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2013/10/05

皆さん、おはようございます。
パートナーの初期設定が、プリマドンナのソプラノとブッフォバス、
プリモテノールとセコンドのソプラノ、という
いわば捻じれた状態にあること、
そして、そのパートナーとのデュエットはなく、
交換したパートナーで、声の設定的には健全ともいえる、
その組み合わせのデュエットは与えられている、
ということを前回申しました。

なぜそうなっているのか、
モーツァルトの狙いは何なのか、
考察してみたいと思います。

オペラの筋としては、予定調和を良しとしていた貴族社会のこととて、
初期設定どおりに収まって幕、ということが
観客にとって心地良いものであったことは間違いありません。
しかしその一方で、プリモテノールとプリマドンナがパートナーでない、
ということにも違和感を覚えたはずです。

ここで選択肢は二つあります。
形としては予定調和で終わらせて、
しかし組み合わせに違和感のある人たちに、
暗に「それでいいのか?」と間接的な問いを投げかける方法。
しかし、これは当時の観客にしか通じません。
なぜなら、現代の観客はそれ以降のオペラを知っています。
必ずしもプリモテノールとプリマソプラノの恋物語だけが
オペラになっているわけではないことを知っています。
つまり、違和感を覚えてくれないのです。

そんな前提を共有できていない状態で予定調和をやらかしても、
単に元の鞘に収めたようにしか見えないものです。
それでは、「それでいいのか?」という問いは成立しません。

そこで、もう一つの方法が有効になってきます。
予定調和を崩してしまう方法です。
しかし、これは問いではなく、
解答を提供する行為になります。
結論を演じてみせるのですから。

しかし、私は基本的に後者の方法をとります。
モーツァルトの作曲意図が、などという専門的なことではなく、
モーツァルトがこの作品を通して見える現実について、
何を望んでいたのか、ということです。

そこでクローズアップされてくるのが、彼の私生活です。
アロイージアはモーツァルトを振ったには違いないけれど、
その後のモーツァルトの行動から察せられるに、
愛情以外の諸事情があって振ったことをわかっていたのでしょう。
ウィーンに出るなり、ランゲ夫人となっていたアロイージアに会いに行き、
その後もアロイージアのために曲を書き、
オペラの初演、ウィーン初演を任せているのですから。
感情的に決裂してしまった人間に、
私は音楽を書いて初演させるなどということはできません。

結果的にアロイージアとはダブル不倫の関係になりましたが、
もし欲求のままに行動することを許されるのであれば、
コンスタンツェとは別れて、アロイージアと再婚したかったでしょう。
私が思うに、フリーメーソンへの傾倒についても、
アロイージアと結ばれていたならば、
現実のそれと程度が同じだったかどうか、疑わしいものを感じます。

アロイージアはパリ旅行中のモーツァルトが死の床にある、
というような誤報に接しては教会で祈りを捧げ、
妻コンスタンツェが参列もしなかったモーツァルトの葬儀に参列し、
埋葬にもついていき、参列者が途中で引き返さなければ、
きっと埋葬完了まで見届けたであろうほど、
モーツァルトを愛し、後年、取材者に対しても、
「彼は生涯私を愛してくれた」と語るほど、
モーツァルトを愛した、優しく、才能豊かな女性で、
モーツァルトもそんな彼女を愛し、尊敬していたのです。
果たして、現実の傾倒ほどに
フリーメーソンに傾倒していたでしょうか?

そうなれば、貴族社会から締め出されることも、
あの年齢で死んでしまうこともなく、
天寿を全うできたかもしれないのです。

このようなタイミングの悪さは、
私がモーツァルトを最も可哀想に思うところです。
ならばせめてフィオルディリージにアロイージアを見出し、
モーツァルトの愛情を象徴するフェランドと結んでやることで、
彼の無念を慰めてあげたいと思うのです。
それが、私をこうして生かしてくれている、
モーツァルトその人への恩返しになれば、この上ない喜びです。

そして、それこそが私の、私自身、皆さんに対する、
愛情問題に関することの答えとなります。

2013/10/05 12:54 | bonchi | No Comments