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2012/05/21

僕は昔から、悠々自適な生活というものに心底憧れていた。
理由は簡単で、実家の定食屋で朝から晩までフル回転している両親を見て育ったからだ。
二人は別段それを苦にしている様子もなかったけれど、子供の目から見てもその働きぶりは鬼気迫るほどで、自分は絶対そうはなるまいと思った。
365日休みらしい休みもなく、正月もお盆もゴールデンウィークも関係なく、毎日に追われるなんてまっぴらだ!

……という理由で、その夢を叶えるためにはどうしたらいいのかを日々真剣に考えてきた。
が、世間はそんなに甘くはない。憧れの、のんびり・まったり・極楽ライフを送るには定期的に収入を得る必要がある。
それに気付いて、僕は不動産を買って家賃収入、という方法を選択することにした。勿論高い買い物だから、初期投資はある程度必要だ。
したがって、僕はがむしゃらに貯金に励んだ。預金残高を確認するたび嬉しくて頬が緩み、積み上げられた定期預金の記帳をしては頁に頬ずりしてまたせっせと貯金する。大して給料のいい会社でもなかったし、稼ぎ出せる才覚もなかったので、これが僕の夢を叶える最短の道だと思って本当に精一杯貯め込んだ。酒も飲まず漫画も読まずデートもせず。もっとも最後は相手がいなかったからだけれど、まあそんなことは夢の現実のためには必要な犠牲と言えるだろう。
そして、先日やっと夢に一歩近づいた。
店子付きの、古いアパートを買ったのだ。思い切って買った理由は、ただひとつ。
その物件を担当していた不動産コンサルタントがとっても好みだったからだ。

「ご成約ありがとうございます。古いけど、いい物件ですよ」
「店子さんはいつまで入ってくれるものでしょうか?」
「今のところ残存期間は確実でしょうが、その先は分かりませんね。でも奥様とお住まいになるにしても、手頃な広さだと思いますよ」

にっこりと添えられた笑顔にやられて、僕は必要もないのにせっせと彼女のいる店に通い、相談を持ちかけて力技のデートを敢行したりした。彼女は不審がらず、なぜかいつも付き合ってくれた。これはひょっとして脈があるんじゃないか、と期待した僕を嗤わないでほしい。何しろ年齢と彼女が居ない歴はまったく同じだ。
幾度目かの相談、という名のデートの場で、僕は意を決して尋ねた。

「なんで、いつも来てくれるんですか。ご迷惑でしょう」
「いいえ。お客様のご心配は尤もですし、これがわたしの仕事でもありますから」
「やっぱり、…仕事ですか」
「はい。わたし、この仕事大好きなんです。叶うなら365日、毎日働いてたいんです」

彼女はにこにこと嬉しそうに、仕事の楽しさを話してくれた。辛さは無いそうだ。驚くところなんだろうけれど、僕じゃすっかり脱力してしまって、ただ阿呆のように力なく頷くばかりだった。

「まだご購入をお考えなんでしょう? わたし、絶対いい物件をご紹介しますね!」

僕はお願いします、と反射的に口走って臍をかんだ。
夢の悠々自適ライフのためだったのに、いつの間にかそれは彼女と合う口実になっている。 でもそれをちっとも後悔していないから、恋とはまったく手に負えないものだと思う。

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*今回の画像は「Photolibrary」さまからお借りしました。

2012/05/21 10:29 | momou | No Comments