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広告人・加藤雅章氏の場合
ゲームメーカーでの7年、視点は徐々に“Consumer”へ。
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子ども時代の加藤さんは、ごく自然に“乗り物”に親しんだ。
「親父は、16歳で少年飛行整備兵として満州へ飛んだんだけれども、
飛行機が大好きで、飛行機に乗れるなら兵隊でも構わない、という人だった。」
遅くにできた子どもだったというが、加藤さんのご家族は、仙台でこの震災を超えてなお健在だ。
戦後、自動車教習所の教官となった父の元、教習所が閉まっているときに加藤さんも
私有地を運転させてもらい、早い段階で免許も取り、“クルマ”にあこがれた。
当時、仙台の街中にできたベッドタウンは、電気通信系の子会社や金属会社など
一流企業の工場も多く、加藤さんも就職を見越して東北工業大学高校へ進学する。
部活動をしながら、ラーメン屋とゴルフキャディーのアルバイトをした。
好奇心から、何にお金を使っていたのか? と聞いてみると、意外な青年時代が浮かび上がる。
「レコード買ったり…、あと、犬の世話。
飼い犬を拾ってきた時、全部面倒見るからって約束させられて、
予防注射の代金とか、全部自分のバイト代から出していた。」
* * *
就職率はほぼ100%、それもかなり売り手市場であった。
ゲームメーカーに惹かれ、3社ほどに興味を持った後、就職担当の教師に「タイトーなら寮があるぞ」といわれて決めた。
今でこそオンラインゲーム等の発展により、加藤さんの現在のデジタルというポジションとも結びつくゲーム業界だが、当時はゲームセンターが主戦場。
インベーダーゲーム、ピンボールの時代だ。
「東京に出たい」という思いが強かったというたっての願いから“寮”に惹かれ就職を決めた加藤さんが引っ越しを指示された先は、埼玉県・熊谷市の田んぼの真ん中だった。
「すぐに動くから」と言われ、布団と衣装ケース1個で、カーテンも無い寮に住んだ後、異動となった先は横浜の研究所。
若者だけで新しい開発をする部署で、新人が3~4人ばかりという珍しい環境だった。
「ゲームだけじゃなく、ゲームセンターに何があればおもしろいか。とにかく企画書を書き続ける毎日だった。」
やがて約1年での部署統合の際、本社でファミコンの営業となる。
当時はニンテンドーがようやくナムコにライセンシー許可を出し、メーカー各社がソフト作りに燃えていた時代。
アーケードゲームだったものが家庭の中へと入り込むことでコンシューマーという新たなターゲットを発見し、ダイナミックにフィールドを広げつつある時期だった。
日本中を上司と3人で問屋営業に周り、交友関係も広がっていった。
社内だけではなく、各地を巡るゲームメーカー各社の営業担当の人間が集う飲み会はいつの日か名物行事となり、「渋谷会」と呼ばれた。
「その会、今、何になってるか知ってる?」
と、可笑しそうに、懐かしむように聞いた加藤さんの答えに、私は軽く絶句した。
――東京ゲームショウ。
* * *
それから約4年間の仕事は、営業をやりながら開発も傍らで見つつ、宣伝もやるという多岐にわたった。「広告をつくる」ということに気持ちが向いていったのは、通信カラオケ「X2000」の立ち上げキャンペーン。
「1つのプロダクトを、宣伝広告からPRまで、首尾一貫して最初からやった。」
というそのキャンペーンは、まさにコンシューマーと企業とをつなぐという、これまでやってきたこと
のすべてを俯瞰する仕事だった。
何のために作っているのか。そして、だれに売ってきたのか――“仕事”という名の下に、ともすればバラバラに存在していたものが、届ける相手を見すえたときにひとつの線となった。
「広告の仕事をしよう。」そう思い、決めた。
タイトーに入社して実に7年目の転機だったが、高校卒業と同時に就職した加藤さんは、まだ26歳だったのだ。
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次回予告/Scene3;
広告人・加藤雅章氏の場合
ROBOTの黎明期と、デジタルの黎明期の間で。
(11月22日公開)