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2013/06/12

「すべて納められましたかな?」

坊さんの一言がいまだにこだましている。
まだ若い坊主だ。
きっと30代半ば。
それにしては落ち着き払ってまるでジジイだ。

しかも、それを俺の耳のそばで、
囁くように、しかも笑いを混ぜて言い放った。
気味が悪くて顔もまともに覚えていないが、
全身黄色の衣と袈裟に身を包んだ、
太った坊主だった。

そう、あいつと同じくらいのサイズだった。
あいつはデカい棺桶に収まっていた。
巨人が何人も必要なくらい重そうだ。
遺書に書いてあったとかで、
胸には一束の楽譜が置かれていた。
俺がくれてやった楽譜だ。

もう10年ほど前、俺たちは親友だった。
・・・一応と言っておこうか。
同じテノール歌手だったが、
あいつは音大出身、俺は一般大学出身だった。
同じ研究所で同期として学び、
それぞれ、様々な舞台で飛び回ったものだ。
時には同じ役でダブルキャスト、
時には違う役で同日の共演者として、
稽古場を共にし、よく飯を食い、酒を飲んだ。
といっても、飲むのは俺だけ。
あいつは酒をほとんど飲まない。

オペラでの役柄はよく被ったものの、
それ以外のところでは少しフィールドが違っていた。
あいつはドイツリートが得意で、
時折リサイタルなどを開いていた。
俺はといえば、音楽学、
特に、作曲家の自筆譜の研究が好きで、
俺が演奏会を開くと言えば、
何よりもその研究成果の発表が主目的だった。

そんなあいつに、研究成果の初演を任せたことがある。
シューマンの歌曲集「詩人の恋」の自筆譜版である、
「歌の本の抒情的間奏曲から20の歌」の楽譜を起こし、
あいつに与えて初演させたのだ。
これは繊細な歌を必要とする歌曲集だ。
それにはあいつが適任だったのだ。
俺では今一歩及ばない。
やって出来ないわけじゃないが、
自分の技量で初演するのでは満足できなかったのだ。
そして、その程度に俺たちは親友だったのだ。

しかし、俺だって指をくわえて見ていたわけではない。
その演奏会の前半は、実演も交えてレクチャーをした。
ピアニストはあいつの当時の彼女。
オペラ「蝶々夫人」でゴローを歌っていたあいつに一目惚れ、
女性からアタックして彼女に収まったわけだが、
彼女はすでに人妻、それにしても物好きな女もいるものだ。
5年ほど前に別れたのだが、別れ方がまたシャレている。
彼女はかつての同級生と再婚をしたのだが、
その同級生があいつを嫌ったため、捨てたのだ。
以来、あいつは恋愛を封印したようだ。

ともあれ、演奏会は成功した。
しかし、成功は万全な歌を聴かせたあいつの功績だ。
俺の仕事が取り上げられたわけではない。
俺にしてみたら、失敗も同然だ。
だがあいつは俺を買ってくれていた。
親友として信頼してくれもした。
「君の仕事があればこそだよ!」
そんな青臭いセリフを本気で吐ける・・・そんな奴だった。
俺も彼女を口説いて、時折関係を持っていたのみならず、
その後、同級生を探し出して、再婚するように持ち込んだのも、
俺だったのだが。

2年前のことだった。
そんなあいつと、またダブルキャストとなったのは。
演目は「フィガロの結婚」、役はドン・バジリオ。
なかなか出来のいいキャストだったが、
特に出来が良かったのが、あいつの組のスザンナ。
名前は蓉子という。
その稽古中、俺はある変化に気付いた。
あいつの様子がおかしい。
いや、おかしいわけじゃない。
やたらと出来が良くなったのだ。

それとなく話を聞き出してみると、
俺の勘は的中していた。
蓉子に魅かれ始めていたのだ。
だが、もう一つの裏情報を俺は掴んでいた。
蓉子は指揮者の推薦で参加していたのだが、
その指揮者とは男女の仲で、遠からず結婚するのだと。
俺は時期を見て、あいつにそれとなく教えてやった。

目論みは当たった。
あいつの出来は悪くなった。
だが、みんなに、そして蓉子に対する和顔愛語には変わりない。
あいつはそういう奴なのだ。
蓉子の方も、みんなに対して大人だ。
穏やかだし、不機嫌な顔一つせず、役に取り組んでいる。

俺の中で何かが動いた。
あいつの出来が悪くなったといっても、
なぜか今一つ飲み込めない俺に比べれば、
まだ出来が良いのだ。
こうなったら嘘も方便だ。

どうやらプロデューサーも蓉子に目をつけ、
蓉子もあっさり応じて関係を持った、
演出家も同様だ、とあいつに吹き込んでやったのだ。
あいつはたちまち憔悴し始めた。

ところが、ここで思わぬことが起きた。
俺自身がおかしくなり始めたのだ。
なぜか蓉子にばかり目が行く。
本気でおかしくなる前に・・・。
そう思って、蓉子を口説いてみた。
蓉子は真面目で貞淑な性質の女だった。
まあ、初めからわかっていたことだが。

そうこうする間に公演は終わり、
全員がそれぞれの日常へ、他の仕事へと散って行った。
1年ほどして、俺はあいつに言ってやった。
蓉子が俺に言い寄ってきたから抱いた、と。
あいつは薄笑いを浮かべていたが、
相当のショックを受けたことは見破った。
しかし、薄笑いに便乗して俺はもう一言告げた。
私の組のバジリオだけはイヤ、他の誰でもいいけど、
あの人にだけは許さない、そう言っていたと。

その後、あいつは連絡を寄越さなかった。
あいつの消息を最後に聞いたのが、
女友達のマンションから飛び降りて死んだ、
ということだった。
それが数日前。

ピアノの譜面台に、「詩人の恋」の7曲目、
「Ich grolle nicht」が開いてあり、
その上に、女友達に宛てた遺書が残されていたのだそうだ。
恨み言は一切書かれていなかったそうだ。
その7曲目は、テキストこそ「恨まない」だが、
音楽はとてつもない恨み節で出来ている。
本当に恨みがなかったのか、疑問は残る。

「すべて納められましたかな?・・・かぁ。」

夜中の2時半頃、俺は目覚めてトイレへ。
寝室へ戻って電気を消し、ベッドに腰掛けた。
とたんに背後に人の気配を感じたが、
振り返ろうとしても振り返れない。
大きく、黄色い袖が背後から伸びて来て、
俺の体をがっちりと掴んだ。
耳元に坊主の頭が寄ってきて囁いた。

「すべて納められましたかな?妬みも・・・恨みも・・・」

首だけでも振り返ろうと思ったが出来ない。
坊主の頭の方が前へ回り込んで来て、
俺を見据えた。
その顔は、あいつの顔だったのだ。
口の端がニッと笑った。

「Ich grolle nicht・・・恨んでないよ・・・蓉子ちゃんは」

薄れる意識の中で思い出した。
葬式には蓉子も、亭主となった指揮者と一緒に
参列し、焼香をしていた。
もちろんその後も蓉子のスキャンダルなど聞かない。

俺は、黄色い衣の中へ吸い込まれていった。

2013/06/12 01:08 | bonchi | No Comments