小さいころから自分の名前が嫌いだった。
名前は子供が一番最初に親からもらうプレゼントだと聞いたときは本当に嫌になったものである。異様に美々しく、大仰で、しかも親の多大な期待が透けて見えるようなわたしの名前。子供は親を選べないのと同様に、自分の名前を選ぶことが出来ない。
この理不尽な呪縛から逃れたくて色々なことを試み、失敗し、わたしは挫けた性格の女になった。
「俳号がこんなに平凡だというのは、コンプレックスの裏返しというわけか」
にやにやと笑ったのは句会の同期だ。気の置けない男だが、その分口の悪さは群を抜いている。
先日初めてそういう関係になったとき、名前を聞かれて渋りながらも教えてやると、案の定意地の悪い顔をした。
「名前負けしてるって、自分でも分かっているの。認めるのは癪だけど」
「まあ、派手な名前だもんな。気持ちは分からなくもない」
男はそう言って、もう一度わたしの腰を引きよせた。
会ではみんな俳号で呼び合うのが慣例だから、仲間内で私の本名を知っているのはこの男しかいない。さすがにベッドの中でも号で呼ばれるのは別な意味で気恥ずかしく、男のことを少しだけ恨めしく思う。
男の名前はシンプルだった。一番最初に生まれた子供だから始。その分、俳号は人を食ったような名前を平気で付けている。
作風でもわたしとは対極のセンスを持っているのは、そのあたりのことも関係しているのだろうか。仲間内で男の句は前衛と呼ばれ、わたしの句は古典と呼ばれる。彼は多作で、こちらはどちらかといえば寡作のほうだ。句会ではそのあたりも影響して、席が近かったことは一度もないし、よく話をするメンバーも自然と異なる結果になった。
なのに、わたしたちはなぜかこういう関係になっている。
睦みながら温める温度は男の詠みぶりとは違っていて、わたしのことを戸惑わせた。
「なあ、」
男はわたしの名前を呼ぶ。呼んで、答えを待たずに貪ってくる。それを心地よく感じながら、わたしは自分の傷が舐められていくのを感じる。名前負けした、嫌いな音を受け入れる気持ちになって、男の背を抱きよせる。
抱かれるよりも抱き寄せるほうが似合うわたしの名前は、この瞬間だけ自分のものになった気がする。
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花言葉:治療
*今回の画像は「Photolibrary」さまからお借りしました。