« ■flora World 193「時計草」 | Home | 夏のにんむを もらいました。 »
今日は旧暦の5月5日、端午の節句。
あらゆる生命が輝き精気が横溢する季節です。
既に梅雨入りしたこの谷間で、田植えの準備に追われている、お百姓になりたい、川口です。
かつて、まだ田畑に立った事がなかった頃、4年前までのわたくしは、初夏には、あらゆる生命が育ってゆくのだろう、と漠然と思っておりました。
実は、そうではなく、夏を迎える頃に、静かに朽ちてゆく生命も沢山あるのです。
春先に花を咲かせて実を結んだ冬の草草の多くは初夏を迎える頃には枯れてゆくのです。
そんな冬の草達の田畑における代表の一つが麦。
「麦秋」という美しい言葉がありますが、今が、まさに、その時期。
私の田でも大麦がこんな風に、黄金色に染まりつつあります。新たな命を実らせて、自らは死の刻を迎えようとしている神々しい姿です。
この麦たちのように、新たな命を実らせて、そのものの命には終わりを迎えつつある草草がある一方で、今、まさに育ちつつある夏の草草たちもいます。
そんな夏の草草の代表が稲、お米です。
麦が実っている同じ田の片隅の苗床で、稲はまさに幼年期ならではの美しい緑色に輝いています。これから秋の実りを目指して成長して行く、幼い命の鮮烈な姿です。
こんなに大きくなったのですよ!
他方、こんなに妖艶に輝いていたエンドウも、今はこうして種を残し静かに滅びの時期を迎えています。
この様に、生命はとどまることなく、切れ目なく、交代してゆきます。
一つ一つの命は滅びますが、同時に沢山の次の命の種を残してゆく。
その滅びてゆく命の足元で、既に芽吹き始めている命が盛夏に向けて繁ってゆく。
やがて実りの秋にはその命も滅び、実りを残す。
田畑の総体で見るならば、生命は消えることなく、減ることなく、引き継がれ、豊かに、豊かに、と巡ってゆくのです。
想わず、頭を垂れずには居られない、そんな光景です。
だって、そのめぐみを頂くことで私も命を保っているのですから。
そもそも、宇宙の中にあって、わたしたちの生命も本来はそんな風に巡るべきものだったのではないでしょうか?
それなのに、今の私達は、何百万年もの生命の巡りから産まれた貴重な化石燃料を数百年で使い尽し、何億年もの時を経て鎮まっていたウランを掘り出し、燃やして、刹那に消える電気へと変えて蕩尽し、生命の巡りを妨げる厖大な放射性物質を排出しています。
私たちは本当にそんな風にしてしか生きられないのでしょうか?田畑で生まれ、死んでゆく命のあり様を見ていると、決してそうではないはずだ、と想うのです。
さて、間もなく、この谷間の田にも水が入ります。気が遠くなるような、田植えの日々が始まります。