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皆さん、おはようございます。
と、久々に申し上げます。(笑)
最近、音楽と仏教のネタから離れている、
というご指摘を頂戴致しました。
実はまったく離れておらんのです。
ショートショートを掲載していたわけですが、
音楽家としてのリアルな裏事情を、
宗教家としてどう処理するか、
フィクションの形にしてホットにお届けしていた、
というつもりでしたが、
そのように受け止めていただけなかったことは
大変残念無念に思いますし、
一重に読者の読解力を引き出すことのできない、
私の文章力の無さであると、
心底よりお詫び申し上げます。
今後、フィクションの形のものは別の場所に移し、
ここでは、その具体的な解説をする場合、
当該作品の格納場所をお教えして実例を示す、
という形で進めていきたいと思います。
それなら誤解も生まれませんので。
さて、お詫びの印といってはなんですが、
最近、身を以て学んだことをお教えしたいと思います。
執着が直接的な苦悩を生んでいる場合の対処の仕方です。
最も身近な例で言えば、恋愛などが該当します。
例えば、好きな相手に会うこともままならず、
苦しさばかりが先行しているという場合です。
なぜこんなことが起きているのでしょうか?
この宇宙は何事によらず、無常、
即ち、変化するものです。
それは物であれ、心であれ、
変化しないものはありません。
そして、一般的には、変化することによる苦、
というものを説くのが仏教の王道です。
ところが、全てが絶対的にそうなのではありません。
変化しないことが苦になることもある。
その典型例が、長い間会えない恋です。
恋心というのは、正確にいえば、
相手本人に対して好意を持つことではありません。
自分の中に拵えた、相手の虚像への好意に目がくらむことです。
会えずに苦しむ理由は、その虚像が然るべく変化してくれない、
ということに尽きます。
一種の膠着状態ですね。
これに対応する方法が、ショートショートの5部作にあります。
「手紙の主」から「エピローグ」までが、
一連の作品になりますが、ここで扱っているテーマは、
虚像を変化させること、になります。
実際の対象、この作品では「あの人」本人というのは、
その人独自の変化度合いに従って変化しているだけで、
「私」の気持ちとは何の関係もありません。
胸ときめかせて持って帰ってしまった虚像が、
この作品では不気味な方向に変化しており、
そのことがきっかけで心の平安を得る、という筋なのです。
それは、物語の筋であると同時に、
リアルに生きている私の歩いている筋道でもあります。
私には、音楽家でも坊主でもない、という瞬間がありません。
トイレに入っていても、顔を洗っていても、食事をしていても、
頭の中は音楽家か坊主のどちらか、あるいは両方であり、
それがまた、修行者としての在り方でもあります。
書き連ねましたショートショートについては、
まさにそのような生き方の結晶である、
という風にお考えいただけたら幸いです。