« ライブ鑑賞リポート | Home | SALSAは、ドンシャリ!! »
はっ、はっ、はっ、と一足ごとに自分の吐く息が白くけぶる。
細くうねる山道は見通しが悪く、出発の時よりも明らかに足が重たくなっているのが分かった。あと少し。もう少し。自分を叱咤するように、僕はナップザックを背負いなおした。
月に1回山へ行くようになったのは、同じ職場の先輩が誘ってくれたのがきっかけだ。正直、まったく関心はなかったが、尊敬する先輩だけに声を掛けてもらえるのは目を掛けられているようで嬉しかった。
デスクワーカーの常で慢性の運動不足だった僕に、先輩はことあるごとに山の良さを語ってきかせた。澄んだ空気、自分の足で山頂に登る達成感、心地よい疲労と夢も見ないほどの快眠……。
「そんな大げさに考えなくっていいって。2,3時間で登れるところだけ、行ってみようよ」
渋る僕を説き伏せ、一緒に道具を買いに行き、一番最初に登ったのは茨城の閑居山だった。登りやすく整備された道でもやはり初心者にはつらく、でも、山頂は思った以上に気持ちよかった。風が冷たくて、空が近くて。
翌日足はぱんぱんに腫れていたけれど、ぐっすり眠れたおかげで不快感はほとんどなかった。今思えば本当に初心者向けの山で達成感なんて大げさかもしれないけれど、出不精で運動嫌いな僕にとっては大きなものだった。それに、頭を空っぽにして眠る喜びを感じたのは久しぶりだった。
また行ってもいいかな、と言った僕に先輩はひどく嬉しそうな顔をした。
それから、都内から一日で行って帰れる距離の山を順々に攻めた。
根を上げそうになっても、先輩が先にいたから付いていけた。鷹ノ巣山、源氏山、花貫渓谷、西山、高尾山。少しずつ難易度が上がっていくのが、自分が成長していることを実感させた。できなかったことが出来るようになるのは幸せなことだ。先輩の友人たちにも紹介され、僕は学生時代ぶりに気の置けない友人をつくった。山に行かない週末は飲み会をしたり食事をしたり。
すっかり社交的になった僕を、先輩は面白がって何度もからかってきた。
その先輩が辞めると聞いたのは、先月のことだ。次の考査時期には同期の中で最初に課長になるだろうと言われていただけに、そのニュースはあっという間に社内を駆けまわった。
「実家に戻って家を継ぐの。果物屋さんになるんだよ、私」
二人で残業を終えたあと、コーヒーを飲みながら先輩は淡々と教えてくれた。山は登るんですか、と聞いたら登るよと答えた。
「どこにいたって、登るよ。私、山好きだもん」
送別会で渡したレインウェアを抱きしめて、先輩は軽やかな笑顔で僕の前から去っていった。
あと少し。もう少し。切れがちになる呼吸を整えて、僕は足を踏み出した。いつもは二人で登ったコースを、今で一人で辿っている。空を仰ぐと、頭上には大きく切れ間をのぞかせた空が見える。直に山頂だ。僕は一人で歩ける。自分の足で。教わった通りに足を踏み出せば、少しずつでも積み重ねていけば、必ず。
================================================
*今回の画像は「Photolibrary」さまからお借りしました。