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2015/05/25

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携帯を忘れてきてしまったことに気付いたのは、電車に乗ってからだった。
取りに帰ろうかと一瞬考えたが、すぐ辞めた。リュックには必要最低限のものが入っているし、せっかく座席が空いて座れたばかりだった。この電車は本数が少ない。

5月の車窓はうららかだった。平日の午前中だというのに著名な観光地を通るこの路線はそこそこ混んでいて、前方の高校生らしき制服の集団がきゃらきゃらと明るい声を立てている。目をつぶってさえ帯状にさしこむ光が頬に感じられ、心地よい揺れが眠気を誘った。

この時間の電車に乗るのは久しぶりだった。初めて乗ったのは、中学校の修学旅行だったと思う。あの時は、自分がまさかまたここに来たくなるとは思わなかった。子供の眼から見ても富士山は壮大だったが、登山のつらさに辟易した帰り道は筋肉痛がひどくて振り返るのも嫌だった。

その次は、夫と付き合い始めたころだった。
東北出身で富士山を見たことがないという夫は、車窓に張り付いていつまでも山の姿を追いかけていた。凄いな、大きいな、と当たり前のことにはしゃぐ夫の姿は少し気恥ずかしかったけれど、同時にほほえましくも感じた。
車窓から眺めるだけに終わったから、今度は登りたいと夫は珍しく駄々をこねた。
山小屋に泊まりたいとか、ご来光を山頂から見てみたいとか。

「そのうちね。今登ったりしたら、わたしのほうが倒れちゃう」
「そうかぁ……でも、絶対だよ。富士山への執念なめんなよ」

念を押すように凄んでみせて、夫は約束だと何度も言った。
実際、夫は登るつもりであるらしかった。登山の専門雑誌を買ってみたり、さり気なく新しいリュックが欲しいとねだってみたり。
そのうちね、そのうちね、といなしている間に、とうとう6年経ってしまった。

車内アナウンスが乗換駅を知らせている。リュックを持って立ち上がり、騒めきだした集団の最後尾についた。かたん、と電車の揺れでリュックの中も揺れた。どきりとしたが、きちんと封をしてきたはずだ。大丈夫、と言い聞かせて手すりを持った。

そういえば、おとぎ話ではあの山の頂上で薬を燃やしたんだったっけ。
かぐや姫だ、と山の姿を眺めながら思いだす。この話も夫から教えられた。帝も登った山なんだよ、と得意そうに夫は話していた。
痩せた頬で、チューブを突っ込まれたままの鼻をひくひくさせて。

「俺も死んだらさあ、富士山で焼いてほしいなあ」
「なんでそんな縁起でもないこと言うのよ、バカ」
「いや、むしろ縁起よくない? 天に届くようになんて、愛じゃん」

ピリピリしているわたしより、その頃の夫はむしろおおらかだった。愛してるよー、と毎日アホのように繰り返すものだから、看護婦さんにからかわれるくらいだった。

そして妻としてしかるべき儀式を終え、手続きを済ませた際に、わたしはそっと夫の骨を持ち出した。骨壺に収めるべき灰の量が少なかったことは葬儀屋さんも気付いたかもしれない。でも、見逃してもらえた分を持って、わたしは今日ここに来た。

今日は登山日和だ。わたしは今から富士山に登り、山小屋に泊まる。夫と二人で。
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*今回の画像は「Photolibrary」さまからお借りしました。

2015/05/25 05:34 | momou | No Comments