« | Home | »

2012/10/22

皆さん、おはようございます。
mixiに入られている方は、是非次の記事を見ていただきたい。

■出所後もネット上に犯罪歴…「終身刑のよう」
(読売新聞 – 10月20日 09:07)

http://news.mixi.jp/view_news.pl?media_id=20&from=diary&id=2194254

ちょっと今回は強い言葉で書かせていただく。
このニュースの日記で、
「刑罰を終えたからといって罪は消えない」という理由で、
終身刑のようだ、と言ってる元受刑者に対して
厳しいというよりは、醜い言葉を浴びせかけている人が案外多い。

何だかんだと理屈というよりは、感情をこねている奴が多いが、
結局のところ本音をたどっていくと、
「犯罪者はさっさと死ね」に行き着く。
つまり、その理屈でいけば、
罪が償い終わる瞬間など死ぬまで、
あるいは人によっては死んでからも来ることはないんだ、
という、まるで一神教の天国・地獄論みたいな考え方となる。

こんな感覚は「世間の厳しさ」を表しているのではない。
「人間の残酷さ」を表しているだけであり、
単なる原始的な弱肉強食の正当化、
あふれ返った人間の自然淘汰の理由づけでしかない。
少なくとも精神的に進化し、成熟した人間の持つべき見解ではない。
「罪を憎んで人を憎まず」という心はどこへ行ったのか?
犯罪者は一生その存在が罪なのだから、人ごと憎んでよい、
という命題以外の何物でもあるまい。

ここからわかることは、たいていの人間は、
犯罪者に対して更生は全く期待していない、
ということである。
自分が不利益を被る確率を減らす、という意味においては
犯罪者の更生を期待するかもしれないが、
更生そのものを個人的に喜ばしく思う心は持ち合わせないようだ。
およそ更生といって期待することといえば、
反省という名の下に、自分たちが当該犯罪者をいじめても、
一切逆らわず、抵抗も反論もしない人形に成り下がり、
自分たちの優越感を保証する人間になることだけだ。

犯行時の犯罪者の心根も悪かろうけれども、
そんないじめっ子根性は卑怯、劣悪でしかあるまい。

よく、「可哀想な背景は認めるが、それでも自分は思いとどまる」
などという理由で犯罪者を責め立てる輩もいるが、
私に言わせればそんなものはただの偽善にすぎない。
思いとどまったことは素晴らしいに違いないが、
その直前まで殺意なり何なりの悪意を持った事実にはかわりがなく、
思いとどまったことが勲章に値するとしても、
勲章の副賞として犯罪者をいじめる権利がつくわけではない。
そんな権利がつくと思っている人がいたとしたら、
その人間は最低のクズ野郎でしかない。

しかしながら、人間がこんな風になってしまったのはいつ頃なのか。
私は、遅くとも有史よりこちらはこのようであったと推測する。
地球上の生態系の中で、人間が本来あるべき数以上になった時、
それは、人間が人間独自の能力を有するようになった時、と考えるが、
それ以来こんな風なのだと思う。

誤解のないように言っておくが、
私は200年以上も前の人間が同じ考えを持っていたとしても、
一切それを責めるようなことは言わないだろう。
なぜなら、それはその当時の人間のレベルがこうだったからだ。
今のように、犯罪者を更生の対象とみなすシステム自体が存在せず、
正々堂々と淘汰を実行していた時代だったからである。

だが今は違う。
人権という言葉を使って、犯罪者を更生させ、
社会復帰させる、という理想を掲げているからだ。
社会としてはそんな理想を掲げつつ、
人の感情としては、そんなことをしてほしくない、
そう思っているという偽善者的な態度が、
私は大嫌いなのである。

2012/10/22 01:40 | bonchi | No Comments