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1月の末、札幌の実家に5日間ほど帰省してきました。
この冬は例年より雪も多く寒い、というお話でしたが、
私が帰っていた期間は飛行機も無事飛び、安定した
天気でした!ほとんど休暇のつもりで帰りましたが、一日
だけ地元のボーカリストとデュオでライブをしました。中高
時代の同級生とも十○年ぶりに再会できて懐かしかった
し、こうして気軽にライブするのも、よいものです!
さて、実家に帰って「こんな写真が出てきたんだよ」
なんて見せられた写真がなかなか面白かったので、今回は
その時々のエピソードを添えながら幼少期のお話をして
みようかな、と思います。
小さな頃から食いしん坊キャラだったようです。
この日もご飯の用意が待てず、一人で猛烈にツマミ食い
していたところを父に激写されてしまったようでした(笑)
私が自分自身の意思で初めてプレイしたのは、これから
ほどなくして・・・そう、あれは2歳になるかならないか、の
頃だったでしょうか。
おもちゃのピアノに向かい、おしめをしながら弾き語り。
「ありしゃんの~~~ほにほにほ~。あ~るか~にゆれて~~
あの子のわかる~~~!!」と高らかに歌ったテープが残って
いました。歌の後、ピアノソロプレイに入ります。激しい和音とも
つかない連打の連続のあと、低音部から、少しづつ単音で
ドレミ・・・と小さな音で弾いていく。そして一番上に上った瞬間、
山下洋輔ばりに鍵盤全体をたたきつけた!
「くしゃくしゃい!」(訳:クサイ)
・・・・・・・そう、私はソロプレイをしながら、う○ちを
ふんばっていたのでした。
その「くしゃくしゃい」事件の後、2歳半で私はカワイの
「3歳児リズム教室」に通いはじめました。ピアノを始める
前にまず音楽を好きになってほしい、ということだった
ようですが、大当たりで、歌ったり踊ったり、毎回楽しくて
この頃覚えた曲は未だに歌えます!。
ある日「3匹のヤギとガラガラドン」というミュージカル劇
を教室でやることになり、ヤギ(いい役)とガラガラドン(悪い役)
チームに分かれることになりました。ガラガラドンをやりたい
子はゼロ。 そこでわずか3歳の私、今でもそのとき考えた
ことを覚えているから恐ろしい。。。
「ここでガラガラドンやったら絶対目立つ!!」
かくして私はガラガラドンに志願し、先生にほめられ、目立つ
ことができました(笑)。
時を同じくする頃、私は一人っ子でしたが、よく苫小牧にいる
従姉妹の家に遊びに行っていて、姉妹のように遊び、喧嘩もしました。
いとこがピアノをやっていて、本物のピアノを初めて弾いたのもここです。
ある日苫小牧のバスに私と、いとこ、叔母、母の4人で乗っていた
のですが、母は混雑した車内でうしろのほうにはぐれてしまっていました。
そのように混雑している中だからもちろん私たちも座ることはできず。
しばらくして私は目の前の座席にすわっている見ず知らずのおばさんに
こう言ったそうです。
「すわらしてくれないと、へーこいちゃうよ」
・・・・・。なんでだ!?なんでこんなこと言ったのだろう!?
相当すわりたかったのか!?一緒にいた叔母と従姉妹は
赤面。母は離れていて事なきを得たらしいです。
5歳ごろ。おそらく支笏湖あたり。
写真撮るまで、と思って我慢しちゃったのですね。
4歳から片道50分程度のヤマハの札幌センターまで
通い始めました。私の10年以上のヤマハライフの始まりでした。
幼児科では音符やリズムを覚えたり、年長さんになるとジュニア科
専門コースのオーディションのために母とよく特訓?をしました。
母はピアノが弾けないから、鍵盤に「ドレミ」を書いたシールをはり、
和音を弾いて、私はその音を当てるというもの。今思えばこれが
絶対音感の訓練だったか?と思います。初めてイヤでもやらなきゃ
いけない、ということを覚えた気がします。(ちなみに2回目は、幼稚園
の入園式で、年長代表としてスピーチした時。10行くらいの台詞を
暗記しなければいけなかったこと。これも未だに空でいえます(笑))
この頃好きだったのはサーカス、とABBA です。サーカスは
真駒内(札幌)のアイスアリーナに来たのを父と見に行った
のを覚えています。時代はディスコブームで、ディスコ好きの
従姉妹の影響で「サタデーナイトフィーバー」ばりの踊りを
教えてもらい、サーカスとABBAを歌い踊りまくる日々でした。