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皆様、おはようございます。
前回は主に、僧侶に対する布施について書きましたが、
もっと一般的な意味での、
しかも理にかなった布施について書いてみたいと思います。
前回、私は布施のある分類として、
3つの布施がある、ということを申しました。
金品を施す「財施」、畏れを与えず、安心を与える「無畏施」、
そして仏法を説く「法施」の3つです。
この3つが見事な形で含まれた布施の例を紹介致しましょう。
四国には八十八ヶ所の霊場があり、
旧式に徒歩で巡拝する人も、今なお後を絶ちません。
そこで、いろんな形でお接待という名の「布施」が行われています。
例えば、食事の布施、寝る場所の布施、お風呂の布施、
はたまた、車に乗せて少し運んであげる布施、
このあたりがポピュラーなお接待です。
土佐のとある遍路道で、柿のお接待があったんだそうです。
そこには誰もおらず、日よけした空間に柿が置かれ、
その横にこのように書いてあったんだとか。
「お代はいらんぜよ。四国の狸」
このお接待は3つの布施を見事に含んでいるのですが、
おわかりになりますでしょうか?
まず、柿を施すことが立派な財施にあたることは、
今更申し上げるまでもありますまい。
問題は次の無畏施というのがなかなかできないことです。
特に現代においては、まともに財施をしようものなら、
無畏施が全滅してしまう事例が多いと思います。
例えば、極端な例でいえば、あなたがある人から、
金銭の布施を受けたとしましょう。
ところが、この金銭を施してくれた人というのが、
昨日足を洗ってカタギになったばかりの、
刺青を背負ったおっちゃんだったと。
まあ、それでも知っている相手ならともかく、
知らない相手だったら、あなたはどう思いますか?
恐れを抱かずして布施を受けることはできないと思います。
もちろん、そんなことに動じない人なら別ですが、
たいていの凡人であれば、いろいろ考えるでしょう。
何か裏があるのでは?後で何か要求されて断れないのでは?
これではこの元ヤクザさんは、財施は出来たけれども、
無畏施という点に少なからぬ問題があるとわかったわけです。
しかし、この「四国の狸」の事例はこの点を見事な形でクリアしています。
このようにユーモアたっぷりな立札を横に立てておけば、
お遍路さんに恐れを感じさせることはありません。
よほど疑い深い人なら、毒入りではないか、とか際限ありませんが、
普通に考えれば、素直に、ありがたく頂戴できます。
まさに恐れを与えない、「無畏施」です。
そしてこのような布施の方法が、
心ある人にとってはある種の説法、つまり法施となります。
布施の仕方を講義していただいたようなものですね。
このようにして、財施と無畏施を達成するんだよ、と。
そしてそのような布施の仕方を考えることは、
六波羅蜜の最終である、「智慧」の修行とも解釈できます。
皆さん、仏道修行の初歩である布施一つとっても、
決して侮ることのできないアイデアに満ちた方法論があるのです。