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私は震えながら鉄格子の中にいる、
どのくらい時間が経ったのだろうか、
床の濡れたコンクリートは冷たくないはずなのに、
隣の鉄格子の中にいる泥だらけで痩せた老犬が臭いわけでもない、
ただこれから自分がどうなって行くのかが不安で、
心が震えている、
そして身体全体が震えている、
自分ではどうする事も出来ないこの震え、
私が生まれたときは確か兄弟は5匹いたはずだった、
母親犬の乳房を毎日兄弟と争ってむしゃぶりついていた、
毎日母親犬の甘い香りのする暖かな乳房を兄弟と争っていたのが、
今ではとても幸せだった日々のように思える、
ある日のこと、
私たち兄弟の3匹が車でこの施設に連れて来られた、
部屋は総て鉄格子で仕切られて、
オシッコもウンコもこの部屋の中でしなければならない、
毎日白い長靴を履いたいかつい人が、
部屋に白い霧をまき散らすのだが、
その鼻に付くつんとした匂いはどうにも我慢出来ない、
それからというものずっと私は不安で震えが止まらなくなってしまった、
ときおり鉄格子の外を人が通りかかるが、
私は恐怖で顔を上げてその人を見ることが出来なかった、
昨日、私の兄弟の2匹が檻から出されて、
お母さんの一緒に来た子供たちに抱かれてどこかえ連れて行かれてしまった、
私は兄弟と別れてこの檻の中で震えている、
隣の檻では白い長靴を履いたいかつい人達が、
何十匹もいる犬たちを足で追い立てながらどこかえ連れ去って行った、
きっと外に散歩に行ったのだろうと思っていたが、
星の降る夜になっても一匹も戻って来る犬はいなかった、
翌日の朝早く見慣れない2匹の子犬が隣の檻に入れられた、
彼らも身体が震えていた、
私には彼らが床のコンクリートが冷たくて震えているのではなく、
彼らも不安でたまらなく心が震えている事が手に取るように分かっていた、
『そんなに不安がらなくても大丈夫だよ、
ほら私を見てごらん、
今日で7日目だけど、
私はやっと身体の震えが止まったよ』と、
隣の檻の中で震えている子犬に声をかけた、
その時、私の檻の前で立ち止まった人がいた、
私は勇気を振り絞って顔を上げてその人を見上げてみた、
檻の外にいる人は私に向かって優しく微笑んでくれた、
私の尻尾は思わず私の意志とは関係なく揺れていた、
それから10分後、私は再びさっきの人に抱かれて、
檻から出る事が出来た、
暗い廊下をしっかりした強い手で抱かれて外に繋がる扉に向かう途中、
今まで私がいた檻を振り返ると、
白い長靴を履いたいかつい人達が、
わたしがいた檻の中に残っていた何十匹もの犬たちを足で追い立てて、
どこかに移動させようとしていた、
ちょうど私がここに連れられて来てから7日目の事だった、
今ではここに一緒に連れて来られた私の2匹の兄弟も、
私の檻にいた犬たちもどこに行ってしまったのかは分からない、
とにかく私は7日ぶりに外に出る事が出来た、
事務所で書類を書いている人達の話しを聞いていると、
私はどうもこの保健所に兄弟3匹で連れて来られたらしい、
どういう理由か分からないけど5匹いた兄弟のうち、
私たち3匹だけが連れて来られたらしい、
優しい目をした人に抱かれて私はこの保健所を出る事が出来た、
私は檻の中にいた他の犬たちの事を聞こうと思ったが、
その事を考えるだけで又身体が震えだしたので、
とうとう私はその事を聞く事が出来なかった、
それから数日後、
私は今度は優しそうなお姉さんに抱かれていた、
私に優しく微笑んでくれた人は私を抱き上げてくれているお姉さんの事を、
『預かりさん』と呼んでいた、
私は預かりさんの家に連れて行かれた、
預かりさんが家のドアを開けるとそこには、
違う大きさの犬が4匹ちょこんと座ったまま、
預かりさんに向かって尻尾を振っていた、
私はやっと自分の心の震えが次第に弱まって行くのを感じていた、
それからの日々は毎日が幸せだった、
柔らかな毛布に包まって寝る事が出来たし、
野菜もお肉もたっぷり入った食事も貰う事が出来た、
でも一番嬉しかった事は、
毎日、2回、外に連れ出してもらい、
オシッコもウンコも土の上にする事が出来た事だった、
預かりのお姉さんの家には家族が何人もいて、
皆、私に優しく微笑んでくれる、
私は生まれて始めて幸せな日々をおくる事が出来た、
そして、明日の事を心配する事なく眠る事が出来た、
生まれて来て良かったと思わない日はないほど、
毎日が幸せに包まれていた、
それから5ヶ月程過ぎたある日の事、
私は預かりのお姉さんとコーディネータのお姉さんと、
今まで入った事のないコーヒーの香りのするお店に連れて行かれた、
そこにはすでに3人の家族らしき人がテーブルに付いていた、
預かりのお姉さんに抱かれた私を見るなり、
その家族のママらしい人が涙を浮かべていた、
そして女の子がジュースを飲みながら私に向かって微笑んでくれた、
預かりのお姉さんとその家族がお話ししている間中、
私はずっとジュースを飲んでいた女の子の膝の上に抱かれていた、
女の子は私に向かって誰にも聞こえないように、
『あなたビッケにそっくりね、
私がずっと飼っていた犬なんだけど、
心臓の病気で去年死んじゃったの、
あなた、私とお友達になってくれるかな』と、
少女が私に話しかけてくれたので、
私は軽く目をつぶって合図した、
女の子はジュースのストローをくわえたまま、
ビックリしたように隣にいたママらしき人に耳打ちしていた、
長いお話が終わると私はさっき会ったばかりの家族と、
一緒に写真を撮ってもらった、
そのコーヒーの香りがするお店を出ると、
私は再び預かりのお姉さんに抱きかかえられた、
外はいつのまにか小雨が降り出していた、
それから2週間後に、
私と預かりのお姉さんはコーディネーターの車に乗せられた、
建物の上を走る道を車が小雨の霞の中を走っていた、
今日もあの日と同じように小雨が降る肌寒い日だった、
車のワイパーがゆっくりとウインドーにまとわりつく小雨を、
かき集めて私の目の前を良く見えるようにしてくれている、
小一時間程過ぎてうとうとと私が眠くなり始めた頃、
車は下町の住宅地の一角で止まった、
車の前には2週間前にあのコーヒーの香りのするお店で会った家族の、
パパらしき人が傘を持って小雨の中に立っていた、
白いドアを開けるとやはりあのお店で会った泣き虫ママと、
ジュースを飲んでいた女の子が立っていた、
リビングに案内されると、
預かりのお姉さんとコーディネーターのお姉さんと、
泣き虫ママがお話しを始め出した、
私はリビングの隅から臭う微かな犬の香りを探していた、
確かにこのリビングには犬の香りが微かに漂っているのに、
犬の姿を見つけ出す事が出来なかった、
この扉の向こうにはきっといるはずと思って、
神経を集中しても扉の向こう側にいるはずの犬を感じる取る事は出来なかった、
ただ微かな犬の香りしか感じる事しか出来なかった、
3時間程過ぎた頃、
テーブルの上では預かりのお姉さんと、
この家族の人が書類らしきものにサインをしていた、
そしてコーディネーターのお姉さんがカメラを構え、
女の子に抱かれて私はこの家族と一緒にソファーに座って、
写真を撮られた、
そろそろ帰る時間が迫っている事に気がついた、
それにしてもこの家に微かに残る犬の香りが気になってしかたがなかった、
幸せに包まれた香りが気になってしかたがなかった、
突然預かりのお姉さんが私に近づくなり、
私を抱きしめて頬ずりを始めた、
私は驚いて身動きすら出来なくなっていた、
預かりのお姉さんの顔を見上げると涙が光っていた、
昨夜は何だか眠る事が出来なかった、
うとうとすると目が覚めた、
聞き慣れない声と聞き慣れない物音で何度も目が覚めた、
朝になった、皆が起きたと言うのに、
いつもの預かりのお姉さんも今日はもういない、
コーディネータのお姉さんさんもいない、
白い長靴を履いたいかつい人達も今日はもういなかった、
ただ微かな幸せの香りのするリビングで、
新しい家族の人達が、
私に向かって何度も、
『ロッティ』呼んでいる事に気がついた、
始まりは、
泣き虫ママさんがインターネットの保護犬サイトの写真を見ていた時に、
私の写真を見てママの目が釘付けになったときから、
私の運命は動き出した、
そのサイトの中には800匹以上の保護犬の写真がUPされていたらしいのに、
その中のたった1枚の私の写真をママが見つけてくれ、
そして私は今日この場所にいる事が出来た、
あの保健所に連れて来られた兄弟の2匹はどこに行ったんだろう、
私と一緒に檻の中にいた何十匹もの犬はどこに行ったんだろう、
雨上がりの日曜日、
道はまだ雨に濡れているけれど、
私は暖かな朝陽を浴びながら、
幸せな気持ちがこみ上げて来るのを感じていた。