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2015/08/12

皆さん、おはようございます。
長らくご無沙汰致しました。
この間、お寺に勤め始めまして、
とりあえず慣れることに専念しておりました。

ということで、お寺ネタ。
このところ、お盆の回向期間ですので、
毎日経木塔婆の読み上げをしております。
「○○家先祖代々之霊、増進仏果菩提の為」
「○○△△信士、増進仏果菩提の為」
唱えては金一丁している今日この頃です。

増進仏果菩提の為、というのはいったい何でしょう?
ぶっちゃけて言えば、
あの世、若しくは転生先における仏道修行が進み、
悟りを得て仏陀の境地に到達しますように、
ということです。

こうして書いてしまうと、
悟りや解脱について考えたことのない人には、
今一つピンとこないと思います。
悟りを得て、仏陀の境地に到達するということが、
どういう状態になることなのかがわからないし、
我が身にそれが起きた場合、
喜ばしいのか、嫌なのかを想像したこともありませんから。

その境地がどんなものか、
一言で表すならば、
「苦悩がない」という言葉に尽きるでしょうか。

何か心や体にとって、痛いことを経験するとします。
普通であれば、その時も苦悩しますし、
次にその経験をせずに済むことを望み、
その経験が訪れるかも、というシチュエーションであれば、
確実に恐怖し、悩むことだと思います。
しかし、仏陀の境地にあれば、
痛みは感じますが、それが心の苦悩にはなりません。
どうしてこんな痛みを味わわねばならないのか!
なんて考えませんし、次に同じことが起きるにせよ、
恐怖したりはしません。
恐怖で苦悩することがないのです。

逆に、心や体にとって、心地よいことを経験するとします。
普通であれば、その時も喜びを感じますし、
再びその経験が出来ることを望み、
二度とその経験が出来ないかも、ということになると、
渇望は増し、恐怖し、苦悩に変わってしまうことだと思います。
しかし、仏陀の境地にあれば、
心地良さは楽しめますが、それが苦悩には変わりません。
もっと楽しみたい、なんて考えませんし、
二度とないことについても、何とも思いません。
喜びに執着することがないのです。

苦痛は最小限、喜びは最大限、
しかもそのどちらにもとらわれないから、
苦痛も喜びもその場限り。

これがどれだけ素晴らしい状態かわかるでしょうか?
自分が苦痛を感じていることを客観的に考えて、
それが哀しく、残念なことである、と思ったことのない人には、
ひょっとしたらこれだけ解説してもわからないかもしれません。

しかしながら、この文章の目的は、
仏陀の境地の素晴らしさを説き明かすことではありません。
読み上げの趣旨こそが目的です。

「誰それ、増進仏果菩提の為」

この誰それに代入されるものは、私ではありません。
「梵智惇声、増進仏果菩提の為」
これは、未来において誰かが唱えてくれる読み上げでしょう。
私が回向の場においてすることはありません。
つまり、自分以外の誰それが、仏陀の境地に到達しますように。
そんな素晴らしい状態になりますように。
それが読み上げの趣旨です。

その願いそのものが素晴らしいではありませんか。
でも、実際に人間がしていることは何かといえば、
自分の増進仏果菩提の祈願ですらありません。
私たち密教行者が自行で祈願するのは、
悉地成就、ということなので、同義語です。
行中に
「護持仏子悉地成就の為に」
と唱えるのは、
「梵智惇声、増進仏果菩提の為」
というのと、同義語なのです。

大抵の人が願うのは、
増進仏果菩提とは無関係であったり、
酷ければ、全く逆のことであったりです。
増進仏果菩提の素晴らしさを想像できるだけに、
私にとってどれほど残念で悲痛なことか、おわかりでしょうか?

2015/08/12 11:43 | bonchi | No Comments