« 魂のステージ2 | Home | 自分は進化しているのかどうか »
窓を開けた瞬間、熱風に近い温度がむわっと肌に押し寄せてきて眩しい太陽が目を焼いた。その暑さに、洗濯籠を持ったまま少し立ち眩みした。ぐらりと傾ぎそうになる体を建て直し、籠を置いて外を眺める。平和な風景。傍若無人なほど伸びた木の枝、途切れなく続く蝉の声、脇の下を汗が流れる。
私は今、どこにいるのだったろうか。
暑い暑い日だった。
諸肌を脱いで鍬をふるう母の後ろで私はじゃが芋を選っていた。供出しなければならない量は日に日に増え、農家は裕福だと言われつつもうちのような小作はさほどでもなかったから、小さな小芋を種芋用に僅かに残すばかりであとは殆どを食用に回さなければならなかったのだ。私を筆頭に食べ盛りの女の子ばかり残された我が家では、すでに父が祖霊となり、兄は葉書を一枚よこしたきりで行方が知れなくなっていた。手を休めるんじゃないよ、と振り返りしな母は繰り返して私を咎め、自分は蝉の声に打たれながら滝のような汗を真っ黒に焼けた肌に流していた。
あの日戦争が終わったらしいということは、後で聞いた。私の地元にはラジオが一台しかなく、その一台も離れた集落の地主の家にあったものだから間に合わないと判断されたのだろう。陛下のお声を聴いたのは結局だいぶ後になってからで、録音されたものだった。だからかもしれないが、私の母は長いこと戦後という言葉を信じなかった。結局帰ってこなかった兄のことを、母はずっと待ち続けて、死んだ。
私が東京に出てきたのは死んだ父の歳を超えてからだった。焼野原だ、地獄絵図だ、田舎へ伝わるのはなんだか物凄い話ばかりで、そういうところで背の高いアメリカ人がガムとチョコレートを配っているという。私は彼らを見てみたかった。自分が小さな芋を選り分けている間に彼らが何を食べてきたのかを知りたいと思った。急拵えのバラックが並ぶ銀座で初めて手渡されたチョコレートは、驚くほど大きくて甘かった。すいるすいると呪文のような言葉は笑顔を指すということもその時知った。笑いながら、彼らはものすごい富をまき散らしていた。
その衝撃のまま、私は東京にとどまり、そうして、今、洗濯籠を抱えて暮らしている。
「おばあちゃん、どうしました?」
ぼうっとしていたのが見えたのか、嫁が奥からひょっこり顔を出した。どうもしないと手を振ると素直に台所のほうへ引っ込み、代わりに孫が私の手からひょいと籠を奪い去ってベランダに消えた。歳なんだから無理すんなよと言ってくれるこの孫は、今年赤紙が来たときの兄の歳を数える。振り返った孫の顔は、はにかんだときの兄に、どこか似ているような気がする。
「ばーちゃん? 具合悪いなら横になってなよ」
「大丈夫だ。なんでもないよ」
手を振って否定すると、安心したように笑う。あの暑い暑い夏は、この孫には決して来ない。
来てはならないと念じながら、あの日と同じように注ぐ日の光を浴びていた。
================================================
*今回の画像は「Photolibrary」さまからお借りしました。