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音楽に携わりはじめたころから自身の中で「自己満足な歌は歌いたくない。」というモットーがあった。
常に、観客が「きもちいい」と感じるものを、そして、自身が幸せだと感じるものを発信する!と豪語していた。
「自己満足な音楽はいらない、歌わないほうがいい」
そう思ってたが、
自分が発信してきたものはエゴだったのではないか?と疑い始めている。
「日本人はエロ(気持ちいい)という感覚を隠そうとするしタブーとしてしまう。
でも、我々舞台人というのは声楽でも舞台でも、バレエでも、お客様を気持ちよくさせなきゃいけない。
気持ちよくなりたいから、お客様はホールに足を運ぶわけでしょ」
と、児童劇団で恩師が言っていた。
それと、
「自分が気持ちよくないと、相手も気持ち良くない。」
そんな考えが若い自分の中にはあった。
私の「歌うこと」とは「呼吸すること」と信じてやまなかった
そんな「歌」の世界に入るようになってから
真剣に真正面から音楽と、自分の歌唱と向き合う時間が格段に増え
「趣味」や「本気」という言葉では済まされない「プロ」としての音楽や歌というものは
自分の感覚は必要ない、切り離さねばならないことを気付かされた。
聴いている者、観ている者から、いわゆる「感動」や「感情」を‘引き出す’ための作業をするのが我々、表現者の仕事であり
演者の私たちの感情や気持ちなんていうのは、関係ない、、ということを師匠から教わった。
‘引き出す’ことと‘押しつける’ことは違うということに、最近ようやく気がついた。
「他者の意見や存在を、自身の身体を通じて他者に発信する
そして、自身の身体を通じることによって、私自身の思想や存在をも発信する表現者になりたい」と16歳から公言していた。
(恥ずかしいことながら、この文は大学入試の小論文や自己推薦書にもたくさん列挙している。
ちなみに私は芸術の大学でも専攻でもない。)
しかし、この「私自身の思想や存在をも発信する」という行動が必要ないということ。
これこそ、‘押しつけ’であって、もはや‘表現’ではない。
私は今まで、呼吸するように自由に、思うがまま歌って、その歌を聴いた人たちが
「ずっと聴いていたい、、あなたの歌、声が好き」と言う、その言葉を耳にすることで
自分に酔っていたことになる。
それは趣味の世界でしか通用しない。アマチュア相手の私だからそんな言葉をかけてもらえていたのだ。
もっと言葉を変えると「専門でもないのに上手なんだね」だろうか。
「ずっと聴いていたい、もう一度聴きたい」と思わせる歌を歌う技術を身につけるために
日々、レッスンに励んでいたけど
レッスンやトレーニングというものは孤独の世界
当たり前の話だが、自分が気持ちいいと思う表現は他人からみると気持ちよくなかったりする。
「自分に心地よく聴こえる歌声は最悪な歌声だと思ってたほうがいい」と声楽を始めた当初から言いつけられていた言葉で
「外から聴いて素敵な歌を歌っている自分」の中でどんなことが行われているのか
例えば、どんな筋肉を使って、口の中がどうなっていたとか、
そんな感覚をインプットしておかなければならない。
その感覚をごく自然に、意識しなくても再現できるように
自分のものにするまで、時間がかかる。
それは相当時間を有する。それまでは違和感との闘い。
もちろん自分自身、心地よいわけがない。
その作業が自然になってから、また観客はもちろん自分のためにも歌えるのである。
「自己満足な歌は歌いたくない」でも「自分が気持ちよくないと、相手も気持ち良くない」
その考えは、どうあがいても自分の中に健在で
他者が心地よいと思う音楽やその他表現を、自分の中の表現能力に開拓(トレーニング+習得)して
自分の中で心地よい、幸せだと感じる歌や演技、文章表現を、
他者が気持ちいい、心地よいと感じてもらえることがベストである
と自己完結した今日この頃である。