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皆さん、おはようございます。
これまで、「験のある行者」という言い方について、
今一つピンとこないものを感じていました。
例えば、お不動さんに何かをお願いするのに、
行者さんに祈祷をお願いしたと。
その願いが叶ったりしたところで、
祈祷を請け負った行者さんが何かをするわけではありません。
目に見えぬ手配りをしたのはお不動さんです。
行者が評価されるのはどうも違和感があると。
・・・無神論者じゃねえのか、というツッコミは、
ここでは却下します。(笑)
論法のお話ですから。
ところが、天部、
つまり毘沙門天とか、辯才天とか、大黒天とか、
そういう神様方への供養法の伝授を受けて、
初めて「験のある行者」という言い方が腑に落ちました。
天部への行法をする際は、
我々真言行者は金薩観といって、
金剛薩埵に成りきる、という観想をまず行うのです。
もちろん他の行法でもそれは自室を出る時からするのですが、
天部の場合はその上で、座に着いたら何よりもまず先に、
改めて金薩観を行って、より強固に金剛薩埵に成りきるのです。
これはどういうことかというと、
金剛薩埵は「神様、仏様」の中では仏様の部類に属します。
仏様を拝む行法では、入我我入といって、
金剛薩埵である自分が変身してその対象の仏様になり、
いわば対等の関係を結んで行法するわけですが、
天部、つまり神様を拝む行法においては、
仏教では天部より上の立場である仏様に成りきり、
相手の神様を監督して働かせる、という立場に立つのです。
神様に手を合わせて、「これこれをお願いします、頼みます。」
というのは一般の信者さんたちの拝み方です。
つまり、下から頼んでいるわけですが、
譬えて言うならば、一般人がヤクザにものを頼んでいるようなものです。
これではお金はとられるわ、今後の利益供与を要求されるわで、
一つ間違えばえらい目に遭わされます。
信者さんの頼み方で天部にものを頼んで、
後でいろんな障碍が生じて困った、というのがこのパターンです。
一方、金薩観で金剛薩埵に成りきったらどうなのかというと、
同じヤクザに何かをしてもらうのに、
権力者や警察から何かを「させる」形をとるようなものです。
いくらかくれてやれば、お上の言うことくらいヤクザはきくでしょう。
自分の存在と権益が確保される限りは。
ちなみに、神様をヤクザに譬えるとは、というご意見もあるでしょうが、
仏教の説話や教義では、天部というのは元ヤクザという感じの、
過去にはよく仏教に敵対していた存在です。
元ヤクザなら、下から頼んでも大丈夫では?ということもあるでしょうけど、
元とはいえ、ヤクザだった人はなかなかヤクザ根性は抜けないものです。
天部の神様もそのあたりの理屈は同じです。
一時的にしろ、上の存在に成りきって、発注をかける、
という形で祈願を行うのですが、
それならば「験がある」という言い方がわかるのです。
なぜなら、それはこちらが、犯罪に譬えると「主犯格」であり、
その行為(願いを叶える行為)の主催者側に立つからです。
この場合、明らかにこちら側の「能力」も問われます。
確かに評価の対象となりますわね。