こんばんは、酒井孝祥です。
山梨公演も終盤に入ったとき、共演者から何気なくこんなことを尋ねられました。
「今回の公演で楽しかったことは何か?」
しかし、その問いに対し、とっさには答えが出てきませんでした。
ようやく出てきた答えは、“東京公演の雨天会場での実施日の前説”でした。
物凄くギリギリな状況で本番を迎えようとする中、また、折角野外での公演を楽しみにしてきたのに残念な想いをしているかもしれないお客様がいる中で、努めて明るい表情で、出演者として一番最初にお客様の前に姿を現しました。
“野外にも劣らないクオリティの公演を届ける”という気持ちをを伝えたいという意志を持って出て行ったときに、客席から温かく迎えられた瞬間は、とても幸せなものでした。
しかしながら当然、
「前説じゃなくて、本編では何もないのか?」
というツッコミが返ってきます。
けれど、思い返してみても、こうやりたかったのに出来なかったという反省点や、あまりにも大変過ぎて、それをやり遂げることだけで頭がいっぱいだったことばかりです。
あまりもの不甲斐なさに、自己否定的な気持ちに支配されてしまったことも少なくありません。
もちろん、作品を観ていただいたお客様のほとんどには大喜びしていただいており、それは提供した側にとってもこの上なく喜ばしいことです。
しかし、自分は出演者の一人としてこの舞台に立つことを楽しめていたのかと問われれば、楽しむことは出来なかったとしか答えられません。
そうなると、散々な苦労をして、多くの時間を費やし、チケット販売の負担を負ってまで、なぜこの公演に参加したのか分からなくなってきます。
しかし、逆説的に考えてみて、この「今昔舞踊劇」のという公演の存在を知っていながら、何らかの事情でそれに出ることが出来なかったら、もどかしくて仕方のない自分が想像されます。
成さないで悶々としていたことを思えば、成し遂げたことは、何と価値のあることでしょう。
果たして、酒井にとってこの公演に出たことは何であったのだろうか…?
ふとこのコラムの画面を見ていたら、酒井の肩書きである“古典芸能修行中”の文字が目に入ってきました。
そして気が付きました。
そうか、酒井にとってこの「今昔舞踊劇」とは修行であったのだと。
そして酒井の修行はまだまだ続きます。
恐らく一生続くでしょう。
そんな締めで、“今昔舞踊劇への道”の連載を一旦終了させていただきます。
お読みいただきました皆様、本当にありがとうございました!
次回は、「声優と古典芸能」(古典芸能)をテーマにしたコラムをお届けします。