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2015/01/11

皆さん、おはようございます。

「だろう」ではなく、「かもしれない」と思え。
こう言われる分野は何かというと、
他にもあるでしょうが、一般的なところでは
運転と呼ばれる行為です。
主に、バイクや自動車。
教習所の学科授業で言われることです。

しかし、出来ていない人は数多くいます。
自分で言うのもなんですが、
私は出来ているというか、
割と最初からこういうタイプの人間です、
運転に限らず・・。

ちなみに、私の親父はよく
「~はずや」と言うのですけど、
私はこれを聞くといつもイラッとします。
「その根拠は何だ?」となってしまうのです。
例えばどこかから送金される予定になっていることを、
親父は「○○から送ってくるはずや」と表現します。

約束はしているのでしょう。
しかし、その○○がその時に予定通り金を用意出来ている、
という保証は、こちらでは致しかねるところですし、
金は用意出来ていても、ふと悪心を起こし、
送るのやめとこう、とトンズラしないという保証はありません。
私なりに表現するとしたら、それは
「○○から送金される予定である」
となります。
そこには安心はありません。
先方の事情も、先方の良心も、
すべてを疑ってかかります。
「何かが起こって送金しないかもしれない。」と。

私は母親によく包丁をつきつけられた経験から、
ナイフなどを持った人間は、
無条件に信用できなくなります。
料理などの必要があって持っているのはわかっていますが、
いつ何時その相手が発狂して私を刺すかもしれません。
これは自分自身に対しても同じで、
私がナイフを持っている時、
ひょっとすると私が発狂して自ら刺すかもしれない。
道を歩く時でも、誰かが私の命を狙っているかもしれない、
そう思っています。
通り魔が狙ってるのも含むのですから、油断は出来ません。
すれ違った人間が、私の後ろに行ったあと、
いきなり発狂しないという保証はありません。

この私から見ると、世の中の通行人は、
およそ世の中に対する疑いがなさすぎます。
特に、運転免許をとったことがなさそうな自転車ライダーなど、
車の方が自分に気を付けてくれているはず、だろう、
そういう意識丸出しの光景によく出くわします。
バイクや自動車の運転手の目が万能、
運転の腕前は全員が世界一、
そんなことはあり得ません。
ちょっとしたタイミングの違いで見落とすこともある。
着衣が背景と保護色の関係であるなら絶望的。
そのくらい、理屈で考えてわからないのでしょうか?

私が他のドライバーについて考えていること。
それは、基本的に他のドライバーは、
交通法規を守る気のない盲人である、
ということです。
もちろん、そうでない人はいますが、
そんな出会いはごくまれなラッキーだと思っています。

こんな私がみんなに思うこと。
それは、目視しろよ、ということです。
とにかく確認しなきゃ気のすまない人になってほしいです。

2015/01/11 08:44 | bonchi | No Comments