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こんばんは、酒井孝祥です。
僕はかつて、一般客として2回今昔舞踊劇に足を運んでいるため、そのレパートリーの中から10作品近くは客観的に観ております。
そして、お客として観ていない作品であっても、自分が出ていない作品であれば、稽古のときに、その作品の全体像を観られることがあります。
前回のコラムでも述べた、2年前に芯の役で出演したのは、 宇治拾遺物語の中の「清徳聖の寄特の話」という作品なのですが、そのときが初演だったので、客観的には観ておりません。
今昔舞踊劇の作品は、立ち回りメインの作品を除くと、恐い話か馬鹿馬鹿しい話、あるいは教訓めいた話のいずれかに分類されるものが多いのですが、この「清徳聖の寄特の話」に関しては、そのどれにも当てはまらない、不思議な内容の話です。
果たしてこの作品はお客様の目にどう映るのだろうか…と疑問に思いながらも、演出から要求されたことを1%でもクリアしようとするだけでいっぱいいっぱいでした。
きっと、演出の求めていたことに、ほとんど応えられていなかったと思います。
そして、今年の稽古に入ってから、動きの確認等のために、2年前に自分が出たそのときの映像を初めて目にしました。
もちろん、映像として視聴出来るものと、客席で体感するものはどうしても異なります。
どんなに撮影技術と録音技術が発達しようとも、自分の生の芝居をお客として堪能することが出来ないのは、俳優にとって永久のジレンマです。
そうであっても、記録映像は、自分が出演した作品を客観的に確認するのに有効なツールです。
今回、初めてその映像を客観的に見たところ、良い意味で予想外に、自分が想像していた以上に面白い作品でした。
ストーリーの展開が全く予測のつかない構造で、もし何の前知識もなしに客席からこの作品を観たとしたら、
「次はどうなるのか…?」
「そう来たか!」
の連続で、終始ドキドキしながら楽しめたことが想像出来ます。
左右等間隔に開いていたと思っていた腕のバランスが悪かったりと、良くなかったところも色々見つかりましたが、
「自分のやったことは無駄ではなかった…」
という気持ちです。
今年は、同作品に別の役で参加するのが楽しみです。