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2012/10/26

皆さん、おはようございます。
私は楽譜至上主義者というわけではありません。
・・・とはいえ、演奏家の皆さんからはそう思われてるでしょう。(笑)
プッチーニだろうが、マスカーニだろうが、
モーツァルト並のスコアの明晰さを求めますから。

少し専門用語になりますが、
col canto(歌に合わせて) という指示が伴奏に書かれていないのに、
勝手に伸ばしたり、短縮したりして、
楽譜通りでない歌い方をすることを基本的に私は禁止します。
まずは楽譜通りの音価で歌ってみて、
そこに表現の余地が存在すれば、そのまま楽譜通りに、
どう考えても不自然になる場合にのみ、
自然な崩し方を認めることにしています。

ところが、大半の場合、
歌手は「他の歌手(大抵は有名な人)がそうしているから」
という理由で、崩した歌い方で準備してくる傾向があります。
これは、よく言えば模倣、悪く言えば真似、
さらに悪く言えば、怠惰さゆえの万引き同然だと思います。
べんちゃらを言うなら「伝統の尊重」というやつでしょうが、
そんな偽善を許す私ではありません。

なぜなら、そこには「本来自己に置くべき基礎」というものが
まったく見当たらないからです。
原型をとどめないくらいに破壊したものは芸術品になり得ますが、
初めから原型がないものを芸術とは言えません。
他の分野はともかく、音楽においてはそうです。
ただし、そこを否定した音楽を意図的に作り出せば話は別ですが。

結果として、基礎のない崩し方はどうなるかというと、
指揮が出来なくなります。
次がどう来るのか、見越せないのです。
それでも指揮できる合わせ物の得意な指揮者はいるのでしょうが、
私の力量では無理な話です。
そして、基礎のない崩しは、
演奏家本人の顔が見えなくなります。
基礎を踏まえた崩しには、
どこかに本人の意思や意図が見え隠れするのです。
言葉で説明するのは難しいけれど、それは確かなことです。

2012/10/26 02:32 | bonchi | No Comments