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地震から5か月が経ち
そうこう言ってる間に
来月9月11日にはもう
半年が過ぎようとしている。
元々短歌を
「なにかのために」
はじめたわけでもなく
「なにかのために」
続けているわけでもない。
短歌「で」なにかを得ようと
しているわけでもない。
ので、震災や復興に関して個人的には
「どうしても詠まずにはおれない歌」
「今!どうしても!歌として、この胸の
なかのたまらない思いをとにかく言葉に
して外側に出さなければとてもじゃないけど
自分が耐えられそうに、保てそうにない」
という歌を詠むことはあったとしても
「俺の歌でなんとか励ましてあげよう」とか
TVで見た光景を「なんかうまいこと言うたろう」的な
発想はまったくの0ですね。ないです。ありません。
最近は、特に震災後はって意味なんだけど
不用意に人の言葉や強い思いにふれることに
すこしおくびょうになっていて自分の所属している
ところのものも含めて短歌結社の月刊の歌誌や
本屋さんで売っているような短歌関連の総合雑誌
も1誌は定期購読していて郵便で家に届くものも
あるのに、実際にはなかなか表紙を開くことにものすごく
勇気、というか強い決心、お腹にぐっと力を入れて
さあ読むぞ!的な気構えなしには本を開くことさえも
できなくて、実際あまり他の人の歌が読めていません。
自分自身も、「ほんとうにこれが言いたいことなのか」
とか自分に問いだしちゃうと、もちろんどこまでもそんな
「ほんとうのきもち」とかエンドレスループの沼のような
ものでしかなくぐるぐると結論の出ないままあまり言葉が
スムーズにでなくなったりもします。
9月に兵庫県こころのケアセンターにて開催される
「災害発生時の危機管理対策と被災者・救援者のこころのケア」
という2日間の研修に有給をとって参加しようと思っている。
ぼくにとって、というか他の多くの人にとっても
そうであるのと同じように地震の問題は、そして復興と癒し、
再生の問題はこれから長い時間をかけて取り組んでいく
おそらくは人の人生や生き方、生命観や価値観に大きな
影響を与えた、今後もまた与え続けるような出来事であった
(ある)のだと思う。
5月には仙台に行った。それからどのように何ができるのか。
自分はどのように生きていくのか。明日なにかを失うとしても
なるべく後悔しなくていいような生き方はなんなのか。
私は、今、しようとしている選択はそういう選択であるのか。
そういうことを特に特別に熟考して意識するということではなく
常に意識のどこかにそのような気持ちが頭のなかやこころの
なかにいつもあたりまえのような通奏低音として意識のなかを
流れている。意識をそちらにむけなければ音が鳴っていること
音楽が流れていることにも気づかないがしかしちゃんとずっと
鳴っている音、そういうものに今なお続く震災の経験はなって
いるのではないだろうか。
震災後の当コラムで「手をあげるにも資格がいる」という話をした。
ぼく自身が福祉の世界の専門家として現場叩き上げで16年仕事
をしてきて「資格」ということをあらためて強く意識している。
1月に福祉関連の3つの国家資格のひとつである社会福祉士の
国家試験を受けようと思っている。もう申込み願書も取り寄せている。
震災には現実として向き合っていこうと思う。
そのなかでできることもできないこともたくさんあるだろうと思う。
嘆かないことにしようと思う。
できないことがあるのは、
ひとりの人間におよぶ範囲とおよばない範囲
そして自分自身にできることとできないこと、キャパシティや
ものごとの優先順位、仕事と生活のライフワークバランスなど
さまざまな条件や環境のなかで生きているのだ。
できないことを嘆く時間があったら自分にできることをしよう。
生活をがんばろう。たくさん笑ってたくさん大切な時間をすごそう。
生活をたのしもうと思う。生きていることをたのしめばいいのだと思う。
地震から5か月、3600時間がすぎた。
直接的な被害や影響の有無にかかわらず
あたりまえのように確かであった地面が崩れ、
日常が壊れていく経験は、確実に多くの人の
こころにダメージをあたえているだろう。
そんなことはあたりまえだ。
そんなのあたりまえだよ。
あれほどのことがあったんだもの。
それほどのことがあったのだもの。あたりまえだよ。
かなしくなったりふあんになったり不意に涙が出てきちゃったり
なにもおかしいことじゃないしなにもはずかしいことなんかじゃない。
日常は、そして非日常もやはり不公平と不条理の連続なのだ。
それを嘆く権利はもちろん誰にでもある。
不公平なのだ。不条理なのだ。なんでこんなことが!って思うのだ。
思ってもそれはとてもとうぜんのことで自然なことで誰からも諭されたり
たしなめられたり軽んじられたりするようなことじゃないのだ。
でも、日常が不公平であること、生きることがそしてつまりは死ぬことが
不公平と不条理の連続であることは今回の震災の有無にかかわらず
どこまでもそのように生まれ、人類は生きてきたのだ。
嘆いてもいい。
でも恨んだり羨んだりしていてはたぶんいつまでもそこでとまってしまう。
不条理や不公平もふくめて自分の人生は自分で引き受けるしかないのだ。
そのことがたぶん地震の前も後も変わらずにもっとも大切なこころがまえであり
自分の人生を自分で引き受けるという覚悟、自分しか引き受けられないという
顔をあげて前を向いたうえでの諦念、そのようなものがおそらくはこれからの
いちばんの力になるのだと思う。
3600時間後のあなたへ。
まずはなにより今年1年自分をいちばん大切にしてあげる年にしてください。
見えないところでたくさんのダメージを負っています。そのことをことさらに
意識することはないしそんなことをくどくどと考え込むようりも自然に日常で
たくさん笑ったりたのしんだりするほうがよっぽどいい。
それでも、からだは、こころも正直です。
むりをすればむりがでます。
だからとにかく今年1年、自分をしっかりとあまやかすくらいの気持ちで
自分自身のケアとメンテナンスにつとめてください。
ここからは長丁場です。だからこそ今できることをむりなく続けていきましょう。
ご自愛くださいますように。
ぼくもがんばります。
いつもありがとう。
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地に落ちて微かに動くちちははの知らぬ子どもが覗き込む蝉 (2011.08.28 瀬波麻人)