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私がこちらJunkStageさん、須藤さんのご依頼を受ける形で
コラムを書かせていただいていて、2011年秋からそろそろ4ヶ月。
それ以前と今との明らかな違いが生まれ始めている。
物事を順序だててわかりやすく表現する事の大切さを感じた事。
これはもちろんだけれど、最も私にとってこれからの財産となる重要な事柄がある。
15年間出演し続けた東京の寄席に慣れて、年を追うごとに弱ってしまっていた
「曲独楽」の魅力を語る力の再構築。
私にしかできない曲独楽の形は、
このコラムで曲独楽の歴史、日本の大衆文化、世界の芸能とのかかわり、
今各地に点在する曲独楽愛好家や、曲独楽師、
曲独楽製作側の職人さんや美術家先生、
その話をまとめていくことで、少しずつ自分自身が納得できる
「私の曲独楽の姿」を練り上げる助けになっている。
そんな中、NHK地方局ではなく、今回は全国放送で曲独楽を生中継。
内子町町並み保存地区を
歩きながら回すことになりそうだ。
以前、芸歴10周年の頃NHKの「この人この芸」で、
30分ワンマンショー形式で曲独楽を演じた時に、
歴史的にも貴重な演目を再現できたけれど、
今ほど江戸の芸の資料閲覧に解説がついていなかったから、
草書書きが読めている自信が無く、口上を使えなかった事など、
資料の活用や、客観的な描写力不足が思い出される。
とまあ、こんな心持ちで、またひとつの区切りを自分に設け、
久しぶりに来た生中継で、どんなふうに曲独楽が、
江戸から明治の人の歴史を刻む
愛媛県の内子町 八日市護国町並み保存地区に映るのか、
来る3月7日のNHK総合テレビ「昼ブラ」生中継を、楽しみたいと思っています。
スタジオや寄席と違う、開放的空間ですので、期待してください。
ところで前回の小津安二郎監督作品「お早よう」のコラムで書いた感想ですが、
また気になる事が長男の行動と関連して発生いたしました。
とかく、物と金、そして人の心持ちの関係というのは、現代だけでなく、江戸時代ですら
今の若い人は行儀が悪い…との愚痴を生み、
そのような町の落書きを瓦版で伝えてきたり、様々な事があったといいます。
その江戸時代から続く、時流に乗って物の価値を知ることなく、
ただ漫然と金で手に入れたり、ただ黙って座ったまま何か特別な事を期待している…
変わらない日本の町衆の姿が見えてきます。
長く自然の中で共に工夫して暮してきた日本人ですが、むしろその普段の知恵を、
記録に残さずに置くというような癖がある。
貴重な普段の知恵を、その場で活用し、評価があった時代は、
今はしかし、もう、来ないかもしれない。
日本の野菜のおいしさの数値をコンピューターデータ化し、野菜を工場生産して
アジアマーケット進出を図る話に、
見事に回答を出したのは、韓国の企業だったし、
(欲しいのは日本の野菜でなく、データのみ)
日常を描写する事が弱体化した、普段の日本語の弱みに付け込むように、
公共的役割の番組制作にも、そこを気が付いていない安易な合言葉
「B級グルメ」のような恥を知らぬ食材文化をおとしめるようなキーワードの登場。
息子がちょっとした事で私に教えてくれるのは、この「気付き」であり、
私自身の恥ずかしさだ。
当たり前は、自分手前であり自分勝手なルールだから、
自分自身を作っていく子供には、それぞれが個性に合った「落ち着く日常文化」を
理解しておいて欲しい。
日本の文化の凄いところは、
きっと私が今書くような直接的批評ではなく、
作品や表現に投影して「暗に」観る側の判断に任せていたゆとりを生む日本語で
それを語り伝える事ではないかと思う。
台湾は今でも、英語をカタカナ表記する日本と違い、
すべてを漢字で書いている。
学校の字でも、学校でなく、旧字体の難しいほうを書いているくらい、
自国の言葉を大切にしている。
もう少し、日本でも、何とかならないか。
こんな事を、諦めるように曲独楽を演じるときに
無言でニヤッと笑う、エンターテイメントショーに擦り寄る形を良しとするか、
それとも、太神楽の精神性を失って久しい洋風曲芸のように、
由来を知らない欧州の「商品化された曲芸道具」を輸入して曲独楽と連動させるか。
いや、
私には、やはり古くてお馴染みの江戸曲独楽の様式が、日本語のように大切だから、
自然と一体化する日本の曲独楽の特性を、どうにかしてお伝えしたいと思う。
多くを語らずに。