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願主の顔を見て、私はひきつった。
小柄でぱっちりとした眼の中に知性と品性があり、
そして一途さの伺える顔立ちに、私は見覚えがあった。
しかし、名前が違う。
相手は私のことを知らなかったから、
その人でなかったことは確かだ。
動揺が顔に出てしまったかもしれないが、
願主も相当に思いつめているようだから、
まさか気取られてはいまい。
この数十年、世の中は変わった。
徳川の世から薩摩と長州の天下となり、
いつしか長州が主導権を握ったようだ。
僧侶の世界も変わりつつある。
明治となってからは肉食妻帯が許され、
中にはそちらに流れた僧侶もいると聞く。
目の前の願主は、祈願の内容を告げた。
詳しい内容を書くことは避けるが、
身分違いの恋らしい。
添いたいのだが、親にも言えぬほどの身分違い。
愛染明王の力に縋りたいとのことであった。
いわゆる「敬愛法」と言われる修法の依頼である。
私は愛染護摩を修することにした。
愛染王法と言われる、愛染明王を本尊とする修法にも、
三十七尊を眷属とする修法と、十七尊を眷属とする修法、
大きく二種類がある。
このうち、十七尊を眷属とする修法は、
敬愛法に特化した修法であり、
中に一肘観という特殊な観法を含む。
迷いなく、私は十七尊の修法をすることにしたのだ。
護摩の支度を終え、願主を堂内に導き入れ、
私は柄香炉を持って護摩壇の前に立ち、
三度礼拝をして登壇した。
常の如く、護身法を修して我が身を結界し、
洒水などして壇上や供物を清めた。
そして表白を読み、結界をし、
自身の心中に壇を建立すべく、道場観を始めた。
宝楼閣の中に愛染明王を観想し、
その持ち物の意義を想う。
その時だ。
とある和歌が耳に飛び込んできた。
君に恋ひ甚(いた)もすべ無み平城山の小松がもとに立ち嘆くかも
万葉集にある、笠郎女(かさのいらつめ)が、
大伴家持に贈った恋の歌である。
募る恋心だが、待つ一方で、嘆いているという歌だ。
今、誰が歌ったわけでもない。
声の主は後ろの願主ではない。
引き続き同じ和歌が繰り返されている。
私は愛染明王と眷属を道場に呼び、
私と一体化した。
そして、閼伽、振鈴し、
塗香、華鬘、焼香、飯食、灯明の供養をした。
諸尊に礼を尽くしてもてなし、
いよいよ一肘観に入る。
自らの胸から一肘ほど先に月輪を観想し、
そこに愛染明王と同体である金剛愛菩薩を出現させ、
自らに引き入れて、自分が金剛愛菩薩に変身する。
再び一肘ほど先に、願主の恋う相手を観想・・・
・・・するはずだった。
しかし、私が観想したのは違った相手だった。
願主と瓜二つの、あの人だったのだ。
あの人が私に近くなってきて、ついに合一する。
えもいわれぬ喜悦がこの身に走った。
喜悦の中で真言を唱える。
その真言には願主の名前と、相手の名前を入れるのだが、
私は何も疑問に思わず、自分の名前と、
あの人の名前を唱えてしまった。
相思はぬ人を思ふは大寺の餓鬼の後(しりへ)に額(ぬか)づく如し
また笠郎女の和歌が聞こえてきて、私は我に返った。
どれほど想っても大伴家持が振り向いてくれず、
毒づくように歌ったのがこの歌だ。
そうだった。私がまさにそうだったのだ。
一肘観をやり直しつつ、私の脳裏には過去がよぎった。
私が僧となってから、私はあの人に出会った。
これまで女房を持ちたいと思ったことはなかったのに、
あの人にだけは初手から、添い遂げたいと思った。
しかし、ついに色よい返事をもらうことは出来ず、
それなのに、いまだに忘れることも出来ず、
そして今、瓜二つの願主を迎えることになった。
明らかに私は動揺していた。
壇上に迎えた愛染明王と眷属は、
明らかに私の動揺を笑っている。
僧尼に対し、妻帯の許可など下りなければよかったのに。
私はずっと政府を恨んでいた。
そうすれば、私はあの人に心を動かさぬよう、
最後まで気を配れたものを。
何の期待をすることもなく、諦められたものを。
やり直しの一肘観を終え、
愛染明王を除く十六尊の印明を結び、
敬愛のための相応印明を結ぶ。
いよいよ護摩に入る。
火天段、部主段と進み、
愛染明王を供養する本尊段、
その頂点である、百八支の焼供に入った。
私の集中も頂点となり、細く割った護摩木を、
次々に炉の中に投入していく。
その時、今度は私の中である場面が広がった。
何故か大伴家持である自分が、
しつこく歌を送りつけてくる笠郎女を厭わしく思って、
忘れるように言い放つ歌を送ろうとしている場面。
そして、それに重なって、あの人から送られてきた、
私の誘いを断る手紙の記憶が瞼に浮かんだ。
これが因縁というものなのだろうか。
どれほど懇願しても、私はあの人と結ばれない、
それが結果なのだ。
途端に、恋心が燃え上がった。
会いたい!逢いたい!
近くあれば見ねどもあるをいや遠く君がいまさば有りかてましも
また聞こえてきた。
その声を思い出した。
あの人の声だ。
捨てられた後、笠郎女が家持に贈った未練の歌。
こんなに会いたかったのか。
だが、もう叶わない。
そして、やっと会えた時、
逆に拒絶する側にまわったのか。
私は壇上の諸尊を見る勇気を失い、
必死に次第を進めて本座にお帰りいただいた。
願主は帰って行った。
会いたいのはこの人ではない。
しかし、強烈にあの人を意識させる容姿だ。
なぜなら瓜二つなのだから。
だが、この人ではあの人の代替にはならない。
私が惚れていたのは、あの人の内面だったからだ。
だから私はすぐに添うことを望んだ。
こればかりは、あの人自身でなければ持っていない。
空虚感と、強烈な執着とが同居することになった。
尋常でない痛みだ。
この拷問はいつまで続くのだろう?
因縁が切れるまで。
そう、それが正解なのは百も承知だが、
私はその日まで、耐えきれるのだろうか?
千年もの時を超えた贖罪。
願主の祈願が叶ったのかどうか、
私は知るところではなかった。
願主は本当に、あの人ではなかったのだろうか?