« | Home | »

2012/06/21

皆さん、おはようございます。
あるお寺の住職のブログ、それも寺の名前を出してのブログで、
あれこれとあてこすりのようなことを書いていて、
かなり檀家さんなどを見下しているということで、
某巨大掲示板サイトでも叩かれ始めているブログがあります。

そもそも檀家さんとあまりうまくいっていないような気配があり、
そのはけ口となっているのか、
時々、寺が誰のものなのか、ということに話が及んでいることもあります。
確かに寺とは誰のものなのか、誰のためのものなのか、
そもそも何をするところなのか、
そういうことを考えてみたいと思います。

まず、近現代におけるお寺というのは、
祈祷寺を除けば檀家寺であり、
檀家さんたちのお布施によって護持されています。
少し違うでしょうけれども、
檀家さんたちがいわば会社の株主みたいな感じで、
いろんな形で口を挟み、金を出し、
実際の管理を住職が代表役員として行っている、
というのが檀家寺の在り様です。

これを資本主義の原理にのっとって考えれば、
宗教的な意味合いは無視されるわけですから、
一番の発言権は、金を出している檀家さんにあるはずです。

しかし、実際の寺の所有者はといえば、
檀家さんでも住職でもありません。
本山です。(単立寺院は除く)
「誰のものか」という問いに対する答えはこれしかありません。

では、「誰のためのものか」という問いに対する答えはなんでしょう?
この問題は少々複雑です。
というのも、檀家寺の役割の根本はといえば、
宗教的な意味とはまるで無関係な事柄だったからです。
もとは「徳川幕府各地域役場」だったわけで、
その時点において「誰のためか」といえば、
それは、徳川幕府を頂点とする日本のため、となります。
徳川幕府がなくなれば、「誰のためか」というと、
徳川幕府時代に配属された檀家のため、ということになります。

この時点で、徳川幕府時代は「人民統制のため」という目的だったのが、
明治以降、「檀家の先祖供養のため」みたいなものに置き換わります。

しかし、これらの目的は仏教の原初においてはもちろんのこと、
日本仏教各宗派としての原初においてさえ、なかったことです。
「檀家の先祖供養のため」という意義が薄れつつある今、
そろそろ原初の目的に立ち返ってもいいのではないでしょうか。

ではその原初の目的とは何か、というと、
「お寺は修行の場である」ということです。
もう少しいえば、宗派ごとの宗旨に従った「行」を修する場所、
ということです。
真言、天台においては行法(修禅観法)や学問の場、
禅門においては坐禅を筆頭に、生活にいたるまでの禅の修行の場所、
浄土門においては報恩感謝の念仏行の場所、
法華門においては唱題行などの場、ということですね。
そして庫裏はその修行を支える生活の場、なのです。

庫裏は主に住職や徒弟、家族が中心の場であるとしても、
伽藍そのものは住職を筆頭とする僧尼だけではなく、
檀信徒、あるいは一見さんをも含む、
仏道に興味を持つ特定多数の方々の修行の場なのです。

このことを忘れて、
誰のものだとか、誰に発言権があるとか、
言い募っても、本義に対しては何の意味もないのです。
みんなが「みんなの修行の場、道場だ」という意識を持てば、
寺という施設をめぐるトラブルの大半は収まるのではないでしょうか。

2012/06/21 05:52 | bonchi | No Comments