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2012/06/21

脱サラから早2年。
博士課程に進んだことで、いよいよ、研究者、という生き方を、
割と真剣に考え始めた。
いや、本来は、博士課程に進む前に考えておくべきなのだが…

奨学金や研究費を得るための書類を書いたり、
助手などの研究職の募集をちらほらと眺めていると、
「研究」という領域において求められる「実績」というのは、
一にも二にも「論文を書くこと」、だということがわかる。

もちろん、その論文を発表したりという場が無い訳ではないが、
どちらかというと、論文の副産物として、発表の場が設けられる、
というパターンが圧倒的に多く、
どんなに素晴らしい発表をしたとしても、あくまでも評価されるのは、
論文の出来であって、プレゼンテーションの上手さではない。

結果、論理的整合性のあるテキストを書く、というスキルのみが、
日々強化されていくことになる。

そんな事情もあってか、
自分のことを棚に上げて言うのも憚られるのだが、
アカデミックな領域で生きてきた人達というのは、
正直言って、プレゼンテーションがあまり上手くない。

大学の授業で教壇に立つ教授たちを想像してもらえばいいのだが、
ダラダラと長い文章が書かれたパワーポイントをただひたすら読む、
という単調さに、ついうたた寝をしてしまった経験がないだろうか。

文章構成力や聴衆の前で話す能力には長けているので、
説得力のある授業をする先生、というのはいないわけではないが、
ヴィジュアルに訴える力は総じて弱い、と言わざるを得ない。

学部の学生時代には、よくこんなんで教授になれるものだ、
と思っていたものだが、院生という立場になって改めて考えると、
どうやら、あんな「だからこそ」教授になれるのだ、
ということがだんだんとわかってきた。

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ただ、個人的には、そうした論文書きの研究者には物足りなさもある。

せっかく良い研究をしていても、どんなに革新的な論文を書いても、
悲しいかな、世間がそれを知る場というのは非常に少ない。
万が一そのような機会を得たとしても、プレゼンがヘタで上手く伝わらない。
というのでは、実に勿体無い。

クリエイティブなプレゼンなんて、広告屋に任せておけばいい。
自分の研究がどう世の中に活かされるかは、
世の中次第であって、自分の知ったことではない。
というのが研究者の共通理解なのかもしれないが、
さて、本当にそうだろうか。

「研究」とはいったい何のためのものなのか。
「人間は考える葦」なのだから、結局は自分自身の好奇心を満たすため、
というのは一つの真理ではあるのだが、
そんな哲学問答ばかりで世の中まわっているわけではない。

「研究」によって、世界というものをよりよく知るため、
そして、少しでも社会を上手く前に進めていくため。
世界を変えるため、と言い換えてもいい。
それが、研究者の本分であろうと、個人的には思う。
綺麗事であることは承知の上だが。

そして、そうであるならば、研究成果というのは、
研究者の閉じたコミュニティの中だけで流通させるのではなく、
社会一般に伝える義務が研究者にはある、というのが持論。

一方で、研究成果を外に伝えるのは、研究者の責務ではなく、
また別の誰かの仕事だ、という人もいるかもしれない。

たしかに、これまでの研究者というものは、縁の下の力持ちであり、
メディアからの依頼があれば出向いて解説する、というスタンスだった。
あるいは、出版社からの依頼があれば、書籍を書く、
というアウトプットが選択されることも多かった。

ただ、1億総メディア化時代に突入したいま、
そうした受身の姿勢で、果たしてどこまで食いつないでいけるだろうか。

(続く)

2012/06/21 12:00 | fujiwara | No Comments