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私が芸人として初めて仕事を頂戴した時、
南京玉すだれの先生の一門に入り、
私自身は父 源氏太郎の弟子という形で、
芸名を源氏うららと名乗ってステージに上りました。
赤坂、江古田、川崎、花園など、お祭舞台で
もっぱら活動しながら、
行儀見習いの時期を約1年半過ごしました。
楽屋で、「地球の上に朝が来る~」でお馴染み、
大々先輩のものすごい迫力に押されっぱなしだった事、
初めて父と離れて一人で掛川の現場に入って、
仕事を無事に終えて帰ってきたときの
夕焼けの東長崎駅を思い出します。
佐渡の史跡の能舞台の近くで、
地元の方に父と母の音曲漫才をご覧頂いた時
私も荷物持ちで同行した時に、考えた事があります。
思えばその頃から、地元の芸能の活動と、
私たち専業の芸人との幸せな関係に、
感動する機会があったのだなと、今思うのです。
郷土芸能という枠に入っている、地元の生活と密着した奉納芸や、神楽、季節の行事がありますが、これも、地元の人の生き方と、仕事、そしてそれを大切に思う有志の心がつながって、数千、数百年と継続しています。
しかし、現在のように、バラバラになりつつある地域の人のつながりは、そういう活動の意味を説明できる方の減少、そして経済的な悪条件が重なる事で、一層希薄になっています。
芸能に、維持保存や復元、交流そして伝達という日常の作業があることで、その継続性は保たれていますが、
技術だけを世界の芸と並べて考えている人は、ぜひ、
その他の国から来た無国籍の芸をしている人に問うて欲しい。
「なぜ自分の国の芸を、自分の国でしないのか。」
そして、その質問はそっくり自分にも、返って来る。
実際、私の先輩が、数十年前に海外のフェスティバルで参加公演をした当時、
どこへ行っても、そういう質問を受け、大変ショックを覚えたそうです。
私自身、台湾の宜蘭県でユネスコ傘下のCIOFF公演に4回招待参加したときに、
この体験談を伺っていたから良いものの、
歯に衣着せぬ質問が、全体会議で飛び交う現場には、
本当に恥ずかしいやら、力及ばずで、情けない気持ちになりました。
経済的に恵まれている諸国と、
紛争地域や経済的に余裕が無い国々、
まったく交流を持たなかったら、どうなるのか。
きっと疑心暗鬼の渦は、子供の踊りや歌、遊びなど
弱々しいほのかな文化の芽など、
どう考えても残る環境とは思えません。
そもそも、芸をするという考え方に、海外の人よりも、
危機感が伴っていないのが、
そういう場へ行った時に、はっきりとした言葉、
英語で会話して「あぶりだされる」ようにくっきり浮かび上がるようなもので、
紛争中の国から来た子供の世話をしていたCIOFF(ユネスコ傘下の民俗舞踏や文化の団体です)担当官から
フェスティバルよりも、もっと援助に金を回してくれっ!
という怒りの声を生で聞いた私の心は、
ズキズキ痛んで今もどうしようもなく、
ただ、出会う芸の愛好家やら芸人仲間に
本当の事を伝え続ける機会をひたすら使って
この話やら風土に根ざした先祖の文化を大事にして欲しいと、
しつこく言うだけなのです。
まだ、私が芸人になった昭和の頃、
日本各地では郷土の風習から成る季節の行事は、
地元の古老の記憶がその維持を頑固に守り抜いていたわけです。
しかし、今は平成。
その亡くなった後の記憶を守るのは、私たち、明治の人や大正の方と
直接話した世代です。
折りしも、JunkStageの
キョンばあさんが亡くなられ、
私の師匠 三増紋也も大正14年生まれで昨年7月に亡くなったから、
一層その日本が持つ記憶について、
大切な物を失わないように、
思いを強く持つだけです。
どうか、地元の文化を大切になさってください。
交流を持ってください。
無くなってしまう郷土文化、地元の囃し、言葉、
風土に根ざした食べ物、それを取り巻く祝祭の決まりごと、
食べ物を輸送する為に笹の葉や竹、桜の樹皮、様々なものを使って来た時代を、
どうぞ、忘れないでください。
ただ、今の日本がしっかりとした郷土の文化との交流のもと、
芸のフェスティバルを主催する側が
政治のエサとしてこれを利用する事がないように、
切に願います。
次回は、誰も知らないかもしれない、先輩のしている功績について書くつもりです。
本当に、実は、専業の芸人こそ、
こういう事実はどこかで誰かがお知らせしておかなくては、
芸の愛好家さんや、他の国から来て「日本の文化は貧しい」と感じるような、
困ったフェスティバルを補足する方法がない、と私は思います。