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「すべて納められましたかな?」
坊さんの一言がいまだにこだましている。
まだ若い坊主だ。
きっと30代半ば。
それにしては落ち着き払ってまるでジジイだ。
しかも、それを俺の耳のそばで、
囁くように、しかも笑いを混ぜて言い放った。
気味が悪くて顔もまともに覚えていないが、
全身黄色の衣と袈裟に身を包んだ、
太った坊主だった。
そう、あいつと同じくらいのサイズだった。
あいつはデカい棺桶に収まっていた。
巨人が何人も必要なくらい重そうだ。
遺書に書いてあったとかで、
胸には一束の楽譜が置かれていた。
俺がくれてやった楽譜だ。
もう10年ほど前、俺たちは親友だった。
・・・一応と言っておこうか。
同じテノール歌手だったが、
あいつは音大出身、俺は一般大学出身だった。
同じ研究所で同期として学び、
それぞれ、様々な舞台で飛び回ったものだ。
時には同じ役でダブルキャスト、
時には違う役で同日の共演者として、
稽古場を共にし、よく飯を食い、酒を飲んだ。
といっても、飲むのは俺だけ。
あいつは酒をほとんど飲まない。
オペラでの役柄はよく被ったものの、
それ以外のところでは少しフィールドが違っていた。
あいつはドイツリートが得意で、
時折リサイタルなどを開いていた。
俺はといえば、音楽学、
特に、作曲家の自筆譜の研究が好きで、
俺が演奏会を開くと言えば、
何よりもその研究成果の発表が主目的だった。
そんなあいつに、研究成果の初演を任せたことがある。
シューマンの歌曲集「詩人の恋」の自筆譜版である、
「歌の本の抒情的間奏曲から20の歌」の楽譜を起こし、
あいつに与えて初演させたのだ。
これは繊細な歌を必要とする歌曲集だ。
それにはあいつが適任だったのだ。
俺では今一歩及ばない。
やって出来ないわけじゃないが、
自分の技量で初演するのでは満足できなかったのだ。
そして、その程度に俺たちは親友だったのだ。
しかし、俺だって指をくわえて見ていたわけではない。
その演奏会の前半は、実演も交えてレクチャーをした。
ピアニストはあいつの当時の彼女。
オペラ「蝶々夫人」でゴローを歌っていたあいつに一目惚れ、
女性からアタックして彼女に収まったわけだが、
彼女はすでに人妻、それにしても物好きな女もいるものだ。
5年ほど前に別れたのだが、別れ方がまたシャレている。
彼女はかつての同級生と再婚をしたのだが、
その同級生があいつを嫌ったため、捨てたのだ。
以来、あいつは恋愛を封印したようだ。
ともあれ、演奏会は成功した。
しかし、成功は万全な歌を聴かせたあいつの功績だ。
俺の仕事が取り上げられたわけではない。
俺にしてみたら、失敗も同然だ。
だがあいつは俺を買ってくれていた。
親友として信頼してくれもした。
「君の仕事があればこそだよ!」
そんな青臭いセリフを本気で吐ける・・・そんな奴だった。
俺も彼女を口説いて、時折関係を持っていたのみならず、
その後、同級生を探し出して、再婚するように持ち込んだのも、
俺だったのだが。
2年前のことだった。
そんなあいつと、またダブルキャストとなったのは。
演目は「フィガロの結婚」、役はドン・バジリオ。
なかなか出来のいいキャストだったが、
特に出来が良かったのが、あいつの組のスザンナ。
名前は蓉子という。
その稽古中、俺はある変化に気付いた。
あいつの様子がおかしい。
いや、おかしいわけじゃない。
やたらと出来が良くなったのだ。
それとなく話を聞き出してみると、
俺の勘は的中していた。
蓉子に魅かれ始めていたのだ。
だが、もう一つの裏情報を俺は掴んでいた。
蓉子は指揮者の推薦で参加していたのだが、
その指揮者とは男女の仲で、遠からず結婚するのだと。
俺は時期を見て、あいつにそれとなく教えてやった。
目論みは当たった。
あいつの出来は悪くなった。
だが、みんなに、そして蓉子に対する和顔愛語には変わりない。
あいつはそういう奴なのだ。
蓉子の方も、みんなに対して大人だ。
穏やかだし、不機嫌な顔一つせず、役に取り組んでいる。
俺の中で何かが動いた。
あいつの出来が悪くなったといっても、
なぜか今一つ飲み込めない俺に比べれば、
まだ出来が良いのだ。
こうなったら嘘も方便だ。
どうやらプロデューサーも蓉子に目をつけ、
蓉子もあっさり応じて関係を持った、
演出家も同様だ、とあいつに吹き込んでやったのだ。
あいつはたちまち憔悴し始めた。
ところが、ここで思わぬことが起きた。
俺自身がおかしくなり始めたのだ。
なぜか蓉子にばかり目が行く。
本気でおかしくなる前に・・・。
そう思って、蓉子を口説いてみた。
蓉子は真面目で貞淑な性質の女だった。
まあ、初めからわかっていたことだが。
そうこうする間に公演は終わり、
全員がそれぞれの日常へ、他の仕事へと散って行った。
1年ほどして、俺はあいつに言ってやった。
蓉子が俺に言い寄ってきたから抱いた、と。
あいつは薄笑いを浮かべていたが、
相当のショックを受けたことは見破った。
しかし、薄笑いに便乗して俺はもう一言告げた。
私の組のバジリオだけはイヤ、他の誰でもいいけど、
あの人にだけは許さない、そう言っていたと。
その後、あいつは連絡を寄越さなかった。
あいつの消息を最後に聞いたのが、
女友達のマンションから飛び降りて死んだ、
ということだった。
それが数日前。
ピアノの譜面台に、「詩人の恋」の7曲目、
「Ich grolle nicht」が開いてあり、
その上に、女友達に宛てた遺書が残されていたのだそうだ。
恨み言は一切書かれていなかったそうだ。
その7曲目は、テキストこそ「恨まない」だが、
音楽はとてつもない恨み節で出来ている。
本当に恨みがなかったのか、疑問は残る。
「すべて納められましたかな?・・・かぁ。」
夜中の2時半頃、俺は目覚めてトイレへ。
寝室へ戻って電気を消し、ベッドに腰掛けた。
とたんに背後に人の気配を感じたが、
振り返ろうとしても振り返れない。
大きく、黄色い袖が背後から伸びて来て、
俺の体をがっちりと掴んだ。
耳元に坊主の頭が寄ってきて囁いた。
「すべて納められましたかな?妬みも・・・恨みも・・・」
首だけでも振り返ろうと思ったが出来ない。
坊主の頭の方が前へ回り込んで来て、
俺を見据えた。
その顔は、あいつの顔だったのだ。
口の端がニッと笑った。
「Ich grolle nicht・・・恨んでないよ・・・蓉子ちゃんは」
薄れる意識の中で思い出した。
葬式には蓉子も、亭主となった指揮者と一緒に
参列し、焼香をしていた。
もちろんその後も蓉子のスキャンダルなど聞かない。
俺は、黄色い衣の中へ吸い込まれていった。