« 日本画の材料ー三千本膠ー | Home | 5月5日は端午の節句(子供の日) »
三つ先の椅子に座る形のいい後頭部を眺めているとき、あたしは彼が好きだなあって思う。少し陽に焼けた赤い頬、襟足のところで揃えられた黒い髪、女の子のように華奢な項。あたしの知る彼は言ってしまえばそれらのパーツの集合体でしかないけれど、きれいだなあと思う。なんていうか、無垢? 勿論彼の中身までそうとは限らないって知ってるけど、そういう風に見えるのはあのとき差し伸べられた手があんまりにもきれいだったせいだとあたしは勝手に理解している。
あの日、あたしは朝からものすごくブルーだった。渋谷まで電車で40分ちょっとのくせにもっさい制服で有名な高校にうっかり入学しちゃったのと、服装検査があるのを忘れてしっかりマニキュアを塗ってきちゃったのと、生理だったのとがごっちゃになって朝から泣いちゃいそうだった。泣かないけど。泣くのは制服より更にダサい。
ため息をつきながら頬杖をついて代わり映えのしない景色を眺めてたら、隣に誰かが座った。この時間のバスは結構混んでいるのでそういうことはざらにあるから、あたしは気にせず自分の不幸に耽溺することが出来た。とりあえず学校行く前にコンビニ。除光液シートを買ってもダッシュで間に合う、とか考えてたら、いきなり太ももに手が伸びてきた。
まさか痴漢? 電車じゃないのに? ちらりと見るとその手はただあたしの太ももにたまたまのっちゃいました、って感じで微動だにしない。騒ぐのもなんか自意識過剰って感じの控え目さだ。一瞬考えて、あたしはそれを無視することにした。クラスの女子が痴漢されたことを妙に誇らしげに話しているのが脳裏に浮かんだ。あれはダサい。大体そういう女子はかわいくない。なんか痴漢されて喜んでいるっていうのがさもしい。だからあたしは全神経を集中させて、なんか妙にあったかい温度が載っているのを無視しようと務めた。
手はまったく動かなかった。降りるはずのバス停が近づいてきてもその手がどく気配もなかった。サラリーマンなのか、視界にはスーツっぽい上着の端がちらちら見えた。嘘だろお? 最低だなコイツ、と思ったけどびっくりすることにあたしは自分からその手を振り払うことも立ち上がることもできないのだった。
バス停はどんどん近付いてくる。
「次、降りるよ」
マジでどうしよ、と思った瞬間、目の前にきれいな手が差し伸べられた。知らない子だった。たことかなんにもない、つるっとしたキレイな手。視線をあげたら、その手の持ち主はダサいとしか言いようのないうちのブレザーをきた男の子だった。
あたしは反射的にその手をつかみ、立ち上がって、ついでに隣の男の足を踏んだ。ぐえ、と蛙のような声がしたが振り向かずに降りた。御礼を言おうと思ったのに、男の子はさっさと行ってしまったらしくその日は会えずじまいだった。
その日からあたしはバスで彼の姿を探している。
毎日同じ席に彼は座ってて、あたしを見ても会釈もなんにもしない。明らかに視界に入っててもこっちを見ることすらない。だからあたしも知らないふりで、ただそのなだらかな後頭部を眺めている。
名前も知らない彼のことが、あたしは多分好きだと思う。
===========================================
花言葉:使命、伝令
*今回の画像は「Photolibrary」さまからお借りしました。