凝り。
脂身と赤味の比率は1:5にキッチリ計っているんだとか。
食堂とも見まがうようなシンプルな店内。
キムチ入りなどもあって、小籠包屋ではおなじみの
伝票に自分で注文を記入する形。ここはチャーハンも評判。
空芯菜を頼んだら、キャベツの炒め物を持ってきて
「今日空芯菜ない」って、作ってくる前に言って下さい(笑)。
が、これが予想外の大ヒット。鶏がらベースなのか、ガーリックと合う
香ばしい炒め物は、わたしの予想する「キャベツの炒め物」とは別物。
すっかりファンになったのでした。
★盛園絲瓜湯包
台北市杭州南路二段25巷1号
MRT中正紀念堂駅より徒歩13分
8個/100元
ヘチマの小籠包で有名なお店。
台湾本島のヘチマだけを使い、エビと豚肉のミンチと混ぜているそう。
皮は厚め。ちなみに普通の小籠包は8個90元ととてもお値打ち。
ついでにへちまとハマグリの煮物も頼んだ。
中正紀念堂の一番東側(MRT駅から出ると、記念堂のちょうど向こう側)。
わたしはここでバレエを観る前の昼食でお邪魔しました。
店内は小洒落たレストランという感じ。でも待つのも必至!の人気店。
全体的に、B級グルメ感はなく、大皿料理もあってきちんとレストラン、という感じ。
★小上海 民生店
台北市民生東路四段62号
MRT中山國中駅徒歩20分(松山空港からタクシー5分)
10個/120元
この道30年の老舗店。
他では味わえない貝柱のスープという事で、ガイドブックでも「絶品」で常連、
ここを一押しに上げる方も沢山いるよう。
通りに面した、ドアもないオープンな空間なのですぐわかる。
テイクアウトするお客さんも多数。
地元民が多く、他の店舗が友人同士や家族連れが多かったのに比べて
一人のお客さんが圧倒的に多く、地元民の生活に根付いているんだなと実感。
その分、接客も、下町のおばちゃん的(笑)。
松山空港から、歩けます。
チェックインが早く終わっちゃったとか、出国前の食べ納めにどうぞ!
食で〆た台北編、ようやくおしまい。
地球の舳先から vol.252
台湾編 vol.3(全4回)
台湾へ行ったら、台北で元気を充電したら郊外へ行って、ものすごくいいホテルに泊まる。
いつの間にかわたしの台湾旅は、そういうスタイルになっていた。
今回はといえば、太魯閣渓谷のほぼ終点にある「晶英酒店(Silk Place)」。
まさに大渓谷の中にあるのだが、どれくらい「渓谷の中」か、といえば、このくらい。
取っておいたのはスイート。団体観光客のバスを横目にボックスカーで水を支給され、
長蛇のチェックインカウンターを素通りしてクラブラウンジに通され、チェックインを行う。
旅に出ると途端に「待つ」とか「並ぶ」とかが苦になくなるわたしではあるのだが、
このスムーズさはとても美しいオペレーションだった。
大自然の夏の光が差し込むラウンジは様々な形状のソファがあり
渓谷を見ながらくつろいでいる人も多々。
もちろん、昼間はお茶、夕方にはアフタヌーンティー、夜はアルコールが無料でサーブされる。
チェックインの手続きを済ませ、豊富なアクティビティとタイムスケジュールの説明を受ける。
午後と、翌日の午前中に行われる太魯閣渓谷のツアー(AM/PMで内容が変わる)、
SPAと夕食、それから翌日の空港までの送迎車の時間を確認し、部屋へ。
さっそく出迎えてくれたのはテーブルの上のウェルカムフルーツ。
部屋の広さはもちろん申し分なく、窓からは大渓谷の絶景。
バスルームには、陶器に入ったバスソルトとアロマキャンドルも用意されている。
そしてとにかくこのホテル、「おみやげ」がやたら多い。
ガラスのびんに入ったお菓子はチョコレートと豆。お持ち帰りくださいとのこと。
お茶も、きちんと茶葉で、緑茶、ジャスミン、台湾茶と用意されている。
冷蔵庫の中は、アルコールも含めてすべてフリーだ(スイートのみ)。
これは、思わず部屋でゆっくりしたくなってしまうともいうもの。
後ろ髪をひかれながら、とりあえず昼食に出る。
とにかく英語のメニューがよくわからないのだが、イカと野菜の炒め物にありついた。
午後のツアーへ出かけて帰ってくると、随分暑さにやられたようなのでラウンジで休むことに。
カップに入ったガナッシュやエクレア、ケーキなど。
ゆっくりしていたらスタッフが近寄ってきて、そろそろスパのご予約の時間ですよ、と
声をかけてくれる。うーむ、すごい。
わたしは本来、海外に行くと貧乏性が発動して、ホテルでじっとしていられず走り回るのだが
ここのスパはまず入ると漢方の入ったお茶と小さな茶菓子がサーブされる。
大渓谷の窓際に設置された広いジャグジーの両脇にはふわふわのベッドマットが敷かれ、お昼寝用。
しかもこの空間が完全に貸し切りなのだ(カップル利用も可能)。
施術の前に30分ほど、この場所を好きに使う事が出来、スタッフも入って来ない。
スパから戻ると、日も沈んでいる。
屋上のプールはライトアップされ、涼しげなデッキチェアの向こう側には
ソーセージなどのちょっとしたおつまみとアルコールも売っている。
夕食はバイキングにした。一日中食べているような気がしてならない。
ビュッフェは豊富で、冷菜、温菜、サラダ、魚介などがゴージャスに盛りつけられる。
メインのお料理は数種類から選んでおくプリフィクス方式。
麺類でしめたい人は、シェフが好きな具でその場で作ってくれるカウンターもある。
ちなみにデザートも20種類以上が並び、チーズバーまである。
(ワインをね、グラスっていったつもりでしたがボトルで来ましたね。)
まだまだ、夜は終わらない。
この太魯閣渓谷のあたりは伝統的な原住民「アミ族」が暮らしたところで、
その衣装や伝統的な舞踊を見せてくれるショーが、中庭で行われる。
夜も更けた頃、ようやく久方ぶりに部屋へ帰ると、ライトとベッドメイクが変えられ
ターンダウンされてまた一段と雰囲気を増していた。
ウェルカムフルーツは、お夜食のおやつである3種類の羊羹に変わっている。
ぐっすり寝て、早朝に起きる頃にはまた充電完了。
渓谷ツアーへ出かける前に、また屋上階へ行く。
こちらは、実はこの施設でわたしが一番気に入った場所。
ヨガスタジオとして使用されたりもするのだが、オープンスペースで自由に使える。
冷たい水と果物も常備され、朝、大渓谷に四方を取り囲まれながら身体を起こす。
外へ出ると、プールスペースの横には、屋外に直接ソファを設置したひなたぼっこ場。
オープンスペースなので、雨が降るとどうなるのだろう?などと思ったが、
ここは夜も燃えさかる火が渓谷を美しく照らし出し、星空観察にももってこい。
ここはキャンドルなどではなく「火」を使うというのが、大自然に寄るというコンセプトなのだろう。
そんなわけで、かなり駆け足で、でもほとんどの施設を堪能した。
太魯閣渓谷の観光拠点としても大変便利なSilk Place、太魯閣へ行くなら絶対におすすめです。
地球の舳先から vol.251
台湾編 vol.2(全4回)
ホテルから台北の鉄道駅まで、わずかに数分。
台北から約2時間半で台湾東部の都市花蓮に到着し、
ホテルのシャトルバスを待った。
わたしの台湾旅の「一点豪華主義」は健在で、一番いいホテルのスイートを取っていた。
今回の旅の目的はここ、太魯閣渓谷。
岩、石、水が織りなす壮大な大渓谷であり、一大観光地となっている。
花蓮から車を走らせること40分。
太魯閣渓谷の奥にあるホテルまで、息を呑む景観が続く。
ホテルに着くと、それはそれは周到なホスピタリティでラウンジに案内され、
チェックインをしながら細やかに1泊分の行程をアレンジしてくれた。
台北から日帰りのツアーも出ているのだが、やはり宿泊するのがおすすめ。
わたしは午後と翌日の午前中と、2回に分けてホテルから出るツアーに参加。
山の中の渓谷は、南北に約38Km、東西に約41Kmにも及ぶ。
ここから先は、わたしよりも写真に語ってもらおうと思う。
砂卡礑歩道
白い大理石の橋には、ひとつひとつ顔が違うという100匹の獅子像が鎮座。
鉄パイプのような階段を降り、5キロ弱の遊歩道をゆくと、眼下に泉が広がる。
谷の中をあるく、不思議な感覚。
長春祠
ここは山そのものだったわけで、車道を通しトンネルを作るために
時の人々が200人以上亡くなったとのこと。その弔いで建てられたのがこちら。
大小の滝がかかり、少しお茶をできるスペースもある。
燕子口
ハイライト!崖の最先端が遊歩道になっているので、高所恐怖症でない
わたしでもヒヤリとする。遮るもののない絶景を見下ろし、その規模に唖然とする。
かつてはこの近くの九曲洞というポイントが一番人気だったそうだが、
状態が悪く復旧工事だか新しい遊歩道の新設工事だかをしているとのこと。
天祥
こちらが太魯閣国立公園観光の終点。すぐ裏には宿泊したホテルがある。
清水断崖
こちらは渓谷の入り口から花蓮に向かって(つまり渓谷から徐々に離れる形で)
進んだところにある、台湾で最も美しいと言われている海岸。
断崖の高さは約90度、最も海抜が高いところで1200mもあるので相当な絶壁。
世界遺産でないことが不思議なくらいの場所だった。
世界には、まだ、こんなに近くてもモノスゴイものが転がっている。
つづく
地球の舳先から vol.250
台湾編 vol.1(全4回)
1時間遅れでようやく離陸した台北の夜景もキラキラしていたが、
3日ぶりに見る首都東京の夜の光は、空と地が逆転して星がちりばめられたようだった。
自分が生活している地を空から眺めて、その美しさに息を呑む。
海外から帰ってくる時は、いつもそうだ。
ふだんは気にも留めないようなあたりまえのこと―会いたいひととか、帰りたい家とか、
好きな仕事とか―そういうものがぜんぶあるトーキョーを思って、
自分が幸せなのを思い出す。
だから、旅から帰って、「ああ現実に帰って来た」とか「明日会社行きたくない」と
思うことはないし、社会復帰に苦労したことも、いちどもなかったりする。
1年ぶりの台湾。3回目の台湾。
台北と、郊外のリゾートホテルで1泊ずつ、の旅を夏のたびに繰り返している。
だんだんと台北にも慣れてきて、タクシー5分で市街中心部に出られる松山空港を
チョイスしたり、真昼の殺人的気候は無理せず屋内にこもったりするようになった。
今回台北のデイタイムにわたしが選んだのは観劇。
なぜかアメリカン・バレエ・シアターを台北で見ることにした。
中正記念堂という、蒋介石記念広場には豪奢なつくりのコンサートホールと
シアターがあり、いちどここでなにか観てみたいと思っていたのだ。
奇しくも旅の1週間前に、自分の次の舞台が決まり、それと演目が同じだった偶然もあった。
台湾というのはかなりインターネットに明るい国なのに、事前にうまくチケットを予約できず
空港から迷ってホテルへ辿り着かなかったので、スーツケースを転がしたまま劇場へ。
アメリカン・バレエ・シアター、通称「ABT」は錚々たるダンサーを抱える超人気バレエ団。
日本公演はチケットが高すぎて行ったことがない。
それがなんと1階前から6列目が10000円だというから、一番安い席を…といつもの通り
考えていたわたしはすこし奮発して、はじめて1階席でバレエというものを観た。
劇場へ入ると、外のうだる暑さが嘘のように、涼しげでお洒落した観客の女性たち。
クロークの女性がすっ飛んできて、「場違いでスミマセン」とつぶやく。日本語で。
豪華なシャンデリアに奥行きのある全4階の立派な劇場に嘆息。
チケット管理がザルで、2幕目からは上階の席から人々が移動しまくってきたのだが、
昼公演だったこともあり3分の1程度しか客席が埋まっていなかったので、そのほうが格好はつく。
公演はといえばさすがにプリンシパル(主役級)陣はすばらしかったがその他がダダ崩れ。
特に3幕に「影」という、超絶きつい群舞があるのだが、完全に崩れてしまっていた。
そしてその役は来年自分が踊る予定の役なわけで、かのABTでもここまでになるのだから…
と考えるとおそろしく、これから舞台までの間、オーディションの前や、本番前の夢にこの光景が
出てくるんだろう、と思って、そういう意味では観たことを後悔した…。
小籠包で夕食をして、鉄道駅のすぐ近くにあるホテルにようやく一旦帰着。
共同で使えるキッチンなどもあるコンドミニアムのようなホテルは清潔で布団が心地よい。
寝るによいだけの環境があり、立地がよければ十分なのだ。
枕元に「ん?」という物体が控えめに置いてあったが、ラブホテルではないはずである。
…多分。夜は、とりあえず静かだった。
すでに冷房病にかかっているので、冷房の温度を下げてドライにしてから再度ホテルを出る。
TAIPEI101という超高層ビルの展望台にも、はじめて登った。
日本人と中国人の団体客が多く、ここはディズニーランドかと思う行列は、
電光掲示板に表示された番号を時間差で上階へ送っているのだという。
おもわず帰りたくなったが、50元も値上げされていたチケットを買ったばかりだったので
おとなしくガイドブックを読みながら待ち、世界最高速ギネス記録だというエレベーターで89階までを時速60kmでのぼりきると(ちなみに東芝製)、淡水川と夜景に彩られた台北の街を一望した。
もうすこし空いていれば、昼か夕景も見てみたいところ。
夜9時をこえてもなお30度から先には気温の下がらないうだる気候を歩き、
おとなしくとっととタクシーで帰って寝ればいいのに「せっかく来たのにもったいない」
という貧乏性気質に自分で苦笑しながら宿まで歩いて帰る。
去年来たときは震災直後で、大通りには日本人有志が買い付けた「ありがとう台湾」
の広告が立ち並び、接触する人する人に「大変だったね」「大丈夫」と気遣われたものだ。
1年が経っても変わらない、優しげで親日な台湾の人々に助けられながら、
なんだかこの国は日本のきょうだいのようだ、と思う。
台北の夜を見納めて、翌朝から郊外へ出向くべく寝に落ちた。
つづく