各時代のお客さんからの
要求が
どんなものだったのかを知る事
それが とても大切ですが
あいにく
講談師 見てきたような ウソを言い
と あるように
曲独楽についても、確かな証拠が無いけれど、
口伝えで続いてきた口上などに、
おそらく 江戸時代の曲独楽の公演風景を知る手がかりはあると考えてはいる。
それと同じく調べていきたいのは、
地域性がある遊びや儀式との関連がないかどうかということ。
道具というのは 発祥に歴史があってとても興味深い。
私が三増紋也師に入門して、すぐに所属した
太神楽曲芸協会…
先日、その時に曲独楽の生徒だった○三さんが来られた。
彼から聞いたら、太神楽曲芸協会の代表者と中国の雑技団とが交流、
互いに発祥の歴史を学ぶ機会があったそうで。
中国側はやはり、農作業の合い間に農機具を使って芸を考えたのでは…?
というご意見だった。
ところで各国の技芸の交流では必ず、互いの文化について理解しあう為の会談や、
発表の機会があり、私にしてもささやかながら、
台湾の宜蘭の国際イベント参加の時に、曲独楽の事を、
「米を作る事の神聖さ、人同士の称えあい、交流が目的の芸」というように、
(通じていたらだけれど)
紹介させていただいた。
(余談・宜蘭県は、今「コシヒカリ」栽培を愛媛県の農家と一緒にしているので、
とても嬉しい。)
日本の文化を尊敬、尊重してくれる台湾の方々には、本当に学ぶ所が多い。
だから、私たち日本側も、くれぐれも自分の地域の文化や、
自分の育っている国の伝承された知識の事を大切にして欲しいと思う。
日本の技芸が安易に扱えない事が多いのも、歴史が長いと数え切れない事柄が、
人同士の信頼関係でだけ、何とか維持されている場合もあるからなのであって、
決して技芸を磨いていないから古いのだという結論には至らない。
交流がない立場の人から考えたら、こういう事を書いても、
理解の外となるのも無理は無いけれど、
ネット上で何でも公開して良いとは言えないから、
安易な方向へ流れて、心を置いていかないよう気をつけたい。
やはり、歴史ある芸も、その発祥から離れていくほどに
しっかりと伝えるための調査は必要だし、自分だけでは無く、
他の歴史や地域・地元の詳しい人の
知識をお聞きして、きちんとしていかなくては、と思うようになった。
不思議なもので、こういう事をお知らせすると、
次々と交流も育っていく事がある。
ちょうど今、私もその交流を膨らませている所で、
これから楽しみになっている。
曲独楽の歴史を調べながら、木地師、大工、農業政策、過疎、都市化、植林、出稼ぎ、農産物と人の流れ、権力と大衆の生き残りをかけたせめぎ合いのような事柄が様々に見えてきた。芸の置かれた状況と似て、巡礼や遍路にも、差別が関係しているという話や、それに似て、飢饉や自然災害が多い日本の歴史の視点から考えないとわからない奥地の文化や暮らし。身分の高い人で失脚すると遠島となっていた日本、人里離れた場所に、本当に素晴らしい地域がある理由、そしてそこに住む方々の歴史、文化。
遠く離れた地域に、何故同じ歌や儀式が伝わっているのか、
どうして土地の名前と苗字が同じ人がいるのか、
土地独特の言い回し、約束事の由来など、
日本の文化は、本当に知るほどに愛しくてならない。
ネット利用者の年齢が今でも限られているから、
高齢の人の知識や体得している財産が消えていく現代に、
何とか歯止めをかける努力をしていかないと、
日本の宝は一体誰が心から愛するのか。
私自身、自分の立場から考えて、
親や先祖の生きてきた文化を見つめる力が必要だし、
楽しんできた心を、もう一度活き活きと栄養を与えてみたい。
私は父が、母が、祖母が愛した日本の芸が大好きだから、
太神楽曲芸はジャグリングじゃないと思っていて、
むしろ世界に誇る、娯楽の源流のひとつです。
それに、曲独楽はディアボロとは相容れない。
ディアボロこそは、長崎に伝わった唐独楽が元祖だから。
そして、ヨーヨーが仲間だし、
枠を広げると、ちょんかけ、ちょん掛け独楽も、そこに入る。
さて、技芸を習得する過程として、多少目先を変える工夫を、
若いときは試してもいいとは思う。
でも、日本の職工仕事に対して、
私は恥ずかしくない芸をするべきだと思うので、
工場での大量生産品を使う西洋式の芸への関わり方には、
今後もはっきりとした態度をとろうと思っている。
主体は、あくまで私たち曲独楽師にとっては、
日本本来の木地師が作る曲独楽でなければならない。
今までそうしてきたように、もし、現在の木地師が後継者を育成できなかったとしても、
これからの木材加工を志す若い人が、いつか、
この日本特有の曲独楽という、日本の木材と、
最先端の技術であった鉄の加工の工夫とが出会って生まれた芸に、
魅力を感じてくれる時があると願っている。
あの戦争で一時は途絶えた時代があったのだから。
確定申告の徹夜明け、久しぶりに寝不足をごまかす為、
鏡に向かって2分で化粧をしている時、
テクマクマヤコン。
私は
変わった物にお願いをしてきた。
例えば「人」の字を手のひらに書くマジナイが、舞台に立つ前の物としては有名なやり方だけれど、
私はそういう時、
近くにある物に、願をかける。
このあいだは、飛んでいるハエだった。
でも、ハエにお願いするのじゃなく、実際は先輩芸人や身内を思う。
緊張を解くために、子供の頃に覚えたのを応用していたら、結局こうなった。
何も隠しているわけじゃないから、言っておくけれど、
私が幼稚園の時、保育参観日に給食の挨拶をする「お当番」が回ってきた。
「それではみなさん、めしあがれ。」
このひとことを、友達と二人で合わせて言わなくちゃいけないし、
いつ言ったらいいんだろうとか、
うまく覚えて合わせられるかという、妙な緊張感でいっぱいになっちゃって。
今でも廊下の弁当の保温機やら、床の色まで思い出す位、エライことだった。
そのひとことを言うために、私は生まれてきました状態。
だから、言ったとたんに人生が終わっちゃったのね。
「みなさん、めしあがれ。」ジャーッ
もらしました。
我慢してたのを忘れてたので、一気に解放されて。
園児のともだちは、全員気がつかず。
でも、先生に泣きながらパンツとタイツを貸してもらって着替えさせていただき、
家では父に「みなさんめしあがれ、ジャーッ」と繰り返し言われ、
はっきりと、このジャーッ、こそが、大きな人生の転換でしたね。
だから、大切な事は親に言わないし、
誰にも見せずにひとりで立ち向かうもんだ、と思ったわけで。
限界まで緊張して、どうしたらよかったのか考えたり、
時間を計ったりもしました。
人体実験です…
でも、江戸の昔から、いや、もっと古い時代、
日本は物に意思を感じ、
擬人化し、
大切にしてきました。
だから、私には、舞台で使う道具は身体の一部であり、
簡単に買った道具、としては扱えなくなります。
お互いに信じあう仲間です。
このコマ、曲独楽を使って、また仲間を増やしてみたいな、と思います。
有難うございました。
今回は、せっかくなので、
撮影の話を。
テレビの場合は、
時間をかけてリハーサルをして、
中継を致しますから、たとえ出演時間が短くても、何度も実際にコマを回す事になります。
ここで、曲独楽をご覧になった事が無い方に、説明をさせていただきますと、
心棒の部分は鉄、だいたい直径が平均5ミリ程度、そして胴体は木です。
木には、漆を塗り、私がここで回していた曲独楽は、だいたい大きさが30cm、
重さが400g程あります。
心棒が鉄ですので、適度な摩擦力を保って、手で回転を加えますが、
ヤスリがけを丁寧にしていないと、2回ほど回しただけで、手が軽い火傷のような
ヒリヒリした状態になり、とても撮影の本番まで持ちこたえられません。
リハーサルといっても、企画段階の一回目、
会議の後、企画決定後の現場担当さんを交えての二回目、
撮影直前日の設営スタッフさん、撮影時間計測や、立ち位置決定、
今回の場合は、私が移動中に車を交通止めにするので、どこまでを
交通止めにするか、確認する為の三回目、
そして、撮影当日、カメラや音声、記録用の大量のケーブルと、
私が移動する道に、小石など障害物がどこにあるかを確認しながらの四回目、
共演する松村さん、NHK松山放送局アナウンサーの沢田石さん、
カメラさん、音声さんの位置を
しっかり決めるための五回目、
これがリハーサルです。
だから、当日でも、私の移動距離は直線110mでしたので、
330mを、曲独楽の風車を演じて移動した事になります。
体力が必要な事もありますが、曲独楽も完全に調整できていないと、
実現できなかったので、
あらためて、曲独楽の製作者の先生の腕に、助けていただき、感謝しています。
もちろん、撮影現場にたくさん連れて行って、
撮影の時にどういう工夫をしたらいいのかを、
身を持って教えてくれた紋也師匠が、一番偉いのですが。
そういえば、これも、NHKの番組でしたが、10数年前、紋也師が70代の時に、
トルコのバザールで、何の前触れもなく、
曲独楽を披露したら、町の人はどう反応するだろうか、
という撮影に、予算の関係から、弟子を連れずに一人で立ち向かった企画がありました。
他に、イタリアで餃子はウケルか、とかが、
いくつか組み合わさったクイズ形式の番組です。
ひたすら、砂漠の中を紋也師が、曲独楽の道具を自分で持って歩く姿に、
弟子の私は正直、自費でついて行くんだったと、本当に後悔したのを思い出しますが、
師匠に聞いたら、若いスタッフがいつも気を使ってくれて、楽しかった、と言っていました。
でも、後でこぼしているのも、ちらっと聞きました。
「もう、行きたくないよ」
カメラの向こう側には、見えない事がたくさんあります。
息子を迎えに行ったら、保育園でテレビ観賞したそうです。
こどもは面白い…
やあやあ、遠からん者は音にも聞け、近くば寄って、
目にも見よ…
そう、物見高いは人の常。
人と人とが交わる事で、
いろいろなものが生まれます。
お互いに、何も伝えようとしなければ、
理解は深まらない。
曲独楽の発祥について、
調査していた20数年前、
収集家、研究家、各先生の意見を聞いて、
紋也師匠の5年ごとの芸術祭参加公演用に
まとめたのが、調べ始めるきっかけでした。
1998年に、i-Macのボンダイブルーを初めて買って、
私のパソコン歴は開始しました。
それまでは、パソコンではなく、シャープの書院から、
インターネットへ接続して、
様々な調査をしましたが、結局データが少なくて、
実際に足を運んでマイクロフィルムを見たり、
身分証明や紹介状持参で原本を閲覧許可してもらい、
読んで集めるのが早かった頃です。
今は各機関が閲覧データを公開しているから、
調べるのが楽になりました…
だけど、その情報の大切さや、調べた人の事は、
伝わってこないけど…
しかし、私の師匠、三増 紋也師の流れを追うことが、
先日出来たので、嬉しく思っているのです。
あまり確かな事は言えませんが、
どうやら興行の記録があちこちの神社や寺に残されていて、
郷土資料として各地域がデータ化をするようになり、
芸をして歩いていた曲独楽師の名前や、場所、興行主、詳しい物になると、
興行での収入金額さえも知る事ができる例がありました。
確かな事が言えない、というのは、その「見世物」的な要素から見て、
多少は人を集める為の脚色が、当然あった事が考えられるので、
内容の面では、私たち曲独楽を仕事にする者でも、「これは無理だ」という芸が
記述されている事があるからです。
でも、一番古い記録が、私が調べた当時と
今の公開資料でも、まったく変わらず一致していることがわかり、
改めて入門当時、紋也師匠に言われて調べ始めていた曲独楽の歴史について、
今までずっと、私の旧ホームページから引用してくださっていた皆さんに、
恥ずかしくない内容を公開できていた事に、安心しました。
享保十五年(1730)
三升屋千十郎、難波助十郎という曲独楽師が、大阪の興行主の一行11人で、
曲独楽の公演を大分県で行った記録を見る事ができました。
もうけ、の額が記述されている例は、とても少なく、
この興行はよほど話題になったのか、きちんと金額の明細がありますので、
ご参考までに転載したいと思います。
貨幣価値は、いつも問題になるのですが、
時代ごとの米の価格を中心に考えるのか、
それとも庶民の食べ物そばの価格なのか、
大工の日当で考えるのか、
様々な場所と、身分の別による金銭感覚の違いが、
江戸時代の文献や古文書を調べて毎回換算に時間がかかります。
でも、そこをちゃんとするかどうか、
それでまた、調査や資料の
「保存価値」
「閲覧して参考」
「ただの雑談の種」という、
見ていただく方への関わり度が変わってしまうので、
気をつけたいと思っています。
もし、私が取り上げている事で、お読みの方が、
気がついた事があったら、本当に教えていただきたいと思います。
お願いいたします。
私が今回使用する、77銀行の江戸時代の通貨の説明は、
とてもわかりやすいです。
http://www.77bank.co.jp/museum/okane/0813.htm
さて、前置きが長くなりました。
当時の貨幣価値から考えて、60匁銀貨が金貨1両にあたるので、
この時の曲独楽の興行収入746匁は、12両という事。
また、1両は、各時代ごとの時価相場で換算する習慣であり、
いくらかは、推測の域を出ませんが、日本銀行からの下記記述で考えると、
だいたい米価から考えると、1両3から5万円ですから、
30万から60万円もの差がでますが、だいたいそれ位の収入となります。
http://www.imes.boj.or.jp/cm/htmls/feature_faq.htm#question2
調べてわかるという事、こりゃ、すごいもんです。
大分県の浜之市という場所の市での興行記録から、考えてみました。
一回の収入ですから、移動する各場所で興行したら、
十数人の団体で移動して、奉納したり、市への場所借り賃、宿泊費、食費、
交通費、様々を地域ごとに経済活動していったわけです。
もちろん、地元の交流も、結構しっかりしていなくては、
興行が許可されませんし、
その土地の住民の娯楽を担当する、
土地の地頭とか、祭の主催者、寺社、港や宿場、妓楼の主など、
顔を立てていたから入る事ができる。
と、いうわけで、今回は、調べて知る事のお話でございます。
そういえば、とあるT大のセンセイの江戸時代の興行研究の論文で、
芸人を「アウトロー」と表現した方がいらした。
私はここまで来たのか、と思ったことを書いておきたい。
日本の芸人の起源は、その言葉では「くくれない」のであった。
まだ、そういうものを読んでも、
今のように「目に留まるための」ブログやこちらのきちんとしたコラムの形での、
意見の表明を表すすべも無かったし、
思いを誰に言うでもなく、抱えていたら、つい最近、
「非民」「賎民」の遊業者がいたことを一切書いていないのは変だ、と、
部落解放・人権研究所の方が書評で述べられていて、
ああ、わかってくださる方が確かにいらっしゃるのだな、と思った。
参考までに、私にとって上記サイトは、遊芸人の歴史の根源と関わりがあり、
日本の芸の歴史にとって、必ず知らなくてはならない事を知る手がかりを学ぶ場です。
ごく最近、知ったばかりなので、これからも勉強したいと思っています。
ウィキペディアの形式で、↓人権や差別の資料集を公開しているサイトが便利です。
http://www.blhrri.org/jiten/index.php?FrontPage
そう。
芸も技術の話だけでは、ダメなのです。
道具がどうとか、BGMの話が何とかとか、
楽しいだけの話じゃ、悲しいのです。
それは、今までの各先輩が教えてくれています。
今、同じように、現場で製作している若手との共同作業には、
本当にこちらも勉強になります。
音楽を作っている方も、演奏している人も、
もちろん、テレビ番組を企画して実際に撮影している皆さんも、
縁、出会いで活動しているのだから、
芸も同じです。
私が教えた縁の後輩も、今の現場では、国の助成を受けた同じ研修生を
先頭切って引っ張っていかなくちゃいけない世代になりました。
いつまでも、寄席の師匠方に甘えているわけには、いかないのです。
ああ、先輩がこんな思いで入門当時の私らを見ていてくれたんだなと、
丁度、私のお年頃は、私が入門した時の姉弟子の年齢ですから、
今はこう思っています。
ありがたや、先輩の存在は大きい。
交流の規模を小さくして、地域性を重視するやり方も、重要です。
私は、どちらかといえば、この密度の濃い交流を好む傾向がありますから、
女性の特権として、巣作りするように芸を考えます。
ま、私自身は、どんな転がり方をするかは、転んでみないとわからないかな。
でも、希望としては、そういうきちんとした師匠からの教えを受けた
国立の芸の養成所出身の生徒さんたちが、
各地へ拠点を作り、善いものを広げてくれる事を願っています。
たった今、3月7日に日付が変わりました。
NHKの昼12時20分 総合テレビ 「ひるブラ」生中継で曲独楽をご披露します。
内子町の古い町並みが、曲独楽と共に映えてご覧いただけると嬉しいのですが。
会長さんは、能の方や歌舞伎の俳優さん、
そして、理事は各歌手の方、作曲家、脚本家、もちろん落語や講談、
私たち諸芸など各芸術団体の会長がズラリと並びます。
今の会長は狂言の野村萬さんです。
各団体や各界の重鎮の、日本の心と文化をどのように発展させて、
守り、また楽しもうかという芸団協のメッセージが、これです。
「芸能が豊かな社会をつくる」。そのために、 | |||
![]() |
[1] | ![]() |
芸能文化をになう『ひと』を育て、 |
[2] | 芸能文化をはぐくむ『場』をつくり、 | ||
[3] | 『ひと』と『場』が豊かに活かされる『しくみ』を整え、 | ||
人々が、多彩に深く、芸能を楽しみ豊かな心を育む社会を実現することをめざしています。 |
最近は、TPP加入の交渉対象となる内容で、
著作権と知的財産権のことも入っているから、
文化予算削減でまず各方面に打撃があったばかりの
芸能・芸術文化活動側は、
また頭が痛い日常を迎える事になりました。
私たち一番下の協会所属の会員には、
署名活動くらいしかできることがないので、
何とも言えませんが、
勉強することは、確かにできるので、
予備知識をネットで収集しています。
で、なぜ、考えもなく、新しい事に飛びつくのはやめようよ、という類のメッセージを、
私が発し続けているかという事ですが、
それは、私の生まれそのものにも、強い関係があります。
父は富山県出身、先祖は金沢藩の槍持ち武士の家柄と聞いています。
江戸幕府から明治政府に変わり、
武家出身の人たちは、仕事を変えて生き残って来ましたが、
我が家の先祖も、相当な工夫をしていたようです。
明治生まれの祖母の代、育った当時まだ子女のたしなみとして、
音曲を習い覚える事があったようで、
祖母は三味線を芸妓さんたちに教えていました。
祖母は結婚したのですが、父を生んでからすぐ、相手の祖父が亡くなったので、
嫁ぎ先と疎遠になり、
結局富山には居られなくて、東京の赤坂一ツ木へ0歳児の父を連れて出てきたそうです。
戦争が本格的にひどくなる頃、父は海軍省に「使い走り」の若手で所属、
とある幹部の方の「かばん持ち」で、あちこち動いていたと聞きました。
学徒動員が決まった頃だから、戦争がもしあと数ヶ月、いえ数週間でも長くなっていたら、
父は間違いなく出征し、もしかしたら私は存在しなかったかもしれない。
1年先輩は、実際に兵隊に行き、亡くなっています。
戦後、敗戦の混乱期、食べ物が手に入らない都市部での生き抜く力を、
どう受け止めたらいいのか、それは今の若い人にはわからないかもしれないけど、
とにかく、芸事がほとんど自由にできなかった戦時下から開放されて、
すぐにやって来たアメリカ進駐軍の持ってきた文化と、
日本の芸事はまた違った意味での戦いを始めた事になるわけです。
プレスリーとジャズ、コカコーラとチョコレートとサンドイッチの文化と、
明治にやってきた欧州の文化との融合もまだ未完成な、
日本の古典文化、大衆芸能が、不公平な競争でスタートを切りました。
片や、物量とも、国土の荒廃がないアメリカから提供できる文化と、
わが国日本には、満州からロシアに連行されてシベリアで労役、
帰国した芸術、芸人、歌手など、身も心もボロボロの状態からのスタート。
どこが自由で平等だというのでしょう。
食べていく為に、父も、三味線で下駄タップで米軍キャンプの余興出演から、
芸人としてスタートしました。
やがて、ジャズバンドが大音量で米軍の娯楽の中心になっていき、
父も、音量が小さくては二度と呼ばれない、という危機感から、
三味線をギターに持ち替えて、
下駄もカスタネット、とアメリカ受けする方式にして、
生き抜いた時期です。
本当に、日本の芸には、明治に引き続き、受難がやってきたわけです。
わかんなかったら、ひいおじいちゃん、ひいおばあちゃんに聞いてください。
だけれども、その文化の混乱の事については、
話したくない人が、かなり今でもいらっしゃる事、これも現実です。
小津監督作品「お早よう」について、
「三丁目の夕日」との違和感を書いた回がありました。
頑張って、生活を作った日本の都市部の姿と、
若い人が残らず都市部へ出て行った地方の感覚の、もの凄い差について、
その違和感の原因は、こういう話を一足飛びにして、
物事だけを集めた作品とする、
その感性のやり場のない違和感です。
私にとって、最近一番違和感を覚えたのは、
東武動物公園で、4年前からやっている
「ほたリウム」です。
良ければ一緒に考えてみてください。
http://www.tobuzoo.com/zoo/feature/hotariumu/
そもそも、ほたるは、水が美しい環境で育つものです。
里山の存在や、適度な人と自然の均衡が取れている地域でのみ、
生きているのです。
東武動物公園さん、こういう例でとりあげちゃってごめんなさいね。
だけど、博物館で展示物として物を陳列するに等しい事じゃないかしら。
一年を通じてホタルを飼育して、それを営利で鑑賞するという事ですから、
私には違和感、となってしまいました。
私が東京から引っ越してきた、この愛媛県には、
普通にホタルの大群生が鑑賞できる場所があちこちあります。
それは、季節の約束事です。
ホタルが四季を感じずに営利活動の為に、
生かされているなんて、ちょっと普通、考えたくないと、私は思っちゃう。
何で、どうして、それをしなくちゃいけなかったのかしら。
この活動を通じて、何かいいことしてくれているのか、
主催側の意図がわからなかったな~。
いいのか、どうなのか、人って気が付かずに
足を踏み入れちゃう領域があるわけです…。
それを考えるきっかけとして、取り上げちゃいましたが、
本当に、どうなんでしょう。
いいと思って、買ったもので芸をして、「~風」とかいう言葉でぼかす、
これは、私の先輩が、もっとも恥知らずとしていたやり方ですが、
最近は、知らないから、本当に素敵な愛好家さんが、
知らずにやっている事があります。
私は、先輩から、見て聞いて、覚えて怒られて、磨いてやり直して、
OKもらって、また手直しして、また新しい工夫をして、先人の知恵も入れて、という
果てしない繰り返しは、無駄にしたくないのです。
手放したくない、日本の芸事の伝え方の良さ、
これを知っている事の大切さ、
言っておかなくちゃいけない事を、責任を持って伝える心というか、
役目です。
道具は、人の心がしみこんだものです。
それを使う側は、それを受け継ぎます。
大量生産の品、それに心を入れるのは、
演じ手の気構えです。
それを生産している側が、ただの大量販売目的の品を売っているのかどうかも、
実は知っておかなくちゃいけなかったりします。
買った品で、芸をするには、知らなくちゃいけないこと、
それから、先人の心を生かすこと、
責任の取り方をきちんとしていくこと、
かなり大切です。
実際は、地域の文化との融合をはかるのが、本来の技芸ですから、
交流もその要となります。
交流を間違った方向へ向けないための、広いお付き合いが必須ですし、
権威主義にならないように、柔軟な窓口にしておかなくちゃいけません。
日本の技芸は、そこが日本の伝え方の「漢字文化」から来る、
「伝え方の認識の所要時間の長さ」が「欧米側由来の記号文化の伝達速度」に、
同列で語れない「不平等」のスタート地点を設定していた事が、
今の私たち日本の伝統的大衆芸の置かれている、位置といえるでしょう。
もっと、いろいろな考え方を、吸収しなくては、と思っています。
私が芸人として初めて仕事を頂戴した時、
南京玉すだれの先生の一門に入り、
私自身は父 源氏太郎の弟子という形で、
芸名を源氏うららと名乗ってステージに上りました。
赤坂、江古田、川崎、花園など、お祭舞台で
もっぱら活動しながら、
行儀見習いの時期を約1年半過ごしました。
楽屋で、「地球の上に朝が来る~」でお馴染み、
大々先輩のものすごい迫力に押されっぱなしだった事、
初めて父と離れて一人で掛川の現場に入って、
仕事を無事に終えて帰ってきたときの
夕焼けの東長崎駅を思い出します。
佐渡の史跡の能舞台の近くで、
地元の方に父と母の音曲漫才をご覧頂いた時
私も荷物持ちで同行した時に、考えた事があります。
思えばその頃から、地元の芸能の活動と、
私たち専業の芸人との幸せな関係に、
感動する機会があったのだなと、今思うのです。
郷土芸能という枠に入っている、地元の生活と密着した奉納芸や、神楽、季節の行事がありますが、これも、地元の人の生き方と、仕事、そしてそれを大切に思う有志の心がつながって、数千、数百年と継続しています。
しかし、現在のように、バラバラになりつつある地域の人のつながりは、そういう活動の意味を説明できる方の減少、そして経済的な悪条件が重なる事で、一層希薄になっています。
芸能に、維持保存や復元、交流そして伝達という日常の作業があることで、その継続性は保たれていますが、
技術だけを世界の芸と並べて考えている人は、ぜひ、
その他の国から来た無国籍の芸をしている人に問うて欲しい。
「なぜ自分の国の芸を、自分の国でしないのか。」
そして、その質問はそっくり自分にも、返って来る。
実際、私の先輩が、数十年前に海外のフェスティバルで参加公演をした当時、
どこへ行っても、そういう質問を受け、大変ショックを覚えたそうです。
私自身、台湾の宜蘭県でユネスコ傘下のCIOFF公演に4回招待参加したときに、
この体験談を伺っていたから良いものの、
歯に衣着せぬ質問が、全体会議で飛び交う現場には、
本当に恥ずかしいやら、力及ばずで、情けない気持ちになりました。
経済的に恵まれている諸国と、
紛争地域や経済的に余裕が無い国々、
まったく交流を持たなかったら、どうなるのか。
きっと疑心暗鬼の渦は、子供の踊りや歌、遊びなど
弱々しいほのかな文化の芽など、
どう考えても残る環境とは思えません。
そもそも、芸をするという考え方に、海外の人よりも、
危機感が伴っていないのが、
そういう場へ行った時に、はっきりとした言葉、
英語で会話して「あぶりだされる」ようにくっきり浮かび上がるようなもので、
紛争中の国から来た子供の世話をしていたCIOFF(ユネスコ傘下の民俗舞踏や文化の団体です)担当官から
フェスティバルよりも、もっと援助に金を回してくれっ!
という怒りの声を生で聞いた私の心は、
ズキズキ痛んで今もどうしようもなく、
ただ、出会う芸の愛好家やら芸人仲間に
本当の事を伝え続ける機会をひたすら使って
この話やら風土に根ざした先祖の文化を大事にして欲しいと、
しつこく言うだけなのです。
まだ、私が芸人になった昭和の頃、
日本各地では郷土の風習から成る季節の行事は、
地元の古老の記憶がその維持を頑固に守り抜いていたわけです。
しかし、今は平成。
その亡くなった後の記憶を守るのは、私たち、明治の人や大正の方と
直接話した世代です。
折りしも、JunkStageの
キョンばあさんが亡くなられ、
私の師匠 三増紋也も大正14年生まれで昨年7月に亡くなったから、
一層その日本が持つ記憶について、
大切な物を失わないように、
思いを強く持つだけです。
どうか、地元の文化を大切になさってください。
交流を持ってください。
無くなってしまう郷土文化、地元の囃し、言葉、
風土に根ざした食べ物、それを取り巻く祝祭の決まりごと、
食べ物を輸送する為に笹の葉や竹、桜の樹皮、様々なものを使って来た時代を、
どうぞ、忘れないでください。
ただ、今の日本がしっかりとした郷土の文化との交流のもと、
芸のフェスティバルを主催する側が
政治のエサとしてこれを利用する事がないように、
切に願います。
次回は、誰も知らないかもしれない、先輩のしている功績について書くつもりです。
本当に、実は、専業の芸人こそ、
こういう事実はどこかで誰かがお知らせしておかなくては、
芸の愛好家さんや、他の国から来て「日本の文化は貧しい」と感じるような、
困ったフェスティバルを補足する方法がない、と私は思います。
私がこちらJunkStageさん、須藤さんのご依頼を受ける形で
コラムを書かせていただいていて、2011年秋からそろそろ4ヶ月。
それ以前と今との明らかな違いが生まれ始めている。
物事を順序だててわかりやすく表現する事の大切さを感じた事。
これはもちろんだけれど、最も私にとってこれからの財産となる重要な事柄がある。
15年間出演し続けた東京の寄席に慣れて、年を追うごとに弱ってしまっていた
「曲独楽」の魅力を語る力の再構築。
私にしかできない曲独楽の形は、
このコラムで曲独楽の歴史、日本の大衆文化、世界の芸能とのかかわり、
今各地に点在する曲独楽愛好家や、曲独楽師、
曲独楽製作側の職人さんや美術家先生、
その話をまとめていくことで、少しずつ自分自身が納得できる
「私の曲独楽の姿」を練り上げる助けになっている。
そんな中、NHK地方局ではなく、今回は全国放送で曲独楽を生中継。
内子町町並み保存地区を
歩きながら回すことになりそうだ。
以前、芸歴10周年の頃NHKの「この人この芸」で、
30分ワンマンショー形式で曲独楽を演じた時に、
歴史的にも貴重な演目を再現できたけれど、
今ほど江戸の芸の資料閲覧に解説がついていなかったから、
草書書きが読めている自信が無く、口上を使えなかった事など、
資料の活用や、客観的な描写力不足が思い出される。
とまあ、こんな心持ちで、またひとつの区切りを自分に設け、
久しぶりに来た生中継で、どんなふうに曲独楽が、
江戸から明治の人の歴史を刻む
愛媛県の内子町 八日市護国町並み保存地区に映るのか、
来る3月7日のNHK総合テレビ「昼ブラ」生中継を、楽しみたいと思っています。
スタジオや寄席と違う、開放的空間ですので、期待してください。
ところで前回の小津安二郎監督作品「お早よう」のコラムで書いた感想ですが、
また気になる事が長男の行動と関連して発生いたしました。
とかく、物と金、そして人の心持ちの関係というのは、現代だけでなく、江戸時代ですら
今の若い人は行儀が悪い…との愚痴を生み、
そのような町の落書きを瓦版で伝えてきたり、様々な事があったといいます。
その江戸時代から続く、時流に乗って物の価値を知ることなく、
ただ漫然と金で手に入れたり、ただ黙って座ったまま何か特別な事を期待している…
変わらない日本の町衆の姿が見えてきます。
長く自然の中で共に工夫して暮してきた日本人ですが、むしろその普段の知恵を、
記録に残さずに置くというような癖がある。
貴重な普段の知恵を、その場で活用し、評価があった時代は、
今はしかし、もう、来ないかもしれない。
日本の野菜のおいしさの数値をコンピューターデータ化し、野菜を工場生産して
アジアマーケット進出を図る話に、
見事に回答を出したのは、韓国の企業だったし、
(欲しいのは日本の野菜でなく、データのみ)
日常を描写する事が弱体化した、普段の日本語の弱みに付け込むように、
公共的役割の番組制作にも、そこを気が付いていない安易な合言葉
「B級グルメ」のような恥を知らぬ食材文化をおとしめるようなキーワードの登場。
息子がちょっとした事で私に教えてくれるのは、この「気付き」であり、
私自身の恥ずかしさだ。
当たり前は、自分手前であり自分勝手なルールだから、
自分自身を作っていく子供には、それぞれが個性に合った「落ち着く日常文化」を
理解しておいて欲しい。
日本の文化の凄いところは、
きっと私が今書くような直接的批評ではなく、
作品や表現に投影して「暗に」観る側の判断に任せていたゆとりを生む日本語で
それを語り伝える事ではないかと思う。
台湾は今でも、英語をカタカナ表記する日本と違い、
すべてを漢字で書いている。
学校の字でも、学校でなく、旧字体の難しいほうを書いているくらい、
自国の言葉を大切にしている。
もう少し、日本でも、何とかならないか。
こんな事を、諦めるように曲独楽を演じるときに
無言でニヤッと笑う、エンターテイメントショーに擦り寄る形を良しとするか、
それとも、太神楽の精神性を失って久しい洋風曲芸のように、
由来を知らない欧州の「商品化された曲芸道具」を輸入して曲独楽と連動させるか。
いや、
私には、やはり古くてお馴染みの江戸曲独楽の様式が、日本語のように大切だから、
自然と一体化する日本の曲独楽の特性を、どうにかしてお伝えしたいと思う。
多くを語らずに。
次男の感染のおかげで休みが続いた
地元のレンタルビデオ屋さんが繁盛したかもしれない
我が家は12本借りた
その中に 「お早よう」 小津安二郎監督作品があった
私は以前 NHKBSのテレビ放送で 見たので多少憶えていた
前回見たときは 気が付かなかった事が 今回わかった
中心の話題はまず テレビがない家の話だったけれど
電話も さほど 活用されていなかったようで
ご近所の噂話の広がり方とか
若い人の恋心の描写に
今ほど 電力を消費しつつ 人同士の交流をしている時代は無いのじゃないかと思った
一人一人の心の行方というのは、いつの時代も同じと思っていたけれど、
この「お早よう」を見ていたら
そうとも言えないことに気が付いた
私の子供の頃の記憶と
微妙に同時代の風景を見られた「お早よう」だけれど
同じ週に公開された続編の呼び水としてテレビ放映された「三丁目の夕日」
この作品と 時代設定がほとんど同じではないか
「お早よう」は昭和34年公開
「三丁目の夕日」の宣伝コピーに
昭和33年
「携帯もパソコンもテレビもなかったのに
どうしてあんなに楽しかったのだろう。」
とあって、
画像処理の多い画面に 目まいを感じた私には
その感覚は見事に働かなかった
両方を見終わって もう数週間が経つけれど
もし 同じように
並行して見て
何とも納得いかない感じがするのは 私だけでは無いと思う
私にとってこの違和感は
江戸の芸の雰囲気を探し求めたり
先祖の生きていた時代の人の心を探る動機に関係する
芸として 私のコマの曲芸曲独楽や
手品マジック手妻
そして太神楽曲芸アクロバットジャグリング
このような事を考える時
一般的に 一番目に付いた事を話題にするのが 普通のお客さんの反応であり
技術にこだわるのが 愛好家
専業の芸人はといえば
自分達の表現の根の部分を いかにお客さんに ご理解いただいているか
そのわずかな心の交流の機会として与えられる
舞台での演技中に どうしたら心を配っていられるかという事
私の 芸を見ている人に わかってもらいたい事は
ここで書いたら わかってしまうから 書けないけれど
私にとって とても大事な事柄なのだ
ところで 技術の鍛錬自体は さほど難しい事ではなく
専業芸人であるならば 当然出来なくてはならない
だから 技術は あえていえば
すぐに愛好家の餌食になる運命なので
多少現代のような 電力を駆使した文化中心の志向で構わぬという
大衆の登場においては
この絶好の機会を 逃すはずは無く
YOUTUBE ニコニコ どこへ行っても 無法状態に陥っている感がある
アメリカ式でいいというならば 著作権を行使し
法律規制となる
でも ここは日本だから
あくまで 自己規制
本人の理性に任せられている
でも どういうわけか
そういう事をしている人に限って
気が付いていないのが
私は悲しく思う
かつて 小津安二郎監督が「お早よう」を製作した頃のように
専業と 愛好家の 明らかな区別を
一般大衆がマナーとして 自慢しあっていた昭和30年代
テレビの大衆化で
国民総白痴化(「お早よう」での台詞から)が 現実に始まった昭和40年代
舞台演劇寄席芸能が 経営で苦しんだ 昭和50年代
経済空洞化バブルによる 海外文化の流入と 無抵抗だった大衆文化への打撃の
昭和60年から平成ヒトケタ
そして 納得がいかないのは
大衆文化に正当な評価と 問題点の分析をすることなく進む今の補助 助成制度
根本的に 解決しなくてはならない点を無視し
橋下大阪市長にNOと言われるまで
慣習のように何処の予算も 心を置いたまま施行されてしまい
一向に後継者だけでなく 現役専業側の 本当の実力を引き出すことなく飼い殺していく
気が付かないシステムに なっている事が 問題なのであって
私は そこをどうにかして 改善の方向へ 差し向けていきたいと思う
善き効果として こんな利点がある
純粋に 己の技術を探求できる 愛好家の熱心さは 専業芸人の心を豊かにし
専業芸人の それぞれの思いの丈を垣間見たお客さんが 発奮して時代を豊かにする
また それを 提供できるメディアや 寄席席亭 芸能社 プロデューサーは
寄り添って 共に歩いていて欲しい存在だから
いつの時代も 専業芸人の言葉には どうか 注意を向けていてもらいたいと思う
電力利用の伝達文化には ほとんど経済的ルールのみで突進しているけれど
テレビ登場の昭和30年代には
怖い先輩が大勢居て
昭和50年代まで 健在だった
そろそろテレビ関係の御大もお考え頂きたいのは
各世代の各界の交流の場の提供
地方局の活用を考え 地域ごとに交代で開催するメディアイベントを常時すること
今のままでは 都市と地方の交流は 限界だし
フェアじゃない
地方から何でも奪い去らず 都市はダイエットするべきだ
放っといたら 機能不全が目に見える
電力をカットして 家族と話し
自分を求めてくれる者と 豊かな心を育て
時間をかけて 自分の為に何かして
本を読み
美しいものを見定める力を蓄えて欲しいと思う
過剰も 疑心暗鬼も無い
一日の終わりに 満ち足りて健康的に眠り 朝陽を空腹で迎える
私が東京都豊島区から愛媛県内子町に移住した体験は ちょっと言葉にはしにくいけれど
物事の順番を 季節のように整え直して
今その作業を二人の息子から 教えてもらっています
ひとつひとつ。
芸人として 最初は父 源氏太郎のかばん持ちで同行 その時の話
日Oテレビの某バラエティーで
今は画伯としても通しているタレントの方の生番組だったが
本人が遅刻 にもかかわらず ゲストの父と あと数人を待たせたまま
自分の物まねだけ 数十分演じた
終わったのは 多分番組終了まで 5分もなかっただろう
父はあまりの失礼な態度に 芸をせず黙って帰った
私は その時 テレビ担当側タレントと
芸人が相容れない現実の一部始終を見たのだった
後日談がある
どういうわけか その画伯とは5年ほどあとに ヘンなタイミングで遭遇した
私の曲独楽を製作してくださるI先生の本業は壁画家だからアトリエが大きい
その大きな作品を制作するために7代目神田明神の氏子で チャキチャキ江戸っ子先生は
竹の山付きの大きな 湯河原の新築へ 移住したのである
画伯がFテレビの旅取材でたまたま私の友人の料理店に行き
店頭で見かけた竹の子が
曲独楽製作待ち時間に I先生の庭で 私が掘り出した 土付き新鮮竹の子
取材の話題が少なかったらしく 敷地で竹の子を掘らせてくれと 切望されたけど
I先生に代わって 私が父の敵討ちで 断って差し上げた
画伯で仕事して某地では美術館まで持つ タレントの方と
正真正銘の美術家だけど
曲独楽製作中で 木屑除け作業服の I先生との
あまりにも均衡のとれないワンショットを想像すると
あの時断って良かったなと 今でも思う
芸を育てる栄養は 色んな味がする
備前焼の若い作家さんと話す機会があった
薪で焼き物を製作しているのに
何故自宅に薪ストーブを使う事が出来ないのか疑問に思っていたそうだ
ところで
亭主の店では
薪ストーブを使用して
3年ほどになる…
自分で屋根に穴を開けて
知人と一緒になって
床を塗ったけれど
防火の意味で
江戸時代からの漆喰で塗り固めた この建物は
今考えても 相当すごいと感じながらの作業だった
さてその若い陶芸家さんの話に戻ると…
薪を集めるのは 備前を焼くとき使うので
さほど大変ではないそうだけど
薪よりも 豊富な竹を
利用できないものかと 考えていた所
かわせみで 竹を使うのを見て
それが何かの決断になったらしい…
有難うございます 参考になります
と おっしゃっていた
かわせみに来て 良かったと 感じてもらえたのはうれしい事だ
今頃の料理店は どこへ行っても
地元産 安心素材とか シェフの有名度を競うし
取材中心の店作りが大多数になった
自分のやり方を 通さずに
たやすく変更されていくその店らしさというのは
一体何だろうか
確かに 店に入って いろんな店のルールを理解するのに
一定の喜びはあるかもしれない
でも 店は 小さな地方の町の場合
生活と直結している事が当然なのだけど
このごろの店にありがちな違和感は
風土に寄り添う考え方を 料理の宣伝でしているのと反対に
店の魅力作りとなると とかく 人工的な建築になっていることが多い
それは 経営である
お客さんの数である
訪れる人の少ない 地方の小さい町
その場所の魅力とは
住んでいる人の 工夫の姿であり
それを大切に寄り添う 生かす人の存在が見える事だと思う
私は この愛媛県 内子町に来る時に
寄席での 曲独楽の演技が格段に減る事と引き換えに
芸の生まれる 時 場 人の関係を探しあてる事を ぼんやりと目標に選んだ
そして 今 毎日の時間の流れと
変わっていき少しもとどまらない人のありようを
少しずつ 生活に織り込んでいく作業を始めようと思う
私の中で離れていた 生活と曲独楽がひとつになって
ようやく 私の曲独楽が出来ていくのだろうと思う
家族の風邪が治るのを待つ 学級閉鎖の2日間に考えた事