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2013/02/04

皆さん、おはようございます。
今年はこの11日のドン・ジョヴァンニを皮切りに、
フィガロの結婚、マダム・バタフライ、トスカと、
指揮、及び演出をすることになっています。

前回の魔笛、これは9月でしたが、それ以来、
舞台の真ん中にクリスチャンショップで買ってきた、
白木の十字架をセットとして置いてあります。
あ、9月はそれを複製したものを置きました。

9月がなぜ複製だったかというと、
この十字架にワインをぶっかける演技があり、
白木の十字架では色を吸いこんでしまって、
後々使えなくなるので、急遽コーティングした木で
レプリカを拵えて臨みました。

フィガロでは使うかどうか決定していませんが、
他の演目では使うことが決定しています。
ただ、使い方として、
その演出で批判されているキリスト教の象徴、
として置いてあり、魔笛では唾を吐かれ、ワインをかけられ、
ドン・ジョヴァンニでは叩き割られかけることが2度あり、
プッチーニ作品では批判される象徴として置いてあるのです。

ここで十字架、つまりキリスト教ばかりが
なぜ私から批判されることになるのか、というと、
それは、私が仏教の坊主だからではありません。
他の国についての作品なら、話は別になるのですが、
ことオペラに関して言えば、オペラそのものの本場も、
オペラで題材となっている場所にある宗教も、
はたまた、その作品の根底にある精神背景も、
たいていがキリスト教だからなのです。

加えてバタフライでは、仏教も批判の対象としています。
これとて、釈迦教団の頃の仏教、
つまり原始仏教そのものや釈迦の教えを批判する気はありません。
私が批判の対象にするのは、近世以降の葬式仏教、
檀家を菩提寺に縛り付け、民衆支配のために使われていた仏教です。
これなど、日本の祖霊崇拝や儒教の考え方が、
仏教の看板を掲げて詐欺を働いているようにしか見えません。
確かにその余波で、現在の我々坊主は食えている現状もあり、
私自身その「加害者側」に属するわけですが、
だからといって黙っていないのが私という人間です。

さて、この次はバタフライの演出について、
具体的に言及してみたいと思います。
というのは、全く普通の通りには場面設定をしません。
おそらく日本人が演出するバタフライとしては一番過激でしょう。
予告しておきますと、
1幕はバタフライとピンカートンの結婚式ではなく、
誰か男(ピンカートンかもしれないし、そうではないかもしれない)との間に
生まれた子供を幼くしてなくしたバタフライが、
錯乱した状態でその子の葬式をすることになり、
ピンカートンとの結婚式と思い込む、という設定をします。
オペラの最後で、全くドラマティックでない、
しかも自殺以上につらい現実を地味で陰鬱に提示する、
という目的を達成するための伏線として1幕を利用します。

このことについて、少し詳細に語ってみたいと思います。

2013/02/04 01:41 | bonchi | No Comments