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2012/12/28

こんばんは、酒井孝祥です。

先日、映画版「レ・ミゼラブル」を観てきました。
ロンドンのミュージカル版をもとに映画化した作品でしたが、しばらく他の映画や舞台を観なくても思うくらいに感動しました。
声を上げて号泣しそうになるのを堪えるのに必死でした。
翌日になってもナンバーが頭の中で流れ続け、とうとう2日連続で観に行ってしまいました。

もともと日本語ミュージカル版の「レ・ミゼラブル」も好きで、マチネを観終えたときに、その世界からまだ離れたくないという思いに包まれ、その場でソワレの当日券を買ってしまったこともあります。

 

しかし、この映画を観て感じたのですが、ミュージカルナンバーを日本人が日本語で歌うよりも、やはり西洋人が英語で歌うのを聞いている方が、腹に落ちる感覚がして、心に強く響くものがあります。

決して、もともと英語圏で作られたミュージカルを日本語で上演したものが、前者に劣ると言っているわけではありません。
日本人俳優が演じるからこその独特の雰囲気もありますし、何よりも、日本人が鑑賞するにあたり、言葉の意味が分かることで、ストーリーに入りこめます。

しかし、本来英語で歌うことを想定されて作られたミュージカルのナンバーを日本語に置き換えた以上、英語で歌われる場合と比較して、ところどころで不自然に感じる部分が出てくるのはどうしても否めません。
もちろん逆に、歌詞を直訳したら語呂が合わないので、意味合いを同じくしながらも、メロディに合う言葉を選ぶ翻訳家のセンスが光る部分もあるかとは思います。

 

そもそも、ドレミファソラシドの音階は、西洋圏の音楽文化において作られたものです。
英語をはじめとした西洋圏の言葉と日本語との決定的な違いの一つとして、母音(有声音)の多さが上げられると思います。
“It’s fine today.”と「本日は晴天なり。」という同じ意味の一文を比較してみます。

「イッツ ファイン トゥデー」
「ホンジツ ワ セイテン ナリ」

前者で“イッツ”の“ツ”や“トゥデー”の“トゥ”が無声化されているとみなせば、母音(有声音)は4つと考えることが出来るでしょう。
それに対し、後者は、“ホンジツ”の“ツ”が無声化されれば8つと考えられます。
同じ意味のことを説明するのに、母音(有声音)の数が倍も違っています。

例えば、童謡の「咲いた 咲いた チューリップの花が」の“ドレミ ドレミ ソミレドレミレ”のメロディの範囲の中で、先ほど挙げた英語と日本語の例文を何回繰り返し歌えるか試すと、英語では無理なく4回繰り返せると思いますが、日本語では2回が限界でしょう(超早口で歌うならともかく)。
一番最初の“ドレミ”の段階で英語なら「イッツ(ド) ファイン(レ) トゥデー(ミ)」と全部歌えますが、日本語で不自然な速さにならないように歌えば「ホン(ド) ジツ(レ) ワ(ミ)」までしかいかないでしょう。

つまり、歌いながら一つのことを説明するのに、英語と日本語では、それに要するメロディの長さが倍くらい違ってしまうということになるわけですから、同じメロディで同じ様なことを歌うには、ある程度の無理が生じます。

 

では、明治期にドレミが輸入される前の、古典的な日本の音楽はどう発展してきていたのかと言えば、母音が多い分、母音を長くのばして震わせることで、その節を楽しむように作られてきたという一面があると思います。

例えば、浄瑠璃で「仇夢」という一つの言葉を歌うのに、「あだゆめーええーええ、えーえーええええーえええーえーええええーええ、えーええええーええ」くらいに長く、節をつけながら、「え」をのばし続けることだってあります。

その節の中で、その場面の雰囲気の情緒を感じることも出来ると思います。
それが、日本語の文化圏で発展する歌の形として自然なあり様なのかもしれません。

古典的な純邦楽の歌では、前述した様にのばして節をつけるのと同時に、だらだらとのばし続けずに、のびた音をきっちりと切ることでアクセントを出す部分などもあります。
西洋音楽であったとしても、日本語の語感で歌う場合、そういう要素をさり気なくでも入れてみたら、また違った味わいが出てくるのではないか…などと思っています。

 

次回は、「そもそも何で結婚式をやるの?」(ブライダル)をテーマにしたコラムをお届けします。

2012/12/28 03:49 | sakai | No Comments