« | Home | »

2014/10/13

m279

うちの母、みどり(59)の趣味はカラオケだ。一緒に行ったことがないので腕前はよくわからない。そこそこ上手いということになっている。確実に知っているのは週に1回、近所のカラオケスナックに通っていること、だいたいへべれけになって帰ってくることくらいである。

「たーだいまー」

変な節をつけて、酔っ払いは上機嫌で帰ってくる。普段は非常にまじめで、厳しいといってもいいほど挙措に厳しい母が、なんだかただのオンナになってしまったような気がする。

 

母の腕前についての風聞は、時々聞く機会がある。わたしが勤める税理士事務所の顧問先に、同じスナックに通っている社長さんがいるからだ。
そこの常連のほとんどが応募するという地元ラジオ局主催のカラオケ大会に母がエントリーし、先日予選を突破したこともそれで知った。日付を聞くと、先週の日曜日だった。予定があるか聞かれた日だ。デートの予定があるというと、特に深追いせず頷いていた。
そうか、そこであのブルーのドレスの出番があったのか。

「みどりちゃん、きれいやったでえ。」

関西人の社長は、律儀に本選の日も教えてくれ、ぜひ応援に来てやれと痛いくらいに肩を叩いた。

ブルーのドレスは、父が突然送ってきたものだ。
航空便で届いた父からの荷物の中に、鮮やかなサテン地のチャイナドレスが入っていた。いつどこで誰が着るんだこれは、と一瞬唖然としたが、母がごく平然と受け取っていたから、二人の間ではなんらかの話が事前にかわされていたのだろう。試着したら、サイズは驚くほどぴったりだった。どう?と鏡の前でターンしてみせた母は子供のようにはしゃぎ、わたしに写メを何枚も撮らせた。その姿も、やっぱり母じゃなくて、みどり(59)というただのオンナみたいだなぁ、とわたしは思った。

母が母じゃなくなるのは、なんだか妙な気分だ。
“おかあさん”という生き物じゃなくて、わたしと同じように恋をしたり失恋したりやけ食いしたり穴を掘って埋まりたくなったりしそうに見える。そんなときの母はちょっと若く見えるし、楽しそうだし、少しだけよそよそしい。わたしの知らない母は、カラオケが好きで、たぶんそこそこ歌がうまくて、社長とも仲が良くて、みどりちゃんとか呼ばれてお酒も飲んで、わたしの知らない顔もあるのだろうと思うと、なんだかすこし、もやっとする。

「お母さん、ビデオ撮ってあげようか。」

え、なに、突然?
帰宅した母に告げると、目を丸くする。今日はスナックに行かない日なので、通常の母のままだ。スーツのジャケットを脱いできょとんとしている母に社長から聞いた日付を言うと、急に照れだして、やだーもー何言ってるのいやーと娘のように恥じらいだした。ちょっとこちらが面くらうほどの恥ずかしがりかただ。
そして、ひとしきり悶えた後、「お願いできる?」と頼まれた。

もちろんその日は、朝から会場に行くつもりだ。わたしの知らない母を、でもたぶん父は知っている母を、ブルーのドレスを着て歌う母に会いに行こうと思う。

================================================
*今回の画像は「Photolibrary」さまからお借りしました。

2014/10/13 10:15 | momou | No Comments