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こんばんは、酒井孝祥です。
古典芸能、伝統芸能と聞くと、“理解するのが難しそう”“堅苦しそう”とイメージする人が多いかと思います。
わざわざ舞台を観に行っても、意味が分からなくて面白くないかもしれない…という理由で古典の舞台に足を運ぶことをこまねいている人がいるとすれば、何よりもお勧めなのは狂言です。
僕が小学生のとき、国語の教科書に狂言の演目「附子(ぶす)」が、注釈つきではありますが、原文のまま載っていました。
つまり、小学生でも理解できるわけです。
実際「附子」のストーリーは、一休さんのとんち話に出てくる、和尚さんが留守の間に水飴をなめる話と酷似しており、単純明解で馬鹿馬鹿しい内容です。
狂言の登場人物には、基本的に特定の個人名が設定されておりません。
主(しゅう)と呼ばれる主人が出てくれば、その家来はどの演目でも、太郎冠者、次郎冠者と呼ばれ、他には、お坊さんや物売り、中には神様や鬼などが登場する演目もあります。
稀に個人名のある人物が出てくることがありますが、なんと、そういうときは演じ手の本名フルネームがそのまま役の名前になります。
同じ能舞台で行われる“能”で、源平の武将など、歴史上実在した人物(…の亡霊)が出てくることとは対称的に、歴史上の出来事などの前知識がなくてもお気軽に楽しめるコメディです。
ストーリーも、前述した「附子」もそうであるように、家来である太郎冠者や次郎冠者が間抜けなことをして主に怒られるという、それだけの構造の話が多く、作品の長さも短編的で、登場人物が2~3人の話がほとんどです。
ストーリーの一例を挙げれば、主から「鐘の値」を調べてこいと言われた太郎冠者が、「かねのね」を「鐘の音」と取り違えて、“ゴーン”などという鐘を鳴らしたときの音を主に報告し、怒られるという、非常に馬鹿馬鹿しい内容で、このレベルの勘違いをネタにした話が少なくありません。
そして、まるでシェイクスピア劇であるかのごとく、客席に向かって、自分が何者で、今何を考え、これから何をどうしようとしているかを独白します。
事細かにお客さんに状況を説明するので、たとえ古語であっても、途中でストーリーが分からなくなることはまずないでしょう。
そういう軽いノリの話を、キッチリと様式的な動きで魅せます。
実は、酒井にとっての台詞を喋る初舞台は、本物の能舞台で行われた狂言の発表会なのです。
演目は「文蔵」という作品で、その劇中劇の語りの部分だけを抜粋したものを披露しました。
「文蔵」のストーリーを説明します。
太郎冠者が主に内緒で美味しいものを食べてきたというが、その食べ物の名前を思い出せない。
それが気になる主が、なんとか思い出させようとしたところ、日頃から主が語っている「石橋山の合戦物語」の劇中で、その食べ物の名前が出てきたかもしれないとのこと。
主は必死になって合戦の様子を語り始め、その劇中劇で「文蔵(ぶんぞう)」という登場人物が出てきたところで、太郎冠者はその“ぶんぞう”こそ自分が食べたものだと気がつきます。
実は美味しいものの正体は、“うんぞう粥”というたいしたことのない食べ物で、そんなものを思い出させるために、主に一生懸命語らせたのかと太郎冠者は怒られてしまいます。
この作品の劇中劇である「石橋山の合戦物語」では、源平の武士の一騎討ちの様子を、扇を遣った激しい身振りを交えて語ります。
はっきり言って、無茶苦茶格好良いです。
これがあまりにも出来ず、泣きながら稽古したことを思い出します。
そうした様式美に溢れたパフォーマンスを交えながら、登場人物が間抜けたことを真剣にやっているところが、狂言の面白みの一つでしょう。
古典の舞台の入り口として、分かりやすさとお気楽さでは、狂言がぴったりかもしれません。
次回は、「日本舞踊を習うには…」をテーマにしたコラムをお届けします。