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皆さん、おはようございます。
好き、大好き、惚れたなど、色々言葉はあるでしょうが、
その上を行く言葉があります。
ある意味絶対の言葉なのですが、「愛する」ということ。
通常、仏教では「愛」と言えば否定的な捉え方の言葉です。
それは、「渇愛」という言葉を基にしているから。
読んで字の如く、渇きに似た愛着のことを言います。
これは異性に限らず、物でも金でもペットでも、
貪るが如き愛情を注ぎ込むことなのです。
「愛別離苦」という言葉があります。
「愛する対象と離れる苦しみ」ということですが、
この苦しみこそ、「渇愛」を最も端的に説明する言葉でしょうか。
そして、仏教ではおよそ、
「愛欲」という言葉を使う時、
渇愛から派生するすべての感情を指します。
しかし、密教ではそれを否定しません。
後期密教に至っては、昇華した愛欲のみならず、
下卑た、と認識されるような愛欲に至るまで、
すべてをエネルギーの源とせよ、と考えます。
私の愛欲の一端を実例でお話ししましょう。
フィガロの結婚というオペラがありますが、
3幕に裁判の場面がありますが、
そのレチタティーヴォ・セッコを、
あるキャストのために私がピアノを弾き、
そのキャストには楽譜を見せて、
私は暗譜で、他のパートも歌って弾ききった、
という「パフォーマンス」をしたことがあります。
他の人、その場面の他のキャストもいたのですから、
これは相当いやらしいパフォーマンスで、
普段の私ならやりません。
私はこのキャストに伝えたかったのです。
私がフィガロというオペラをどれだけ愛しているか。
傍目から見たら、
俺これだけ勉強してんねんから、お前もやれや!
という圧力に見えてしまうかもしれません。
でも、実際に私が願っていたことは違います。
俺、こんだけこのオペラ愛してるんやから、
その愛を心底理解して頑張ってくれ!
そう切実に願ったのです。
果たしてその気持ち、どれだけ通じたでしょう?
こんな気持ちも、私の愛欲です。
その時は、他に伝える手段を思いつきませんでした。
正直なところ、私のためだけに、でいいから頑張ってほしかった。
私の愛を形にしてほしかったのです。
正直、徒労でしたけどね。(笑)
もう二度とお会いすることはないでしょう。
いえ、あってはならないことです。
この拒否感も、愛欲の一形態です。